まぜまぜ(^^♪ひふみ神示 その2

ブースカ明日香さんを真似て書いてみました(^^) スマホでしたら、横画面にすると見やすいかと思います。 5/11改題しました。

(編集中)欠番の謎、2

(編集中)ひふみ神示  欠番の謎、2

 5/11 15:47

 

五十黙示録の次のページに、

 

 

『訳者から』

 

この黙示は七巻で終わりますが 発表できない「帖」が、かなり多くあります。

 

この黙示七巻と、従来発表されてゐる三十巻を合わせて三十七巻となりますが、

実は発表を禁じられてゐる「巻」が十三巻もあり、合わせて五十巻となるわけであります

(発表されているが書記されてゐません)。

 

これら未発表のものは、或る時期が来れば発表を許されるものか、許されないのか、現在の所では不明であります。

 

尚、この黙示が二十四巻から三十巻に至る根幹であり、先に発表した七巻(黄金の巻以下のもの)は、二十三巻の所から出た枝のようなものであります。

 

また、第三巻の第二十四帖は未発表のため、欠帖となっております。

   「星座の巻、第二十四帖」(※satonory4949による注釈)

 

昭和三十六年                                               於北伊勢

                       岡 本 天 明

 

 

 

と、明らかに未発表の帖・巻がかなりあることが天明さんによって書かれています。

欠番の謎

ひふみ神示  欠番の謎

 

 

ひふみ神示をまぜまぜする際に、第〇〇帖だけでなく、

通し番号(〇〇〇)も気に留めていました。

 

f:id:satonory4949:20200511151850p:plain

 

まぜまぜするには、通し番号があったほうが

やりやすいですし、

私なりに修正・変更したところと、

 

気になるところがありましたので、

まとめました。

 

 

・帖番号・通し番号振り直し まとめ

 

 

 

(1)帖番号・通し番号振り直し

 

第十二巻 夜明け(四あけ)の巻、第十二帖(三三二)

は文中に日付が

8月の7日、と、8月の8日、と、

二つあり、

 

第十二帖(三三二)       

  ↓

  第十二帖(三三二)

と 第十三帖(三三三) に分割し、

 

 帖番号・通し番号の振り直しをしました。

 

 

元の第十三帖(三三三)は、 →  第十四帖(三三四)とし、

 

第十二巻 夜明け(四あけ)の巻 は全十三帖 が、

           →     全十四帖 に変更。

 

 

続いての、第十三巻 アメの巻 は

 

第一帖 (三三四) → 第一帖 (三三五)・・・通し番号の変更

第二帖 (三三六) → 第二帖 (三三六)・・・以降、そのまま

 

 となっています。

 

(2)通し番号が同一

 

第二十八巻 夏の巻、

 

第二十一帖(七三八)

第二十二帖(七三八) と同一でしたので

 

 

第二十二帖(七三九)・・・通し番号+1、

第二十三帖(七四〇)・・・以降、通し番号+1で振り直し。

 

 としました。

 

 

(3)通し番号が飛んでいる

 

 

第三十巻 冬の巻 、全 一帖

          補帖一帖

ですが、

 

一帖(七七一)【通し番号を振りなおしているため】

補 帖(七八七)【通し番号そのまま】

 

だけで終わっています。

 

通し番号、を考慮すると、帖が明らかに欠けています。

 

欠けている分に

帖番号・通し番号を振ってみました。

 

 

第三十巻 冬の巻   

第  一帖 (七七一)・・・あり

第  二帖 (七七二)・・・欠番ー 1

第  三帖 (七七三)・・・欠番ー 2

第  四帖 (七七四)・・・欠番ー 3

第  五帖 (七七五)・・・欠番ー 4

第  六帖 (七七六)・・・欠番ー 5

第  七帖 (七七七)・・・欠番ー 6

第  八帖 (七七八)・・・欠番ー 7

第  九帖 (七七九)・・・欠番ー 8

第  十帖 (七八〇)・・・欠番ー 9

第 十一帖 (七八一)・・・欠番ー10

第 十二帖 (七八二)・・・欠番ー11

第 十三帖 (七八三)・・・欠番ー12

第 十四帖 (七八四)・・・欠番ー13

第 十五帖 (七八五)・・・欠番ー14

第 十六帖 (七八六)・・・欠番ー15

第  補帖 (七八七)・・・あり

 

 

その欠けている帖は、実に十五帖分、となります、

 

第二帖(七七二) から 第十六帖(七八六) の帖は、

 

どこにあるのでしょうか?

 

いつ出てくるのでしょうか?

 

 

 

とても気になります。

 

 

お知らせ、2(まぜまぜ完了)

おかげさまで、『まぜまぜひふみ神示

終了しました。

 

通し番号が振られている、月光の巻までで

良いようです^^

(五十黙示録は通し番号はないです)

 

約一年と三ヶ月、かかりましたが、

無事に最後まで終わらせられたことで

少しホッとしました。

 

このブログを読んでいただいた皆様、

スターを押していただいている方々、

SNSでこのブログを紹介してくださった方々、

 

そして、このブログの紹介記事を書いてくれ、

また、このブログを書くきっかけを作ってくれた

ブースカ明日香さん、

 

などなど

皆様に感謝申し上げます。

 

ありがとうございました。

 

satonory4949

まぜまぜ 八二六~八四九

ひふみ神示 まぜまぜの第八二六帖~第八四九帖

 

 

ひふみ神示(補巻)月光の巻

全六十二帖・通し番号(七八八)~(八四九)のうち(八二六)~(八四九)

自  昭和三十三年十二月二十五日

至  昭和三十四年 三月  二日

 

 

826>849

月光の巻、第三十九帖(八二六

 

何ごとが起ってきてもそなたは先づよろこべよ。

 

それが苦しいことでも、かなしいことでも喜んで迎へよ。

 

喜ぶ心は喜び生むぞ。

 

人民よろこべば神よろこぶぞと申してあろが、天地はれるぞ。

 

輝くぞ。

 

そなたは先ばかり見てゐるぞ。

 

足で歩くのぢゃ。

 

足もとに気つけねばならんぞよ。

 

そなたは自分ひとりで勝手に苦しんで御座るなれど、みなが仲よう相談なされよ。

 

相談結構ぢゃなあ。

 

相談して、悪いことは気つけ合って進んで下されよ。

 

 

月光の巻、第六十二帖(八四九

 

そなたは現実世界のことばかりより判らんから、

現実のことばかり申して、一に一たす二だとのみ信じてゐるが、

現実界ではその通りであるが、それが平面の見方、考へ方と申すもの、

いくら極めても進歩も弥栄もないのぢゃ。

 

一に一たす一の世界、一に一たす無限の世界、

超現実、霊の世界、立体の世界、立立体の世界のあることを体得せねばならんぞ。

 

そなたは心をもって居ろうがな。

 

心があれば心の属する世界のある道理は判るであろうが。

 

心で描いて、心で先づつくり出してから行為することも、

その順序も判るであろうがな。

 

心のうごきが先で、肉体がその後でうごくことも判って居ろうがな。

 

心の世界にないものは物質の世界にない道理も判って居ろうがな。

 

何故に迷ふのぢゃ。

 

霊界が主で現界が従であること、判って下されよ。

 

逆立してそなた自身で苦しんでゐること、早う得心して、

うれしうれしで暮して下されよ。

 

三月三日。

(月光の巻了)

 

 

827>848

月光の巻、第四十帖(八二七

 

判らんことは神示にきくがよいぞ。

 

遠慮いらん。

 

そなたは一足飛びに二階に上がりたい気持がぬけない。

 

何事も一段ずつ、一歩づつ進まねばならん。

 

それより他に進み方はないのぢゃぞ。

 

先づそなたの中にゐるけだものを言向け合さねばならんぞ。

 

よく話し、教へ、導かねばならん。

 

けものを人間と同じにしようとしてはならん。

 

けものはけものとして導かねばならん。

 

金は金。

 

鉛は鉛ぞ。

 

鉛を金にしようとしてはならん。

 

鉛は鉛として磨かねばならんぞ。

 

浄化とはそのこと。

 

世は七度の大変り、いよいよの段階に入ったら、

何が何だか、われよしの人民にはいよいよ判らなくなり、

あせればあせる程ふかみに落ち込むぞ。

 

心の窓を大きくひらいて、小さい我の慾をすてると、遠くが見えてくるのぢゃ。

 

見えたら先づ自分の周囲に知らせねばならん。

 

知らすことによって次の道がひらけてくるのぢゃ。

 

自分だけではうれしうれしとならん。

 

うれしくないものは弥栄しないぞ。

 

冬になったら冬ごもりぞ。

 

死ぬ時には死ぬのが弥栄ぞ。遊ぶ時は遊ぶがよいぞ。

 

コト=言(光透)と、時と、その順序さへ心得て御座れば、

何をしても、何を話しても、何を考へてもよいのぢゃ。

 

 

月光の巻、第六十一帖(八四八

 

そなたの苦労は取越し苦労。

 

心くばりは忘れてならんなれど、取越し苦労、過ぎ越し苦労はいらん。

 

そうした苦労は、そうした霊界をつくり出して、自分自身がいらぬ苦労をするぞ。

 

何ごとも神にまかせよ。

 

そなたはまだ神業の取違ひして御座るぞ。

 

そなたの現在与えられてゐる仕事が神業であるぞ。

 

その仕事をよりよく、より浄化するよう行じねばならんぞ。

 

つとめた上にもつとめねばならん。

 

それが御神業であるぞ。

 

そなたはそなたの心と口と行が違ふから、違ふことが次から次へと折り重なるのぢゃ。

 

コト正して行かねばならんぞ。

 

苦を楽として行かねばならん。

 

苦と心するから苦しくなるのぢゃ。

 

楽と心すれば楽と出てくるのぢゃ。

 

ちょっとの心の向け方、霊線のつなぎ方ぞ。

 

そなたは悪人は悪人ぢゃ、

神として拝めとは無理ぢゃと申してゐるが、

一枚の紙にも裏表あるぞ。

 

そなたはいつも裏ばかり見てゐるから、そんなことになるのぢゃ。

 

相手を神として拝めば神となるのぢゃ。

 

この世は皆神の一面の現われであるぞ。

 

 

828>847

月光の巻、第四十一帖(八二八

 

そなたはいつも深刻な顔をして考へ込んでゐるが、

考へ方にも幾通りも御座るぞ。

 

考へは迷ひと申してあるのは、そなたのような場合ぞ。

 

そなたは苦に向ひ苦にかったつもりで、苦を楽しんで御座るが、

苦は曲ることぞと知らしてあろうが。

 

苦をつくり出してはならんぞ。

 

苦を楽しむより、楽をたのしむ心高いぞと知らしてあろう。

 

苦しむと曲り、楽しむとのびるぞ。

 

二月十日。

 

 

月光の巻、第六十帖(八四七

 

そなたは自分の力を人に見せようとしてゐるが、無邪気なものぢゃのう。

 

自分の力がかくせぬようでは、頭に立つこと出来んぞ。

 

何も彼も出して了ったのでは味がなくなるぞ。

 

そなたはよく祈る。

 

祈ることは結構であるなれど、祈るばかりでものごと成就せんぞ。

 

為すには先づ祈らねばならんが、そなたはそなたの神にのみ祈ってゐるぞ。

 

為すのは己であるから、己にゐのらねばならんぞ。

 

己に祈りた後、己が為さねばならんぞ。

 

乳房与えられても自分で吸はねば自分の身にはつかぬ道理ぢゃ。

 

だが、為したのみでは未だ足らんぞ。

 

時々は省みなければならんぞ。

 

そなたは形や口先ばかりでものを拝んでゐるが、

心と行と口と三つそろはねばならん。

 

三つ揃ふて拝むならば、どんなものでも与へられるのぢゃ。

 

拝む所へ ものは集まってくる。神も集まってくる。

 

足らぬものなくなるぞ。

 

余ることなくなって、満たされるのが まことの富ぢゃ。

 

清富ぢゃ。

 

 

829>846

月光の巻、第四十二帖(八二九

 

未来にもえることが現在に生きることであるぞ。

 

そなたは現在に生きる努力が足らん。

 

夢ばかり追ってゐてはうたかたぢゃ。

 

そなたは先祖に対する考へ方が間違ってゐるぞ。

 

先祖はそなたではないか。

 

地下にあるそなたの根が先祖でないか。

 

根のない草木はすぐ枯れる道理ぢゃ。

 

先祖は家をついだ兄がまつってゐるから、

分家した自分は先祖はまつらいでもよいのぢゃと申して御座るなれど、

よく考へて下されよ。

 

根から芽が出て幹となり枝が栄えてゐるのと同様ぞ。

 

枝には根はいらんと申すのと同じような間違ひであるぞ。

 

分家しても先祖まつらねばならん。

 

先祖をおろそかにするでないと、気付けてあるでないか。

 

 

月光の巻、第五十九帖(八四六

 

一度申したこと何処迄もつらぬくそなた結構ぞ。

 

なれども囚われているぞ。

 

この神はちと大きな、今迄にない大変をいたすのであるから、

あまり小さく囚われていると判らんことになってくるぞ。

 

固まるときには一度に固まらねばならん。

 

昨日は昨日、今日は今日ぞ。

 

そなたは動機が善ならば失敗は薬と、われの都合のよいように、

われとわれを弁解して御座るなれど、弁解したのでは薬にならん。

 

毒となることあるぞ。

 

省みよ。

 

そなたは何神様でも仏でも、何でも彼でも拝んでいるが、

その順序と区別がよく判ってゐないぞ。

 

判らずにめくらめっぽうに拝んではならん。

 

心得なされよ。

 

そなたは忙しい忙しい、神示よむ間もないと申してゐるが、

忙しいのは神のめぐみであるぞ。

 

よどんだ水はくさるのぢゃ。

 

忙しい中にこそ、神示よむ時があるのぢゃ。

 

逃げ道をつくってはならん。

 

 

830>845

月光の巻、第四十三帖(八三〇

 

そなたはまだ方便をつかってゐるが、方便の世はすんでゐるのぞ。

 

方便の教とは横の教、いろはの教、平面の教のことぞ。

 

仏教もキリスト教も回教もみな方便でないか、教はみな方便ぢゃ。

 

教ではどうにもならん。

 

ぎりぎりの世となってゐるのぞ。

 

理(ミチ)でなくてはならん。

 

変らぬ太道でなくてはならんぞ、

【方便】の世はすんで【ほうべん】の世となり、

そのほうべんの世もやがて終るぞと知らしてあろうが。

 

理とは三界を貫く道のことぞ。

 

字宙にみちみつゝのあり方ぞ。

 

法則ぞ。

 

秩序ぞ。

 

神の息吹きぞ。

 

弥栄ぞ。

 

喜びぞ。

 

判りたか。

 

 

月光の巻、第五十八帖(八四五

 

春が来れば草木に芽が出る。

 

花が咲く。

 

秋になれば葉が枯れるのぢゃ。

 

時節よく気付けて取違ひせんよういたしくれよ。

 

時節程結構なものないが、又こわいものもないのであるぞ。

 

丁度 呼吸のようなもので一定の順序あるのぞ。

 

吸の極は呼となり、呼の極は吸となるぞ。

 

これが神の用(ハタラキ)であるから、

神の現われの一面であるから、神も自由にならん。

 

この神も時節にはかなわんのであるのに、

そなたは時々この時節を無視して自我で、

或ひは時節を取違ひして押しまくるから失敗したり怪我したりするのぢゃぞ。

 

素直にしておれば楽に行けるようになってゐるぞ。

 

時まてばいり豆にも花さくのであるぞ。

 

水が逆に流れるのであるぞ。

 

上下でんぐり返るのであるぞ。

 

上の人が青くなり、下の人が赤くなるのであるぞ。

 

取りちがひないように理解して下されよ。

 

 

831>844

月光の巻、第四十四帖(八三一

 

この道に入ると損をしたり、病気になったり、怪我をすることがよくあるなれど、

それは大難を小難にし、又めぐりが一時に出て来て、

その借銭済しをさせられてゐるのぢゃ。

 

借りたものは返さねばならん道理ぢゃ。

 

損もよい、病気もよいぞと申してあろうが。

 

此処の道理もわきまへず理屈申してゐるが、

そんな人民の機嫌とりする暇はなくなったから、

早う神心になって下されよ。

 

そなたは祈りが足らんぞ。

 

祈りと申すのは心でゐのり願ふことでないそ。

 

実行せねばならん。

 

地上人は物としての行動をしなければならんぞ。

 

口と心と行と三つ揃はねばと申してあること、忘れたか。

 

 

月光の巻、第五十七帖(八四四

 

そなたは失業したから仕事を与えてくれと申してゐるが、

仕事がなくなってはおらんぞ。

 

いくらでもあるでないか。

 

何故に手を出さんのぢゃ。

 

そなたはすぐ金にならねば食って行けない、

金にならぬ仕事は出来ぬ、自分はよいが妻子が可哀さうだから、

などと申してゐるが、

どんな仕事でも、その仕事にとけ込まねば、その仕事になり切らねばならんのに、

そなたは目の先の慾にとらわれ、慾になり切って、目の色を変えて御座るぞ。

 

それでは仕事にならん。

 

仕事は神が与えたり人が与えてくれるのでないぞ。

 

自分自身が仕事にならねばならん。

 

この道理さへ判れば、失業はないぞ。

 

自分が仕事ぢゃからのう。

 

 

832>843

月光の巻、第四十五帖(八三二

 

マコトに祈れと申してあろう。

 

マコトとは 〇(マ)123456789(コ)10(ト)のことと申してあろう。

 

只心でゐのるばかりでは、自分で自分をだますこととなるのぢゃ。

自分をいつわることは神をいつわることとなるのぢゃ。

 

マコトでゐのれば何事もスラリスラリとかなふ結構な世ぞ。

 

 

月光の巻、第五十六帖(八四三

 

そなたは何時もあれもよいらしい、これもよいようだと迷って、

迷ひの世界をうみ出し、自分で自分を苦しめて、気の毒よなあ。

 

これと一応信じたらまかせきれよ。

 

梶をはなして鳴門の渦の中にまかせきれよ。

 

まかせきるとひらけてくるのぢゃ。

 

悟れたようでゐて、そなたが悟り切れんのはまかせきらんからぞ。

 

そなたはいつも孤独、そなたの不運は孤独からぢゃ。

 

友をつくりなさい、

友つくることは己をつくることと申してあろうが。

 

友つくることは新しき世界をつくることぞ。

 

一人の世界は知れたものぞ。

 

一人ではマコトの道を生きては行かれんぞ。

 

友と申しても人間ばかりではないぞ。

 

山も友、川も友、動物も植物も皆友ぞ。

 

大地も大空も皆友となるぞ。

 

何も彼も皆友ぢゃ、皆己ぢゃ。

 

皆々己となれば己はなくなるぞ。

 

己なくなれば永遠に生命する無限の己となるのぢゃ。

 

御神前で拝むばかりでは狭いぞ。

 

野菜拝めば野菜が、魚拝めば魚が己となるのぢゃ。

 

拝むことは和すこと。

 

和すことが友つくる秘訣ぞ。

 

友を己とすることは、己を友とすることぢゃ。

 

友にささげることぢゃ。

 

親は子にささげるからこそ、子が親となるのぢゃ。

 

判りたか。

 

赤ん坊のお尻をふいてやることもあるであろうがな。

 

そなたが赤ん坊と同じであったら出来ない芸当ぞ。

 

お尻を出すものがあっても、決して怒ってはならん。

 

子のお尻と思って きれいにふいてやれよと申してあろうが。

 

お尻を持ち込まれるのは、持ち込まれるだけのわけがあるからぞ。

 

利子は後から支払えばよいと、そなたは思ってゐるが、

先に支払ふこともあるのであるぞ。

 

先にお尻をふかねばならんことも、世が迫ってくると出てくるのぢゃ。

 

その代り、後では神がそなたのお尻をきれいにふいて下さるぞ。

 

ぶつぶつ申さずに勇んでやって下されよ。

 

そなたは他にものを与えることに心せねばならんぞ。

 

与えることは頂くことになるのであるから、

与えさしてもらう感謝の心がなければならんぞ。

 

強く押すと強く、弱く押すと弱くはねかえってくること、よく知って居ろうがな。

 

自分のものと云ふものは何一つないこと、よく判って居る筈ぢゃ。

 

 

833>842

月光の巻、第四十六帖(八三三

 

考えてゐては何も成就せんぞ。

 

神界と交流し、神界に生き、神界と共に弥栄すればよいのぢゃ。

 

人間だけの現実界だけで処理しようとするのが今迄の考えぢゃ。

 

今迄の考えでは人間の迷ひぞと申してあろうがな。

 

迷ひを払って真実に生きよ。

 

みたましづめぢゃ。

 

加実しづめぢゃ。

 

そなたは信仰のありかたを知らんぞ。

 

長い目で永遠の立場からの幸が、歓喜がおかげであるぞ。

 

局部的一時的には いやなことも起ってくるぞ。

 

天地を信じ、自分を知り、人を理解する所にこそ まことの弥栄あるぞ。

 

だますものにはだまされてやれよ。

 

一先づだまされて、だまされんように導いて下されよ。

 

そなたはそんな場合に我を出すからしくじるのぞ。

 

だまされてやろうとするからカスが残るのぞ。

 

まことにだまされる修業が大切ぢゃなあ。

 

 

月光の巻、第五十五帖(八四二

 

そなたはよく肚をたてるが、肚がたつのは慢心からであるぞ。

 

よく心得なされよ。

 

下肚からこみあげてくる怒りは大きな怒りであるから、

怒ってよいのであるなれど、

怒りの現わし方を出来るだけ小さく、出来るだけ清く、

出来るだけ短かくして下されよ。

 

怒りに清い怒りはないと、そなたは思案して御座るなれど、

怒りにも清い怒り、澄んだ怒りあるぞ。

 

三月三日。

 

 

そなたはいつも自分の役に不足申すくせがあるぞ。

 

そのくせ直して下されよ。

 

長くかかってもよいから、根の音(ね)からの改心結構ぞ。

 

手は手の役、足は足、頭は頭の役、それぞれに結構ぞ。

 

上下貴賎ないこと、そなたには判ってゐる筈なのに、早う得心して下されよ。

 

そなたはこの神ときわめて深い縁があるのぢゃ。

 

縁あればこそ引きよせて苦労さしてゐるのぢゃ。

 

今度の御用は苦の花咲かすことぢゃ。

 

真理に苦の花さくのであるぞ。

 

因縁のそなたぢゃ、一聞いたなら十がわかるのぢゃ。

 

云われんさきに判ってもらわねばならんぞ。

 

知らしてからでは味ないぞ。

 

十人並ぞ。

 

今度の御用は千人力、十人並では間に合わんぞ。

 

人間の目は一方しか見えん。表なら表、右なら右しか見えん。

 

表には必ず裏があり、左があるから右があるのぢゃ。

 

自分の目で見たのだから間違いないと、

そなたは我を張って居るなれど、それは只一方的の真実であるぞ。

 

独断は役に立たんぞと申してあろうが。

 

見極めた上にも見極めねばならんぞ。

 

霊の目も一方しか見えんぞ。

 

霊人には何でも判ってゐると思ふと、大変な間違ひ起るぞ。

 

一方と申しても霊界の一方と現界の一方とは、一方が違ふぞ。

 

そなたは中々に立派な理屈を申すが、理屈も必要ではあるが、

あわの如きもの、そなたの財産にはならんぞ。

 

体験の財産は死んでからも役にたつ。

 

ざんげせよと申しても、人の前にざんげしてはならんぞ。

 

人の前で出来るざんげは割引したざんげ。

 

割引したざんげは神をだまし、己をだますこととなるぞ。

 

悔ひ改めて下され。

 

深く省みて下され。

 

深く恥ぢおそれよ。

 

心して慎しんで下されよ。

 

直ちによき神界との霊線がつながるぞ。

 

霊線つながれば、その日その時からよくなってくるぞ。

 

気持が曲ったら霊線が切り替えられる。

 

 

834>841

月光の巻、第四十七帖(八三四

 

八のつく日に気つけと申してあろう。

 

八とはひらくことぞ。

 

ものごとはひらく時が大切ぢゃ。

 

第一歩の前に〇歩があるぞ。

 

〇歩が大切ぞ。

 

心せよ。

 

そなたは行き詰って苦しんで御座るなれど、

それは間違った道を歩んで来たからぞ。

 

行き詰りは有りがたいぞ。

 

省みる時を与えられたのぢゃ。

 

ミタマ磨きさえすれば何ごともハッキリとうつりて、

楽に行ける道がちゃんとつくってあるのぢゃ。

 

その人その人に応じて如何ようにでも展け行くぞ。

 

犬猫でさえ楽々と栄えてゐるでないか。

 

洗濯次第でどんな神徳でも与えるぞ。二月十八日。

 

 

月光の巻、第五十四帖(八四一

 

頭を下げて見なされ、流れて来るぞ。

 

頭も下げず低くならんでゐては流れては来ないぞ。

 

神のめぐみは淡々とした水のようなものぞ。

 

そなたは頭が高いぞ。

 

天狗ぞ。

 

その鼻まげて自分のにほひをかいで見るがよい。

 

そなたは左に傾いてゐるぞ。

 

左を見なければならんが、片よって歩いてはならんぞ。

 

そなたは右を歩き乍ら、それを中道と思って御座るぞ。

 

そなたは平面上を行ってゐるから、

中道のつもりで、他に中行く道はないと信じてゐるが、それでは足らんのう。

 

立体の道を早うさとりなされよ。

 

【正中の大道】あるのであるぞ。

 

左でもなく右でもなく、うれしうれしの道あるぞ。

 

左も右も上も下も相対の結果の世界ぢゃ。

 

原因の世界に入らねばならん。

 

平面より見れば相対あるなれど、

立体に入り更に複立体、複々立体、立立体の世界を知らねばならんぞ。

 

相対では争ひぢゃ。

 

いくさぢゃ。

 

真の世界平和は今のやり方、考へ方では成就せんぞ。

 

三千世界和平から出発せねばならんぞ。

 

そなたは神示をよくよんでゐるが、それだけでは足らん。

 

神示を肚に入れねばならん。

 

つけ焼刃ではならん。

 

神示を血とし生活とすれば、何事も思ふ通りスラリスラリと面白い程 栄えて来るぞ。

 

思ふように運ばなかったら省みよ。

 

己が己にだまされて、己のためのみに為してゐることに気づかんのか。

 

それが善であっても、己のためのみならば死し、善のための善ならば弥栄えるぞ。

 

善にも外道の善あるぞ。

 

心せよ。

 

神示見て居らぬとびっくりが出てくるぞ。

 

この世始まってないことが出てくるのぢゃ、世界の片はし八まべからぞ。

 

判りたか。

 

そなたは神体を偶像と申して御座るが、それはそなた自身が偶像なるが故であるぞ。

 

礼拝を忘れ、祈りをわすれることは神をわすれることぢゃ。

 

そなたの住む段階では、祈り畏こみ謹んで実践しなければならんぞ。

 

拝まんでも拝んでゐる境地はなかなかぢゃなあ。

 

そなたはわれが助かろうとするから助からんのぢゃ。

 

世界はこの世ばかりではないことを、よく得心して下されよ。

 

我をすてて素直になされよ。

 

三千年の秋が来てゐるのであるぞ。

 

 

835>840

月光の巻、第四十八帖(八三五

 

世界中を泥の海にせねばならんところまで、

それより他に道のない所まで押しせまって来たのであるが、

尚一厘のてだてはあるのぢゃ。

 

大神様におわび申してすっかり心を改めて下されよ。

 

神々さまも人民さまも心得ちがひ多いぞ。

 

泥の海となる直前にグレンとひっくりかえし、びっくりの道あるぞ。

 

 

月光の巻、第五十三帖(八四〇

 

これほどことわけて申しても得心出来ないのならば、

得心の行くまで思ふままにやりて見なされよ。

 

そなたは神の中にゐるのであるから、

いくらあばれ廻っても神の外には出られん。

 

死んでも神の中にゐるのであるぞ。

 

思ふさまやりて見て、早う得心改心いたされよ。

 

回心して仕事嘉言と仕へまつれよ。

 

結構ぢゃなあ。

 

そなたは自分は悪くないが周囲がよくないのだ、

自分は正しい信仰をしてゐるのだから、

家族も知友も反対する理由はない、

自分は正しいが他が正しくないのだから、

正しくない方が正しい方へ従って来るべきだと申しているが、

内にあるから外から近よるのだと申してあろうが。

 

そなたは無低坑主義が平和の基だと申して、

右の頬を打たれたら左の頬をさし出して御座るなれど、

それは真の無抵坑ではないぞ。

 

よく聞きなされ、

打たれるようなものを そなたがもってゐるからこそ、

打たれる結果となるのぢゃ。

 

まことに磨けたら、まことに相手を愛してゐたならば、

打たれるような雰囲気は生れないのであるぞ。

 

頬をうたれて下さるなよ。

 

生れ赤児見よと知らしてあろうが。

 

 

836>839

月光の巻、第四十九帖(八三六

 

そなたの用意が足らんぞ。

 

日々の人間の御用を、神の御用と和すように、

神の御用が人の御用、人の御用が神の御用となるのがまことの道であり、

弥栄の道であり大歓喜であるぞ。

 

いつでも神かかれるように神かかってゐるように、

神かかっていても、われにも他にも判らぬようになりて下されよ。

 

鍬とる百性が己をわすれ、大地をわすれ、鍬をわすれてゐる境地が、

まことのみたましづめであり、神かかりであるぞ。

 

そこらでなさる行も、それに到る一つの道ではあるが、それのみではならんぞ。

 

気つけ合ってよきに進んで下されよ。

 

そなたが歩むのぢゃ。

 

道は自分で歩まねばならんぞ。

 

他人におんぶしたり、他人が歩かしてくれるのではないぞ。

 

そなたの力で、そなた自身の苦労で人を助けねばならんぞ。

 

人を助ければその人は神が助けるのであるぞ。

 

この道理なぜに判らんのぢゃ。

 

人を助けずに我を助けてくれと申しても、それは無理と申すもの。

 

神にも道はまげられんぞ。

 

 

月光の巻、第五十二帖(八三九

 

そなたはつまらんことにいつも心を残すから つまらんことが出てくるのであるぞ。

 

心を残すと云うことは、霊界とのつながりがあることぞ。

 

つまらん霊界にいつ迄くっついてゐるのぢゃ。

 

何ごとも清めて下されよ。

 

清めるとは和すことであるぞ。

 

同じもの同士では和ではない。

 

違ったものが和すことによって新しきものを生むのであるぞ。

 

奇数と偶数を合せて、新しき奇数を生み出すのであるぞ。

 

それがまことの和であり清めであるぞ。

 

善は悪と、陰は陽と和すことぢゃ。

 

和すには同じあり方で、例へば五と五との立場で和すのであるが、

位に於ては陽が中心であり、陰が外でなければならん。

 

天が主であり地が従でなければならん。

 

男が上で女が下ぢゃ、これが和の正しきあり方ぞ。

 

さかさまならんぞ。

 

これを公平と申すぞ。

 

口先ばかりでよいことを申すと悪くなるのぢゃ。

 

心と行が伴はねばならん。

 

判りきったこの道理が行はれないのは、

そなたをとり巻く霊の世界に幽界の力が強いからぢゃ。

 

そなたの心の大半を幽界的なもので占めてゐるからぞ。

 

己自身のいくさ まだまだと申してあろうがな。

 

このいくさ中々ぢゃが、正しく和して早う弥栄結構ぞ。

 

そなたのもつ悪いくせを治して下されよ。

 

そのくせ治すことが御神業ぞ。

 

自分で世界を建直すような大きこと申して御座るが、

そなたのくせを治すことが最も大切な御用でないか。

 

これに気がつかねば落第ぞ。

 

おそれてはならん。

 

おそれ生むからぞ。

 

喜べ、喜べ、喜べばよろこび生むぞ。

 

喜びは神ぢゃ。

 

神様御自身も刻々弥栄して御座るぞ。

 

故にこそ生長なされるのぢゃ。

 

人間も同様でなくてはならん。

 

昨日の自分であってはならん。

 

今の自分ぞ。

 

中今のわれに生きねばならん。

 

われにどんな力があったとて、我を出してはならんぞ。

 

我を出すと力なくなるぞ。

 

我を、大き我に昇華させよ。

 

大我にとけ入らねばならん。

 

大我にとけ入ったとて、小我がなくなるのではないぞ。

 

人おろがめよ。

 

物おろがめよ。

 

おろがむと自分の喜びとなり、拝まれたものも喜びとなるぞ。

 

うれしうれしとはそのことぞ。

 

 

837>838

月光の巻、第五十帖(八三七)

 

何も六ヶ敷いこと申すのではない。

 

自分の、内の自分を洗濯して明らかに磨けばよいのぢゃ。

 

内にあるものを浄化すれば、外から近づくものがかわって来る道理。

 

内の自分を洗濯せずにゐて、

きたないものが近づくとか、世の中がくらいとか不平申して御座るなれど、

そこにそなたの間違いがあるぞ。

 

木でも草でも中から大きくなって行くのぢゃ。

 

三千年に一度の時がめぐり来てゐるのであるぞ。

 

為せば成る時が来てゐるのぢゃ。

 

為さねば後悔ぞ。

 

時すぎて種まいても、くたびれもうけ。

 

そなたは世の中が悪いとか人がよくないとか申してゐるが、

すべては大神の肚の中にゐて、

一応 大神が許しなされて居ればこそ存在し、

いのちしてゐるのであるぞ。

 

悪くうつるのは心のかがみがくもってゐるからぞ。

 

悪い世の中、悪い人と申すことは、

神を悪く申し、神界が悪いのぢゃと申すのと同じであるぞ。

 

新しき世界には新しき【てんし(天詞)】【てんか】をこしらえねばならん。

 

このこと間違えるでないぞ。

 

珍らしき御型(方)が出て来てびっくりぢゃ。

 

びっくりしなければヒックリとはならんぞ。

 

神は今迄 化けに化けていたが、もう化けては居られん。

 

人民ももう化けては居られんぞ。

 

九分九厘までは化けて、がまんしてゐたなれど、

化けの世、方便の世、方便の教はすんだのぢゃ。

 

教では世は正されん。

 

教のつどいはつぶれて了うのぢゃ。

 

無理してはならん。

 

そなたの無理押しは よいことをわるく曲げるぞ。

 

 

月光の巻、第五十一帖(八三八

 

世界を一つにするのであるから、王は(秘答理)(ヒトリ)ぢゃ。

 

うごぎは二つとなるなれど、二つでないとうごかんのぢゃ。

 

キはキのうごき、ミはミのうごき、うごいて和すのぢゃぞ。

 

和すから弥栄ぢゃ。

 

和せば一つぢゃぞ。

 

キミとなるのぢゃ。

 

そなたは自分と他との境界をつくってゐるなれど、境界つくってはならんぞ。

 

境界をつくらずに、おのづからなる自他の別を生み出さねばならんぞ。

 

世界一家のやり方 間違えて御座るぞ。

 

それぞれのコト(言)のハ(葉)はあれど、

ミコト(実言)は一つと申して知らしてあろうがな。

 

大難は小難にすること出来るのであるが、無くすることは出来んぞ。

 

不足は不足をうむぞ。

 

そなたは口をつつしめよ。

 

そなたは一度 神をすてよ。

 

神にしがみついてゐるから、

小さい囚われた、ゆとりのない神を、そなたがつくり上げてゐるぞ。

 

信ずれば信ずる程 危ないぞ。

 

大空に向って大きく呼吸し、今迄の神をすてて心の洗濯をせよ。

 

神を信じつつ迷信におちてゐると申してあること、よく心得よ。

 

 

まぜまぜ 七九六~八二五

ひふみ神示 まぜまぜの第七九六帖~第八二五帖

 

 

ひふみ神示(補巻)月光の巻

全六十二帖・通し番号(七八八)~(八四九)のうち(七九六)~(八二五)

自  昭和三十三年十二月二十五日

至  昭和三十四年 三月  二日

 

 

796>825

月光の巻、第九帖(七九六)

 

気の合う者のみの和は和ではない。

 

色とりどりの組合せ、ねり合せこそ花さくぞ。

 

総てが神の子ぢゃ。

 

大神の中で弥栄ぞ。

 

大き心、広き心、長い心 結構。中々に合わんと申すなれど、

一つ家族でないか。

 

心得なされよ。

 

夫婦けんかするでない。

 

夫のみいかんのでない。

 

妻のみ悪いのでないぞ。

 

お互に己の姿を出し合ってゐるのぞ。

 

よく会得せよ。

 

判らんことが更に判らなくなるぞ。

 

ききたいことは何でもきけよ。

 

大グレ目の前。

 

アホになれよ。

 

一先づは月の代となるぞ。

 

ひっくり返り、ビックリぢゃ。

 

 

月光の巻、第三十八帖(八二五)

 

はじめの喜びは食物ぞ。

 

次は異性ぞ。

 

何れも大きな驚きであろうがな。

 

これは和すことによって起るのぞ。

 

とけ合ふことによって喜びとなるのぢゃ。

 

よろこびは神ぢゃ。

 

和さねば苦となるぞ。

 

かなしみとなるぞ。

 

先づ自分と自分と和合せよと申してあろうが。

 

そこにこそ神の御はたらきあるのぢゃ。

 

ぢゃがこれは外の喜び、肉体のよろこびぞ。

 

元の喜びは霊の食物を食ふことぞ。

 

その大きな喜びを与へてあるのに、何故 手を出さんのぢゃ。

 

その喜び、おどろきを何故に求めんのぢゃ。

 

何故に神示を食べないのか。

 

見るばかりではミにつかんぞ。

 

よく噛みしめて味はひて喜びとせんのぢゃ。

 

喜びが神であるぞ。

 

次には神との交わりぞ。

 

交流ぞ。

 

和ぞ。

 

そこには且って知らざりし おどろきと大歓喜が生れるぞ。

 

神との結婚による絶対の大歓喜あるのぢゃ。

 

神が霊となり花むことなるのぢゃ。

 

人民は花よめとなるのぢゃ。

 

判るであろうが。

 

この花むこはいくら年を経ても花よめを捨てはせぬ。

 

永遠につづく結びぢゃ。

 

結婚ぢゃ。

 

何ものにも比べることの出来ぬおどろきぞ。

 

よろこびぞ。

 

花むこどのが手をさしのべてゐるのに、何故に抱かれんのぢゃ。

 

神は理屈では判らん。

 

夫婦の交わりは説明出来まいがな。

 

神が判っても交わらねば、神ととけ合はねば真理は判らん。

 

なんとした結構なことかと人民びっくりする仕組ぞ。

 

神と交流し結婚した大歓喜は、死を越えた永遠のものぞ。

 

消えざる火の大歓喜ぞ。

 

これがまことの信仰、神は花嫁を求めて御座るぞ。

 

早う神のふところに抱かれて下されよ。

 

二月一日。

 

 

797>824

月光の巻、第十帖(七九七)

 

一はいくら集めても一ぢゃ。

 

二も三も四も五も同様ぞ。

 

〇にかえり、〇によって結ばれるのぢゃ。

 

〇がムスビぞ。

 

弥栄ぞ。

 

喜びぞ。

 

 

月光の巻、第三十七帖(八二四)

 

そなたのやることはいつも時が外れて御座るぞ。

 

餅つくにはつく時あるぞと知らしてあろうが。

 

時の神を忘れてはならんぞ。

 

春には春のこと、夏は夏のことぢゃ。

 

そなたは御神業ぢゃと申して、他に迷惑かけてゐるでないか。

 

そこから改めねばならん。

 

鼻つまみの御神業はないのであるぞ。

 

そなたはお先まっくらぢゃと申してゐるが、夜明けの前はくらいものぞ。

 

暗いやみの後に夜明けがくること判ってゐるであろうが、

神はすべてを見通しであるから、すぐのおかげは小さいぞ。

 

利子つけた大きなおかげを結構に頂いて下されよ。

 

 

798>823

月光の巻、第十一帖(七九八)

 

病むことは神から白紙の手紙を頂いたのぢゃと知らしてあろう。

 

心して読めよ。

 

ありがたき神からの手紙ぞ。

 

おろそかならん。

 

腹八分、二分は先づささげよ。

 

運ひらけるぞ。

 

病治るぞ。

 

 

月光の巻、第三十六帖(八二三)

 

行は、世界中の行、誰一人のがれるわけには行かんぞ。

 

めぐり果たしたものから、うれしうれしになる仕組。

 

そなたの心配 一応は無理ないなれど、

何処で、どんなことをしてゐても、みたま磨けてさへ居れば、心配なくなるぞ。

 

心配は、磨けて居らぬ証拠ぞ。

 

そなたはものに不足するとこぼして御座るなれど、

ものに不足するのは、心に足らぬ所があるからぞ。

 

心いたれば ものいたるぞ。

 

何ごとも神の申す通り素直になされよ。

 

素直結構ぢゃなあ。

 

 

799>822

月光の巻、第十二帖(七九九)

 

逃げ道つくってから追わねばならん。

 

そなたは相手の逃げ道をふさいで、ギュウギュウ追ひつめるから逆うらみされるのぢゃ。

 

逆うらみでも恨みは恨みの霊団をつくり出すぞ。

 

悪を抱けよ。

 

消化せよ。

 

浄化せよ。

 

何も彼も太神の許し給えるものなるが故に存在する。

 

そなたは神にこり固まってゐるぞ。

 

こり固まると動きのとれんことになる。

 

一度そなたのもつ神をすてるとよいぞ。

 

すてると掴めるぞ。

 

 

月光の巻、第三十五帖(八二二)

 

化物に化かされんよう、おかげ落さんようにして下されよ。

 

よいことを申し、よい行をしてゐても、よくない人があるのぢゃ。

 

よくないことも御用の一つではあるが、

そなたは未だそれを消化する程の所まで行ってゐないぞ。

 

小学生が大学生のまねしてはならん。

 

そなたはまだ慾があるぞ。

 

慾を、小さい自分ばかりの慾をすてなされ。

 

そしてまことの大深慾になりなされよ。

 

その気持さへ動いてくれば、何事も見事成就するぞ。

 

 

800>821

月光の巻、第十三帖(八〇〇)

 

木にも竹にも石にも道具にもそれぞれの霊が宿ってゐるのである。

 

人間や動物ばかりでなく、総てのものに宿ってゐるのである。

 

宿ってゐると云うよりは、霊と体とで一つのものが出来上がってゐるのである。

 

一枚の紙の裏表のようなもの、表ばかりのものもない。

 

裏ばかりのものもない道理。

 

数字にも文字にも それぞれの霊が宿って居り、

それぞれの能(ハタラキ)をしてゐるのであるぞ。

 

順序が判れば初段、和に徹すれば名人。

 

 

月光の巻、第三十四帖(八二一)

 

かみかかりはよしなされよ。

 

そなたは学に囚われて御座るぞ。

 

科学を越えて神の学に生きて下されよ。

 

そなたは自分で自分の首をしめるようなことをして御座るぞ。

 

自分で勝手に小さい自分の神をつくってゐるぞ。

 

一度その神をすてなされ、

固く抱きしめたり、とぢこめてゐるから判らんことに行きつまるのぢゃ。

 

判りたか。

 

我(が)と判らん我(が)を気つけなされよ、今一息と云ふところぞ。

 

 

801>820

月光の巻、第十四帖(八〇一)

 

流れ出たものは又元にかえると申しても、そのままでは帰られんのであるぞ。

 

天から降った雨が又天に昇るには、形をかえるであろうが、

この道理をわきまえんと、悪かみかかりとなるぞ。

 

それはそなたの自己慾から出てゐるぞ。

 

自己慾もなくてはならんが、段々浄化して行かねばならん。

 

浄化して大き自己の慾とせよ。

 

自分のみの慾となるから弥栄えんのぢゃ。

 

弥栄えんもの神の御心に逆行。

 

自分で判断出来ることを何故にきくのぢゃ。

 

神にきけば神に責任をきせるのと同様ぞ。

 

人間の悪いくせぞ。出直せよ。

 

 

月光の巻、第三十三帖(八二〇)

 

まことから出たことは誰のねがひも同様。

 

心配せずにドシドシと進めて下されよ。

 

若し行き詰ったら省みよ。

 

行き詰った時は大きくひらける時ぢゃ。

 

ぢゃと申して ひとこころで急ぐでないぞ。

 

急ぐと道が見えなくなってくるぞ。

 

そなたの考へて御座ることは自己中心でないか。

 

われよしの小さいわれよしではならん。

 

大きなわれよし結構ぞ。

 

ぎせいになることを尊いことぢゃと申してゐるが、ぎせいに倒れてはならん。

 

己を生かす為に他を殺すのもいかん。

 

己殺して他をいかすのもいかん。

 

大の虫を生かすため、小の虫を殺すことはやむを得んことぢゃと申したり、

教へたりしてゐるが、それもならんぞ。

 

総てを殺さずに皆が栄える道があるでないか。

 

何故に神示を読まぬのぢゃ。

 

 

802>819

月光の巻、第十五帖(八〇二)

 

与えることは頂くことぢゃと申しても、度をすぎてはならん。

 

過ぎると、過ぎるものが生れて、生んだそなたに迫って来るぞ。

 

 

月光の巻、第三十二帖(八一九)

 

世界連邦と申してゐるが、地上世界のみの連邦では成就せん。

 

片輪車で、いつまでたってもドンテンドンテンぢゃ。

 

心して下されよ。

 

何故に霊界、神界をひっくるめた三千世界連邦としないのか。

 

いらぬ苦労はせぬものぢゃ。

 

 

803>818

月光の巻、第十六帖(八〇三)

 

五十九柱と申してあるが、その中の九柱はかくれた柱ぢゃ。

 

 

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f:id:satonory4949:20200509160302g:plainf:id:satonory4949:20200509160311g:plainf:id:satonory4949:20200509160322g:plainf:id:satonory4949:20200509160332g:plainf:id:satonory4949:20200509160345g:plainf:id:satonory4949:20200509160357g:plainf:id:satonory4949:20200509160410g:plainf:id:satonory4949:20200509160424g:plainf:id:satonory4949:20200509160436g:plainぞ。

 

この九柱は〇ぞ。

 

心得なされよ。現われの五十柱のかげの、かくれた九柱、心して大切申せよ。

 

真直ぐに真上に神をいただくと申すことは、上ばかりではないぞ。

 

真下にも横にも前後にも

立体三六〇度に真直ぐに神を頂かねばならんと云うことぞ。

 

神人交流の第一歩。

 

 

月光の巻、第三十一帖(八一八)

 

足のうらをきれいに掃除なされよ。

 

外から見えん所がけがれてゐるぞ。

 

日本の国よ、そなたも同様、世界よ、そなたも同様ぞ。

 

イヅモの神の社をかへて竜宮の乙姫(理由空云の音秘)様のお社を

陸(理空)につくらねば、これからの世はうごきとれんことになるぞ。

 

一切が自分であるぞと云うことは例へでないぞ。

 

そなたは、食物は自分でないと思うてゐるが、食べるとすぐ自分となるでないか。

 

空気も同様、水も同様ぞ。

 

火も同様、大空もそなたぞ。

 

山も川も野も海も、植物も動物も同様ぞ。

 

人間は横の自分ぞ。

 

神は縦の自分ぞ、自分を見極めねばならん。

 

自分をおろそかにしてはならん。

 

一切をうけ入れねばならんぞ。

 

一切に向って感謝しなければならんと申してあろうが。

 

三十一年一月三日。

 

 

804>817

月光の巻、第十七帖(八〇四)

 

そなたの仕事、思いつき結構であるが、

神の御意志を頂かねば成就せん。

 

神と申しても、

そなたが勝手にきめた神や宗教で固めた制限された神ではないぞ。

 

判っただけでは駄目ぞ。

 

行じねばならん。

 

生活しなければならん。

 

芸術しなければならん。

 

 

月光の巻、第三十帖(八一七)

 

心のいれかへせよとは新しき神界との霊線をつなぐことぞ。

 

そなたは我が強いから、

我の強い霊界との交流が段々と強くなり、我のむしが生れてくるぞ。

 

我の病になって来るぞ。

 

その病は自分では判らんぞ。

 

わけの判らん虫わくぞ。

 

わけの判らん病はやるぞと申してあるが そのことぞ。

 

肉体の病ばかりでないぞ。

 

心の病はげしくなってゐるから気付けてくれよ。

 

人々にもそのことを知らせて共に栄えてくれよ。

 

この病を治すのは、今日までの教では治らん。

 

病を殺して了ふて、病をなくしようとて病はなくならんぞ。

 

病を浄化しなければならん。

 

悪を殺すと云う教や、やり方ではならんぞ。

 

悪を抱き参らせて下されよ。

 

 

805>816

月光の巻、第十八帖(八〇五)

 

現実的には不合理であっても、

不合理にならぬ道をひらくのが、霊現交流の道であり、立体弥栄の道、

行き詰りのない道、新しき世界への道である。

 

平面のみではどうにもならない時となってゐるのに、何して御座るのか。

 

黒船にびっくりしては間に合わん。

 

 

月光の巻、第二十九帖(八一六)

 

モト(母答)を正さねばならん、間に合わんことになるぞ。

 

心の改心すれば、どんなおかげでもとらすぞ。

 

幽国(がいこく)は火の雨ぢゃなあ。

 

世界一度に改心。

 

 

806>815

月光の巻、第十九帖(八〇六)

 

釈迦、キリスト、マホメット、其の他、世界の生命ある教祖及びその指導神を、

み光の大神様とたたえまつれと申してあろが。

 

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何故にみ光の大神様として斎きまつらんのぢゃ。

 

宗教せぬのぢゃ。

 

其処にひかり教会としての力が出ないのぢゃ。

 

人民のうきせになやむを救うのはオホカムツミの神であるぞ。

 

この能(ハタラキ)の神名わすれてはならん。

 

このほうはオホカムツミの神とも現われるぞと知らしてあること忘れたのか。

 

 

月光の巻、第二十八帖(八一五)

 

厄も祓はねばならんが、福も祓はねばならん。

 

福はらひせよと申してあらうが。

 

厄のみでは祓ひにならん。

 

福のみでも祓ひにならんぞ。

 

厄ばらひのみしたから今日の乱れた世相となったのぢゃ。

 

この判り切った道理が何故に判らんのか。

 

悪を抱き参らせよ。

 

善も抱き参らせよ。

 

抱くには〇にならねばならんぞ。

 

 

807>814

月光の巻、第二十帖(八〇七)

 

大奥山と教会とをまぜこぜしてはならん。

 

教会や其の他の集団は現われ、大奥山はかくれぢゃ。

 

大奥山はこの度の大御神業にゆかりのある神と人とを引きよせてねり直し、

御用に使う仕組。

 

みて御座れ、人民には見当とれんことになるぞ。

 

 

月光の巻、第二十七帖(八一四)

 

はらひは結構であるが、厄はらひのみでは結構とはならんぞ。

 

それは丁度、悪をなくすれば善のみの地上天国が来ると思って

、悪をなくすることに努力した結果が、今日の大混乱を来したのと同じであるぞ。

 

よく考えて下されよ。

 

善と申すも悪と云うも、皆悉く大神の肚の中であるぞ。

 

大神が許し給へばこそ存在してゐるのであるぞ。

 

この道理をよく会得せよ。

 

はらふと申すのは無くすることではないぞ。

 

調和することぞ。和して弥栄することぞ。

 

 

808>813

月光の巻、第二十一帖(八〇八)

 

大奥山から流れ出た宗団はひかり教会のみでないぞ。

 

いくらもあるのぢゃ。

 

出てくるぞ。

 

故に大奥山に集まったものが皆ひかり教会員ではない。

 

それぞれのミタマの因縁によって色々な集団に属する。

 

この点よく心得なされよ。

 

大奥山はありてなき存在、人間の頭で消化されるような小さいしぐみしてないぞ。

 

大奥山だけに関係もつ人もあるのぢゃ、囚われてはならん。

 

三千世界を一つにまるめるのが この度の大神業ぞ。

 

世界一家は目の前、判らんものは邪魔せずに見物して御座れ。

 

神の経綸 間違ひなし。

 

 

月光の巻、第二十六帖(八一三)

 

現状を足場として進まねばならん。

 

現在のそなたのおかれてゐた環境は、そなたがつくり上げたものでないか。

 

山の彼方に理想郷があるのではないぞ。

 

そなたはそなたの足場から出発せねばならん。

 

よしそれが地獄に見えようとも、現在に於てはそれが出発点。

 

それより他に道はないぞ。

 

十二月三十一日。

 

 

809>812

月光の巻、第二十二帖(八〇九)

 

産土さまによくお願いなされよ。

 

わすれてはならんぞ。

 

宗教にこり固まって忘れる人が多いぞ。

 

他の神を拝してはならんと云う、そなたの信仰はそれだけのもの、早う卒業結構。

 

 

月光の巻、第二十五帖(八一二)

 

食物は科学的栄養のみに囚われてはならん。

 

霊の栄養大切。

 

自分と自分と和合せよと申してあるが、

肉体の自分と魂の自分との和合出来たら、も一段奥の魂と和合せよ。

 

更に、又奥の自分と和合せよ。

 

一番奥の自分は神であるぞ。

 

高い心境に入ったら、神を拝む形式はなくともよいぞ。

 

為すこと、心に浮ぶこと、それ自体が礼拝となるからぞ。

 

山も自分、川も自分、野も自分、海も自分ぞ。

 

草木動物 悉く自分ぞ、歓喜ぞ。その自分出来たら天を自分とせよ。

 

天を自分にするとはムにすることぞ。

 

〇に化すことぞ。

 

ウとムと組み組みて新しきムとすることぢゃ。

 

 

810>811

月光の巻、第二十三帖(八一〇)

 

他の宗教に走ってはならんと云う宗教もそれだけのもの。

 

 

判らんと申してもあまりであるぞ。

同じ所に天国もあり、地獄もあり、

霊界もあり、現実界もあり、過去も未来も中今にあるのぞ。

 

同じ部屋に他の神や仏をまつってはならん

と申す一方的なメクラ宗教にはメクラが集まるのぢゃ。

 

病気が治ったり運がひらけたり、

奇跡が起ったりするのみをおかげと思ってはならん。

 

もちと大き心、深い愛と真の世界を拝めよ。

 

とけ入れよ。

 

浄化が第一。

 

金が好きなら金を拝んでもよいのぢゃ。

 

区別と順序さへ心得て居れば何様を拝んでもよいぞ。

 

金を拝めば金が流れてくるぞ。

 

金を拝み得ぬイコヂさが そなたを乏しくしたのぢゃ。

 

赤貧は自慢にならん。

 

無神論も自慢にならん。

 

清貧はまけおしみ、清富になれよと申してあろうが。

 

清富こそ弥栄の道、神の道、大f:id:satonory4949:20200215124047g:plainf:id:satonory4949:20200215124049g:plainf:id:satonory4949:20200215124119g:plain大神のマコトの大道ぞ。

 

 

月光の巻、第二十四帖(八一一)

 

怒ってはならん。急いではならん。

 

怒ると怒りの霊界との霊線がつながり、

思わぬ怒りが湧いてものをこわして了ふぞ。

 

太神のしぐみに狂ひはないぞ。

 

皆々安心してついて御座れよ。

 

 

まぜまぜ 七五一~七九五

ひふみ神示 まぜまぜの第七五一帖~第七九五帖

 

 

第二十九巻 秋の巻

全二十八帖・通し番号(七四二)~(七六九)のうち(七四二)~(七五〇)

全二十八帖・通し番号(七四三)~(七七〇)のうち(七五一)~(七七〇)

  昭和二十七年 四月十一日

※通し番号を振りなおしました。(夏の巻、第二十二帖から)

 

第三十巻 冬の巻

全十八帖・通し番号(七七一)、(七八七)

自  昭和二十七年 五月 五日

至  昭和二十七年 六月 九日

 

 

ひふみ神示(補巻)月光の巻

全六十二帖・通し番号(七八八)~(八四九)のうち(七八八)~(七九五)

自  昭和三十三年十二月二十五日

至  昭和三十四年 三月  二日

 

 

 

751>795

秋の巻、第九帖(七五一)

 

みろくの世となれば世界の国々がそれぞれ独立の、

独自のものとなるのであるぞ。

 

ぢゃが皆それぞれの国は一つのへそで、

大き一つのへそにつながってゐるのであるぞ。

 

地上天国は一国であり、一家であるが、

それぞれの、又自づから異なる小天国が出来、民族の独立性もあるぞ。

 

一色にぬりつぶすような一家となると思ふてゐるが、

人間のあさはかな考へ方ぞ。

 

考へ違ひぞ。

 

この根本を直さねばならん。

 

霊界の通りになるのぢゃ。

 

 

月光の巻、第八帖(七九五)

 

神の御用は、神のみこと(命(実言))のままでなくては成就せん。

 

皆々釈迦ぞ、キリストぞ。

 

もっと大き計画もちて御座れ。

 

着手は出来る処からぞ。

 

つかめる所から神をつかめよ。

 

部分からつくり上げなされよ。

 

我出してはならん。

 

そなたはそれでいつもしくじってゐるでないか。

 

天狗ではならん。

 

心出来たら足場固めねばならん。

 

神の足場は人ぢゃ。

 

三千の足場、五千の足場。

 

 

752>794

秋の巻、第十帖(七五二)

 

外の喜びはその喜びによって悪をまし、

内の喜びはその喜びによって善をますなれど、

マコトの喜びは外内と一つになり、二つになり、

三つになった喜びとならねば、弥栄ないぞ。

 

 

月光の巻、第七帖(七九四)

 

大奥山は神人交流の道の場である。

 

道は口で説くものではない。

 

行ずるものである。

 

教は説かねばならない。

 

多数決が悪多数決となるわけが何故に判らんのぢゃ。

 

投票で代表を出すと殆んどが悪人か狂人であるぞ。

 

世界が狂ひ、悪となり、人民も同様となっているから、

その人民の多くが選べば選ぶ程、益々混乱してくるのであるぞ。

 

それより他に人民の得心出来る道はないと申してゐるが、道はいくらでもあるぞ。

 

人民の申してゐるのは平面の道、平面のみでは乱れるばかり、

立体にアヤなせば弥栄えて真実の道が判るのぢゃ。

 

ぢゃと申して独裁ではならん。

 

結果から見れば神裁ぢゃ。

 

神裁とは神人交流によることぞ。(十二月二十五日)

 

神はうそつきぢゃと人民申しても、

悪い予言はうそにしたいので日夜の苦労、

こらえられるだけこらえてゐるのである。

 

もう、ものばかりでは治まらんこと、

キンでは治まらんこと、平面のみでは駄目であること、

よく判ってゐるのにカブトぬげん神々様よ、

気の毒が来ぬ前に改心結構。

 

遠くからでは判らんし、近づくと迷うし、理屈すてて神にほれ参らせよ。

 

よくこの神をだましてくれたぞ、

この神がだまされたればこそ、太神の目的なってくるのぢゃ。

 

細工はりゅうりゅう仕上げ見て下されよ。

 

 

区別すると力出るぞ、同じであってはならん。

 

平等でなくてはならんが、区別なき平等は悪平等である。

 

天に向って石を投げるようなことは、早くやめねばならん。

 

霊かかりもやめて下されよ。

 

人民が絶対無と申してゐるところも、絶対無ではない。

 

科学を更に浄化弥栄させねばならん。

 

空間、時間が霊界にないのではない。

 

その標準が違うから無いと考えてよいのである。

 

奥山は奥山と申してあろう。

 

いろいろな団体をつくってもよいが、

何れも分れ出た集団、一つにしてはならん。

 

奥山はありてなきもの、なくて有る存在である。

 

奥山と他のものとまぜこぜまかりならん。

 

大き一つではあるが別々ぞ。

 

今迄になかった奥山のあり方、判らんのも無理ないなれど、

これが判らねば この度の大神業、判りはせんぞ。

 

 

753>793

秋の巻、第十一帖(七五三)

 

親と子は、生むと生まれるとの相違出来てくるぞ。

 

又上の子と下の子と、左の子と右の子とは違ふのであるぞ。

 

違へばこそ存在する。

 

 

月光の巻、第六帖(七九三)

 

あまてらすおほかみは、たかあまのはらをしらすべし。

 

また、たかあまのはらをしらすべし、

また、たかあまはらをしらすべし、

 

つきよみのおほかみは、あまてらすおほかみとともに、

あめのことをしらすべし。

 

また、あほうなはら しほのやほへをしらすべし。

 

また、よるのおすくにをしらすべし。

 

すさなおのおほかみは、

あほうなのはらをしらすべし、

また、あほうなはらをしらすべし。

 

また、あまがしたをしらすべし。

 

 

754>792

秋の巻、第十二帖(七五四)

 

神について御座れよ。

 

理屈申さず、ついて御座れよ。

 

地獄ないと申してあろう。

 

人は神の喜びの子と申してあらう。

 

人の本性は神であるぞ。

 

神なればこそ天国へ自づから行くのぢゃ。

 

住むのぢゃ。

 

 

月光の巻、第五帖(七九二)

 

十くさ、十二くさのかむたから、

おきつかがみ、へつかがみ、

八つかのつるぎ、九つかのつるぎ、十つかのつるぎ、

いくたま、まがるかへしのたま、

たるたま、ちかへしのたま、

おろちのひれ、はちのひれ、くさくさのひれ、であるぞ。

 

む、ひと、ふた、み、よ、いつ、む、なな、や、ここ、たり、う、であるぞ。

う、たり、ここ、や、なな、む、いつ、よ、み、ふた、ひと、む、であるぞ。

 

となへよ。

 

のりあげよ。

 

 

755>791

秋の巻、第十三帖(七五五)

 

人民、うそが上手になったから中々油断ならんぞ。

 

下々の神さまも、うそ上手になったなぁ。

 

善ぢゃ悪ぢゃと申してゐるが、

人民の善はそのまま霊人の善でないぞ。

 

そのまま霊人の悪でないぞ。

 

心して呉れ。

 

 

月光の巻、第四帖(七九一)

 

あめのみなかぬしのかみのそのまへに、

あめゆづる日あめのさぎりのみこと。

 

くにゆづる月、地のさぎりのみことあるぞ。

 

ΘのΘのΘであるぞ。

 

その前にゝあることわするるなよ。

 

 

756>790

秋の巻、第十四帖(七五六)

 

グッとしめたり、ゆるめたりして呼吸しなければならん。

 

其処に政治のうごきあるぞ。

 

経済の根本あるぞ。

 

逆にしめる事もあるぞ。

 

善と申し悪の御用と申すことの動き、そこから出るのぢゃ。

 

じっとしてゐてはならん。

 

ジッとしてゐる善は善でないぞ。

 

 

月光の巻、第三帖(七九〇)

 

こんどは、八のくまではたらん。

 

十のくま、十のかみをうまねばならんぞ。

 

そのほかに、

かくれた二つのかみ、二つのくまをうみて、そだてねばならんことになるぞ。

 

 

757>789

秋の巻、第十五帖(七五七)

 

何程 世界の為ぢゃ、人類の為ぢゃと申しても、

その心が、我が強いから、

一方しか見えんから、世界のためにならん。

 

人類の為にならんぞ。

 

洗濯ぢゃ洗濯ぢゃ。

 

自分が生んだもの、自分から湧き出るものは、いくら他に与へてもなくならんぞ。

 

与へよ、与へよ、

与へてなくなるものは自分のものでないと申してあろう。

 

無くなると思ふのは形のみ見てゐるからぢゃ。

 

カラのみ見るからぢゃぞ。

 

本質は無限に拡がるぞ。

 

与へる程よりよく、神から与へられるぞ。

 

井戸の水のようなもんぢゃ。

 

汲めば汲むほどよくなる仕組。

 

 

月光の巻、第二帖(七八九)

 

きすうときすうをあはしても、ぐうすう、

ぐうすうとぐうすうをあはしてもぐうすうであることをわすれてはならんぞ。

 

きすうとぐうすうをあはしてはじめて、

あたらしき、きすうがうまれるのであるぞ。

 

こんどのいわとひらきには ひるこうむでないぞ。

 

あはしまうむでないぞ。

 

 

758>788

秋の巻、第十六帖(七五八)

 

統一と云ふことは赤とか白とか一色にすることではないぞ。

 

赤もあれば黄もあり青もあるぞ。

 

それぞれのものは皆それぞれであって一点のゝでくくる所に統一あるぞ。

 

くくると申してしばるのでないぞ。

 

磁石が北に向くよう、総て一点に向かうことであるぞ。

 

これを公平と申し、平等と申すのぢゃ。

 

悪平等悪平等

 

一色であってはならんのう。

 

下が上に、上が下にと申してあるが、一度で治まるのでないぞ。

 

幾度も幾度も上下にひっくりかへり、又ひっくりかへりビックリぢゃ。

 

ビックリこねまわしぢゃ。

 

 

月光の巻、第一帖(七八八)

 

なりなりて なりあまれるところもて、

なりなりて なりあはざるところをふさぎて、くにうみせなならんぞ。

 

このよのくにうみは一つ(秘答通)(ヒトツ)おもて(面)でしなければならん。

 

みと(実透)のまぐはひでなくてはならんのに、

おもてを一つにしてゐないではないか。

 

それでは、こんどのことは、じょうじゅせんのであるぞ。

 

 

759>787

秋の巻、第十七帖(七五九)

 

神示が一度で判る人民にはミタマシズメやカミシズメやカミカカリはいらん。

 

判らんからやらしてゐるのぢゃ。

 

やらせねば判らんし、やらすとわき道におちゐるし、

いやはや困ったもんぢゃのう。

 

 

冬の巻、補帖(七八七)

 

病、ひらくことも、運、ひらくことも、皆 己からぢゃと申してあろう。

 

誰でも、何でもよくなるのが神の道、神の御心ぢゃ。親心ぢゃ。

 

悪くなると云ふことないのぢゃ。

 

迷ひが迷ひ生むぞ。

 

もともと病も不運もない弥栄のみ、喜びのみぢゃ。

 

神がよろこびぢゃから、その生んだもの皆よろこびであるぞ。

 

この道理よくわきまえよ。

 

毎日々々、太陽と共に、太陽について起き上がれよ。

 

その日の仕事、与へられるぞ。仕事いのちと仕へまつれよ。

 

朝寝するからチグハグとなるのぢゃ。

 

不運となるのぢゃ、仕事なくなるのぢゃ。

 

神について行くことが祈りであるぞ。

 

よろこびであるぞ。

 

食物、食べ過ぎるから病になるのぢゃ。

 

不運となるのぢゃ。

 

口から出るもの、入るもの気つけよ。

 

いくさ起るのぢゃ。

 

人間の病や、いくさばかりでない、

国は国の、世界は世界の、山も川も海も、みな病となり、不運となってくるぞ。

 

食べないで死ぬことないぞ。

 

食べるから死ぬのぢゃぞ。

 

 一椀をとって先づ神に供へよ。

 

親にささげよ。

子にささげよ。

腹八分の二分はささげよ。

 

食物こそは神から、親から与へられたものであるぞ。

 

神にささげずにむさぶるからメグリつむのぢゃ。

 

メグリが不運となり、病となるのぢゃぞ。

 

運ひらくのも食物つつしめばよい。

 

言つつしめばよい。

腹十分食べてはこぼれる。

 

運はつまってひらけん。

 

この判りきったこと、何故に判らんのぢゃ。

 

 ささげるからこそ頂けるのぢゃ。

 

頂けたらささげると今の人民申してゐるが、それがウラハラと申すもの。

 

衣類も家も土地も、みな神から頂いたのでないぞ。

 

あづけられてゐるのであるぞ。

人民に与へられてゐるものは食物だけぢゃ。

 

日のめぐみ、月のめぐみ、地のめぐみだけぢゃぞ。

 

その食物節してこそ、ささげてこそ、運ひらけるのぢゃ。

 

病治るのぢゃ。

 

人民ひぼしにはならん。

 

心配無用。

 

食物、今の半分で足りると申してあらうが。

 

遠くて近いものヒフミの食べ方して見なされよ。

 

運ひらけ、病治ってうれしうれしと輝くぞ。

 

そんなこと位で、病治ったり、運ひらける位なら、

人民はこんなに苦しまんと申すが、それが理屈と申すもの。

 

理屈悪と申してあるもの。

 

低い学に囚われたメクラ、ツンボと申すものぞ。

 

 理屈すてよ。

すててやって見なされ。

 

みなみな気つかん理(ミチ)、気つかん病になってゐるぞ。

 

ツキモノがたらふく食べてゐることに気づかんのか。

 

食物節すればツキモノ改心するぞ。

 

先づ百日をめあてに、百日過ぎたら一年を、

三年つづけたら開運間違ひなし。

 

病もなくなってうれしうれしとなるぞ。

 

三年目、五年目、七年目ぞ、めでたいナア、めでたいナア。

 

六月九日、ひつくの神。

 

 以上

(冬の巻了)

 

 

760>771

秋の巻、第十八帖(七六〇)

 

人民は神のへそとつながってゐるのであるぞ。

 

へその緒さへつながって居ればよく、神人であるぞ。

 

ゝとゝとつながって更に大きゝにつながってゐるからこそ動きあり、

それぞれのハタラキあり、使命を果たし得るのであるぞ。

 

同じであって全部が合一しては力出ないのであるぞ。

 

早う心いれかへと申してあるが、心とは外の心であるぞ。

 

心の中の中の中の心の中にはゝが植付けてあるなれど、外がまっくらぢゃ。

 

今迄のやり方では行けんこと判りて居らうがな。

 

いらんものは早うすてて了へよ。

 

直々の大神様は二(ツキ)の大神様なり。

 

 

冬の巻、第一帖(七七一)

 

宇宙は霊の霊と物質とからなってゐるぞ。

 

人間も又同様であるぞ。

 

宇宙にあるものは皆人間にあり。

人間にあるものは皆宇宙にあるぞ。

 

人間は小宇宙と申して、神のヒナガタと申してあらう。

 

人間には物質界を感知するために五官器があるぞ。

霊界を感知するために超五官器あるぞ。

神界は五官と超五官と和して知り得るのであるぞ。

 

この点 誤るなよ。

 

霊的自分を正守護神と申し、神的自分を本守護神と申すぞ。

幽界的自分が副守護神ぢゃ。

本守護神は大神の歓喜であるぞ。

 

神と霊は一つであって、幽と現、合せて三ぞ。

 

この三は三にして一、一にして二、二にして三であるぞ。

 

故に肉体のみの自分もなければ霊だけの自分もない。

 

神界から真直ぐに感応する想念を正流と申す。

 

幽界を経て又幽界より来る想念を外流と申すぞ。

 

人間の肉体は想念の最外部、最底部をなすものであるから

肉体的動きの以前に於て霊的動きが必ずあるのであるぞ。

 

故に人間の肉体は霊のいれものと申してあるのぞ。

 

又 物質界は、霊界の移写であり衣であるから、

霊界と現実界、又 霊と体とは殆んど同じもの。

 

同じ形をしてゐるのであるぞ。

 

故に物質界と切り離された霊界はなく、

霊界と切り離した交渉なき現実界はないのであるぞ。

 

人間は霊界より動かされるが、

又 人間自体よりかもし出した霊波は反射的に霊界に反影するのであるぞ。

 

人間の心の凸凹によって、一は神界に、一は幽界に反影するのであるぞ。

 

幽界は人間の心の影が生み出したものと申してあろうがな。

 

 

総ては大宇宙の中にあり、

その大宇宙である大神の中に、大神が生み給ふたのであるぞ。

 

このことよくわきまへて下されよ。

 

善のこと悪のこと、善悪のこと、よく判って来るのであるぞ。

 

故に、人間の生活は霊的生活、言の生活であるぞ。

 

肉体に食ふことあれば霊にもあり、言を食べているのが霊ぞ。

 

霊は言ぞ。

 

この点が最も大切なことじゃから、くどう申しておくぞ。

 

 

死んでも物質界とつながりなくならん。

 

生きてゐる時も霊界とは切れんつながりあること、とくと会得せよ。

 

そなた達は神をまつるにも、祖先まつるにも物質のめあてつくるであろうがな。

 

それはまだまだ未熟な事ぞ。

 

死後に於ても、現実界に自分がある。

 

それは丁度、生きてゐる時も半分は霊界で生活してゐるのと同じであるぞ。

 

自分の衣は自分の外側であるぞ。

 

自分を霊とすると、衣は体、衣着た自分を霊とすれば家は体、

家にゐる自分を霊とすれば土地は体であるぞ。

 

更に祖先は過去の自分であり、子孫は新しき自分、未来の自分であるぞ。

 

兄弟姉妹は最も近き横の自分であるぞ。

 

人類は横の自分、動、植、鉱物は更にその外の自分であるぞ。

 

切りはなすこと出来ん。

 

自分のみの自分はないぞ。

 

縦には神とのつながり切れんぞ。

 

限りなき霊とのつながり切れんぞ。

 

故に、神は自分であるぞ。

 

一切は自分であるぞ。

 

一切がよろこびであるぞ。

 

霊界に於ける自分は、殊に先祖との交流、交渉深いぞ。

 

よって、自分の肉体は自分のみのものでないぞ。

 

先祖霊と交渉深いぞ。

 

神はもとより一切の交渉あるのであるぞ。

 

その祖先霊は神界に属するものと幽界に属するものとあるぞ。

中間に属するものもあるぞ。

 

神界に属するものは、正流を通じ、

幽界に属するものは外流を通じて自分に反応してくるぞ。

 

正流に属する祖先は正守護神の一柱であり、

外流に加はるものは、副守護神の一柱と現はれてくるのであるぞ。

 

外流の中には、動植物霊も交ってくることあるぞ。

 

それは己の心の中にその霊と通ずるものあるためぞ。

 

一切が自分であるためぞ。

常に一切を浄化せなならんぞ。

霊は常に体を求め、体は霊を求めて御座るからぞ。

 

霊体一致が喜びの根本であるぞ。

 

一つの肉体に無数の霊が感応し得るのざ。

 

それは霊なるが故にであるぞ。

 

霊には霊の霊が感応する。

 

又 高度の霊は無限に分霊するのであるぞ。

 

二重三重人格と申すのは、

二重三重のつきものの転換によるものであり、

群集心理は一時的の憑依霊であると申してあろうがな。

 

霊が元と申してくどう知らしてあろうが。

 

人間は現界、霊界共に住んで居り、その調和をはからねばならん。

 

自分は自分一人でなく、

タテにもヨコにも無限につながってゐるのであるから、

その調和をはからねばならん。

 

それが人間の使命の最も大切なことであるぞ。

 

調和乱すが悪ぞ。

 

人間のみならず、総て偏してならん。

 

霊に偏してもならん。

 

霊も五、体も五と申してあらう。

 

ぢゃが主は霊であり体は従ぞ。

 

神は主であり、人間は従であるぞ。

 

五と五と同じであると申してあろう。

 

差別則平等と申してあらう。

 

取り違い禁物ぞ。

 

神は愛と現はれ、真と現はれるのであるが、その根はよろこびであるぞ。

 

神の子は皆よろこびぢゃ。

よろこびは弥栄ぞ。

ぢゃがよろこびにも正流と外流とあるぞ。

間違へてならんぞ。

 

正流の歓喜は愛の善となって現はれて、又 真の信と現はれるぞ。

 

外流のよろこびは愛の悪となって現れるぞ。

 

何れも大神の現れであること忘れるなよ。

 

悪抱き参らせて進むところにマコトの弥栄あるのであるぞ。

 

神は弥栄ぞ。

 

これでよいと申すことないのであるぞ。

 

大完成から超大大完成に向って常に弥栄してゐるのであるぞよ。

 

宇宙は総てに於ても、

個々に於ても総てよろこびからよろこびに向って呼吸してゐるのぞ。

 

よろこびによって創られてよろこんでゐるのであるぞ。

 

故によろこびなくして生きないぞ。

 

合一はないぞ。

 

愛は愛のみではよろこびでないぞと申してあろう。

 

真は真のみでは喜びでないと申してあろうが。

 

愛と真と合一し、ゝするところに、陰と陽と合一、

弥栄したところによろこびあるのぢゃぞ。

 

この巻 冬の巻、五月五日の佳き日。

 

ひつく神。

 

 

761>770

秋の巻、第十九帖(七六一)

 

中今(ナカイマ)と申すことは、ゝ今と申すこと。

 

ゝは無であるぞ。

 

動きなき動きであるぞ。

 

そのことよくわきまへよ。

 

今迄のこと、やり方かえねばならん。

 

一段も二段も三段も上の広い深い、

ゆとりのあるやり方に、神のやり方に、規則のない世に、

考へ方、やり方、結構であるぞ。

 

 

秋の巻、第二十八帖(七七〇)

 

霊はものにつくと申してあろう。

 

払ひするときはモノにつけて、モノと共にせよ。

 

共に祓へよ。

 

これほどマコト申しても、

残る一厘はいよいよのギリギリでないと申さんから、

うたがふのも無理ないなれど、見て御座れよ。

 

神の仕組 見事成就いたすぞ。

 

一厘のことは知らされんぞと申してあろう。

 

申すと仕組成就せんなり。

 

知らさんので、改心おくれるなり、心の心で取りて下されよ。

 

肉体は霊の衣と申してあらう。

 

衣が霊を自由にしてはならんぞ。

 

衣には衣の約束あるぞ。

 

衣ぢゃと申して粗末してはならん。

 

何れも神の現れであるぞ。

 

内には内の内があり、外には外の外があるぞ。

 

人ほめよ。

 

人ほめることは己ほめることぞ。

 

この巻、秋の巻。

 

四月十一日、ひつく神。

(秋の巻了)

 

 

762>769

秋の巻、第二十帖(七六二)

 

【科学にゝ入れると宗教となるのぢゃ】。

 

ゝは数。

 

カネは掘り出せん。

 

生み出してくれよ。

 

 

秋の巻、第二十七帖(七六九)

 

型にはまることをカタマルと申すのぢゃ。

 

こり固まっては動きとれん。

 

固まらねば型出来んで、人民には判らんし、型外して、型をつくらねばならん。

 

法律つくらねばならんが、つくってもならんぞ。

 

神から命令されたミタマでも油断は出来ん。

 

曇りたらすぐ代りのミタマと入れ替えるのであるぞ。

 

コリ固まったものがケガレぢゃ。

 

ケガレはらさねばならん。

 

絶えず払って払って払ひつつ、又固まらねばならんし、人民には判らんし、

肉体あるから固まらねばならんし、常に払ひせねばならん。

 

総てをこんなもんぢゃときめてはならんぞ。

 

ゝ枯れることをケガレと申すのぢゃ。

 

判りたか。

 

神界の立替ばかりでは立替出来ん。

 

人民界の立替なかなかぢゃナア。

 

 

763>768

秋の巻、第二十一帖(七六三)

 

和が根本、和がよろこびぞ。

 

和すには神を通じて和すのであるぞ。

 

神を通さずに、神をなくして通づるのが悪和合。

 

神から分れたのであるから神に帰って、神の心に戻って和さねばならん道理。

 

神なくして和ないぞ。

 

世界平和と申してゐるが、

神にかへって、神に通じねば和平なく、よろこびないぞ。

 

十二の玉を十まで生んで、後二つ残してあるぞ。

 

 

秋の巻、第二十六帖(七六八)

 

中は無、外は有であるぞ。

 

中になる程 無の無となるのぢゃ。

 

同じことくり返すと、人民申すであろうが、

得心して居らんから、かんじんのことぢゃから、クドう申してゐるのぢゃ。

 

人民それぞれのミタマによって役目違ふのであるぞ。

 

手は手、足は足と申してあろう。

 

何も彼もマゼコゼにやるから結びつかんのぢゃ。

 

 

764>767

秋の巻、第二十二帖(七六四)

 

神にとけ入れと申してあろう。

 

次元が違うから、戒律出来るから、判らんのぢゃ。

 

解け入れよ。

 

何につけても大いくさ。

 

人の殺し合ひばかりでないと知らしてあらう。

 

ビックリぢゃ。

 

 

 

秋の巻、第二十五帖(七六七)

 

ウはムであるぞ。

 

ウとは現実界ぞ。

 

ムとは霊界であるぞ。

 

ウもムも同じであるぞ。

 

ムからウ生れて来ると申してあること、よく心得よ。

 

神の仕組、狂ひないなれど、人民に判らねば、それだけこの世の歩みおくれるのぢゃ。

 

この世は人民と手引かねばならんから、苦しみが長くなるから、

千人万人なら一人づつ手引いてやりても やりやすいなれど、

世界の人民、動物虫けらまでも助ける仕組であるから、

人民 早う改心せねば、気の毒いよいよとなるぞ。

 

 

765>766

秋の巻、第二十三帖(七六五)

 

神が主であり人民が従であると申してあろう。

 

これを逆にしたから世が乱れてゐるのぞ。

 

結果あって原因あるのでないぞ。

 

今の人民、結構すぎて天地の御恩と申すこと忘れてゐるぞ。

 

いよいよとなって泣面せねばならんこと判りてゐるから、くどう気付けてゐるのぢゃ。

 

マコトのことはトリの年。

 

 

秋の巻、第二十四帖(七六六)

 

上から見ると皆人民ぢゃ。

 

下から見ると皆神ぢゃ。

 

判りたと思ふて御座るなれど、

神の経綸が学や、金銀つんで、チョットやソットで判る筈ないぞや。

 

今迄の、三千年のやり方違ってゐたと心つくなれば、

心付いて神示よむなれば、一切のことありやかとなるのぢゃ。

 

カンジンぢゃ。

 

まぜまぜ 七二一~七五〇

ひふみ神示 まぜまぜの第七二一帖~第七五〇帖

 

 

第二十八巻 夏の巻

全二十五帖・通し番号(七一八)~(七四一)のうち(七一八)~(七四一)

全二十五帖・通し番号(七一八)~(七四二)のうち(七一八)~(七四二)

 ※通し番号を振りなおしました。(夏の巻、第二十二帖から)

 

自  昭和二十七年 三月 三日

至  昭和二十七年 三月 八日

 

 

第二十九巻 秋の巻

全二十八帖・通し番号(七四二)~(七六九)のうち(七四二)~(七五〇)

全二十八帖・通し番号(七四三)~(七七〇)のうち(七四三)~(七五〇)

  昭和二十七年 四月十一日

 

 

 

 

721>750

夏の巻、第四帖(七二一)

 

何神様とハッキリ目標つけて拝めよ。

 

只ぼんやり神様と云っただけではならん。

 

大神は一柱であるが、あらわれの神は無限であるぞ。

 

根本の、太f:id:satonory4949:20200215124047g:plainf:id:satonory4949:20200215124049g:plainf:id:satonory4949:20200215124119g:plain(ヒツキ)大神さまと念じ、

その時その所に応じて、特に何々の神様とお願ひ申せよ。

 

信じ合ふものあれば、

病気も又たのしく、

貧苦も亦たのしいのであるぞ。

 

例外と申すのは、ないのであるぞ。

 

他の世界、他の天体、

他の小宇宙からの影響によって起る事象が例外と見えるのぢゃ。

 

心大きく、目ひらけよ。

 

 

秋の巻、第八帖(七五〇)

 

何事もよろこびからぞ。

 

結果から又よろこび生れるぞ。

 

この道理わかれば何事もありやか。

 

 

 

722>749

夏の巻、第五帖(七二二)

 

なりなると申してあろうが。

 

なると申すのは内分は同じであるが、形の変ることであるぞ。

 

ウムとナルとは同じであって、同じでないぞ。

 

 

秋の巻、第七帖(七四九)

 

公のことに働くことが己のため働くこと。

 

大の動きなすために小の動きを為し、

小の動きなすために個の動きなすのであるぞ。

 

ゝにゝあり、又ゝあると申してあるぞ。

 

 

723>748

夏の巻、第六帖(七二三)

 

ほんとうにモノを見、きき、味はい、消化して行かなならんぞ。

 

地の上にあるもの、人間のすること、

その総ては霊界で同じことになっていると申してあろうが。

 

先づ霊の世界のうごき大切。

 

霊の食物、霊の生活、求める人民 少ないのう。

 

これでは、片輪車、いつまでたってもドンテンドンテンじゃぞ。

 

そのものを見、

そのものに接して下肚がグッと力こもってくるものはよいもの、

ほんものであるぞ。

 

キは総てのものに流れ込むもの。

 

信仰は理智的にも求められる、完き情である。

 

真理を理解するのが早道。

 

確信となるぞ。

 

 

秋の巻、第六帖(七四八)

 

他を愛するは真愛ぞ。

 

己のみ愛するのは自己愛ぞ。

 

自己愛を排してはならん。

 

自己愛をひろげて、大きくして真愛と合致させねばならん。

 

そこに新しき理(ミチ)ひらけるのであるぞ。

 

自己愛を悪魔ととくは悪魔ぞ。

 

無き悪魔つくり、生み出すでないぞ。

 

一段昇らねば判らん。

 

 

 

724>747

夏の巻、第七帖(七二四)

 

神も人間も同じであると申してあろう。

 

同じであるが違ふと申してあろう。

 

それは大神の中に神を生み、神の中に人民生んだためぞ。

 

自分の中に、自分新しく生むときは、自分と同じカタのものを生む。

 

大神弥栄なれば、神も弥栄、神弥栄なれば人民弥栄ぞ。

 

困るとか、苦しいとか、貧しいとか、悲しいとか云う事ないのであるぞ

 

。理(ミチ)ふめと申すのは、

生みの親と同じ生き方、同じ心になれよと申すことぞ。

 

人民いくら頑張っても神の外には出られんぞ。

 

神いくら頑張っても大神の外には出られんぞ。

 

 

秋の巻、第五帖(七四七)

 

へその緒はつながってゐるのであるから、

一段奥のへそえへそえと進んで行けば、

其処に新しき広い世界、大きくひらけるのであるぞ。

 

自分なくするのではなく高く深くするのであるぞ。

 

無我でないぞ。

 

判りたか。

 

海の底にはキンはいくらでもあるぞ。

 

幽界と霊線つなぐと自己愛となり、

天国と霊線つなげば真愛と現れるぞ。

 

よろこびも二つあるぞ。

 

三つあるぞ。

 

歓喜は一つなれど、次の段階では二つとなるのであるぞ。

 

 

 

725>746

夏の巻、第八帖(七二五)

 

見へるものから来る幸福には限りがあるが、

見えんものから来る幸福は無限ぞ。

 

つきんよろこびは常に神から。

 

 

秋の巻、第四帖(七四六)

 

道徳、倫理、法律は何れも人民のつくったもの。

 

本質的には生れ出た神の息吹きによらねばならん。

 

神も世界も人民も何れも生長しつつあるのざ。

 

何時までも同じであってはならん。

 

三千年一切りぢゃ。

 

今迄の考へ方を変へよと申してあらう。

 

道徳を向上させよ。

 

倫理を新しくせよ。

 

法律を少なくせよ。

 

何れも一段づつ上げねばならん。

 

今迄のやり方、間違ってゐたこと判ったであらう。

 

一足飛びには行かんなれど、一歩々々上って行かなならんぞ。

 

ぢゃと申して土台をすててはならん。

 

土台の上に建物たてるのぢゃ。

 

空中楼閣 見て居れん。

 

 

 

726>745

夏の巻、第九帖(七二六)

 

ウムと申すことは、自分をよりよく生長さすこと。

 

一つ生めば自分は一段と上に昇る。

 

この道理わかるであろうがな。

 

産むことによって、自分が平面から立体になるのであるぞ。

 

毎日、一生懸命に掃除してゐても、何処かにホコリ残るもんぢゃ。

 

まして掃除せん心にホコリつもってゐること位、

誰にでも判ってゐるであろうが。

 

神示で掃除せよ。

 

大病にかかると借金してでも名医にかかるのに、

霊的大病は知らん顔でよいのか。

 

信仰を得て霊的に病気を治すのは、一瞬には治らんぞ。

 

奇跡的に治るとみるのは間違ひ。

 

迷信ぞ。

 

時間もいり手数もいる。

 

物も金もいる。

 

大き努力いるのであるぞ。

 

取違ひ多いのう。

 

 

秋の巻、第三帖(七四五)

 

霊界での現れは同じであっても、

現実界に現れる時は違ふことあるぞ。

 

それはモノが異なるからぞ。

 

二二はもとのキぞ。

 

ナルトとはその現れのはたらき。

 

 

 

727>744

夏の巻、第十帖(七二七)

 

過去も未来も中今(ナカイマ)。

 

神も人間と同じで、弥栄して行くぞ。

 

悪いくせ直さねば いつ何時までたっても自分に迫ってくるもの変らんぞ。

 

おかげないと不足申してゐるが、

悪いくせ、悪い内分を変へねば百年祈りつづけてもおかげないぞよ。

 

理屈なしに子は親を信ずるぞ。

 

その心で神に対せよ。

 

神が親となるのぢゃ。

 

目と口から出るもの、目の光りと声とは、

実在界にも実力もってゐるのであるぞ。

 

力は体験通して出るのであるぞ。

 

 

秋の巻、第二帖(七四四)

 

人民は土でつくったと申せば、

総てを土でこねてつくり上げたものと思ふから、

神と人民とに分れて他人行儀になるのぞ。

 

神のよろこびで土をつくり、それを肉体のカタとし、

神の歓喜を魂としてそれにうつして、

神の中に人民をイキさしてゐるのであるぞ。

 

取り違ひせんように致しくれよ。

 

親と子と申してあろう。

 

木の股や土から生れたのではマコトの親子ではないぞ。

 

世界の九分九分九厘であるぞ。

 

あるにあられん、さしも押しも出来んことがいよいよ近うなったぞ。

 

外は外にあり、内は内にあり、

外は内を悪と見、内は外を悪として考へるのであるが、

それは善と悪でないぞ。

 

内と外であるぞ。

 

外には外のよろこび、内には内のよろこびあるぞ。

 

二つが和して一となるぞ。

 

一が始めぞ、元ぞ。

 

和して動き、動いて和せよ。

 

悪を悪と見るのが悪。

 

 

 

728>743

夏の巻、第十一帖(七二八)

 

カタは形をもたねばならん。

 

念は語ることによって現れるのぢゃ。

 

ゝが無なればなる程〇は有となるであるぞ。

 

このことよく判りて下されよ。

 

肚の中のゴモクすてるとよくわかる。

 

 

秋の巻、第一帖(七四三)

 

同じ神の子でも本家と分家とあるぞ。

 

本家は人間ぢゃ。

 

分家は動植物ぢゃ。

 

本家と分家は神の前では同じであるが、位置をかへると同じでないぞ。

 

三十年で世の立替いたすぞ。

 

これからは一日ましに世界から出て来るから、

如何に強情な人民でも往生いたすぞ。

 

神は喜びであるから、

人の心から悪を取り除かねば神に通じないぞと教へてゐるが、

それは段階の低い教であるぞ。

 

大道でないぞ。

 

理屈のつくり出した神であるぞ。

 

大神は大歓喜であるから悪をも抱き参らせてゐるのであるぞ。

 

抱き参らす人の心に、マコトの不動の天国くるぞ。

 

抱き参らせば悪は悪ならずと申してあろうが。

 

今迄の教は今迄の教。

 

 

 

729>742

夏の巻、第十二帖(七二九)

 

キがもとと申してあろうがな。

 

人民は総てのもののキいただいて成長してゐるのであるぞ。

 

キ頂けよ。

 

横には社会のキを、縦には神の気を、悪いキを吐き出せよ。

 

よい気 養って行けよ。

 

【見分ける鏡与へてある】でないか。

 

道わからねば人にきくであろうが。

 

判らんのに判った顔して歩き廻ってゐてはならん。

 

人にたづねよ。

 

これと信ずる人にたづねよ。

 

天地にたづねよ。

 

神示にたづねよ。

 

 

夏の巻、第二十五帖(七四二)

 

二十二のように知らすぞ。

 

神の仕組、間違ひなし。

 

どしどしと運べよ。

 

三月八日、ひつく神。

(夏の巻了)

 

 

 

730>741

夏の巻、第十三帖(七三〇)

 

ウとムは相たがいに相反するのであるが、これが一つになって動く。

 

ウム組み組みてと、申してあろうがな。

 

今の人民の智では中々解けん。

 

ウの中心はム、ムの廻りはウであるぞ。

 

中心は無限、周辺は有限であること知れよ。

 

 

夏の巻、第二十四帖(七四一)

 

すべて世の中の出来ごとはそれ相当に意義あるのであるぞ。

 

意義ないものは存在ゆるされん。

 

それを人間心で、

邪と見、悪と感ずるから、狭い低い立場でゐるから、

いつまでたってもドウドウめぐり。

 

それを毒とするか薬とするかは各々の立場により、考へ方や、処理方法や、

いろいろの運び方によってしるのであるから、心せねばならんぞ。

 

「今」に一生懸命になりて下されよ。

 

三月三日、ひつく神。

 

 

 

731>740

夏の巻、第十四帖(七三一)

 

上にたつ程働かねばならん。

 

働いても力はへらん。

 

働くにはキ頂かねばならん。

 

キから力生れるのであるぞ。

 

働くと申して動くばかりでないぞ。

 

動かんのも働き、動くのも働き、よく心得よ。

 

よせては返し、よせては返し生きてゐるのであるぞ。

 

始の始と始が違ふぞ。

 

後になるほどよくなるぞ。

 

終りの中に始めあるぞ。

 

祈り、考へ、働きの三つ揃はねばならん。

 

 

夏の巻、第二十三帖(七四〇)

 

無限のものと、有限のものと、ムとウとをまぜまぜにして考へるから、

人民の頭は兎角ウになりがちぢゃぞ。

 

慾、浄化せよ。

 

 

 

732>739

夏の巻、第十五帖(七三二)

 

生めば生む程、自分新しくなり成り、大きくなる。

 

人間は大神のウズの御子であるから親のもつ、新しき、古きものが

そのままカタとして現れゐて、弥栄えてゐる道理ぢゃ。

 

人間の総てに迫り来るもの、総てを喜びとせよ。

 

努力せよ。

 

モノ喜ばせばモノは自分の喜びとなり、自分となる。

 

心の世界は無限に拡がり、生長するのであるぞ。

 

神にとけ入って宇宙大に拡がるのであるぞ。

 

神と共に大きくなればなるほど、喜び大きくなるのである。

 

一神説いて多神説かんのもかたわ、

多神説いて一神説かんのもかたわ、

一神則多神則汎神である事実を説いてきかせよ。

 

 

夏の巻、第二十二帖(七三九)

 

つくり主とつくられるものとでは無限にはなれて行くのぢゃ。

 

和ないぞ。和のないところ天国ないぞ。

 

こんな判りきったこと、何故にわからんのぢゃ。

 

尻の毛まで抜かれてゐると申してあろう。

 

早うめさめよ。

 

悪の道、教にまだ迷うて御座るが、早うめざめんと間に合はんぞ。

 

 

 

733>738

夏の巻、第十六帖(七三三)

 

人民は神のいれものと申してあろう。

 

神のゝと人間のゝと通じて居ればこそ呼吸するのぢゃ。

 

ゝとゝと通じて居ればそれでよいのぢゃ。

 

神のゝと人民のゝと通じて居るならば、

神の〇と人民の〇と同じようにしておかねばならんと申すのは、

人間の誤りやすい、いつも間違ひ起すもとであるぞ。

 

神の〇と人間の〇と同じようにしておくと思うて、

三千年の誤りしでかしたのぢゃ。

 

ゝとゝと結んでおけば後は自由ぢゃ。

 

人民には人民の自由あるぞ。

 

神のやり方と自ら違ふところあってよいのぢゃ。

 

天の理と人の理とは

同じであって違ふのざと知らしてあろう。

 

心得よ。

 

 

夏の巻、第二十一帖(七三八)

 

始めは形あるものを対象として拝むもよいが、

行きつまるのは目に見える世界のみに囚はれてゐるからぞ。

 

タテのつながりを見ないからであるぞ。

 

死んでも自分は生きてゐるのであるぞ。

 

大我に帰したり、理法にとけ入ったりして自分と云ふもの無くなるのでないぞ。

 

霊界と霊と、現界と現身(うつしみ)とのことはくどう説いてあろうが。

 

神示よめよめ。

 

大往生の理(ミチ)、弥栄に体得出来るのであるぞ。

 

霊と体と同じであると申しても、人間の世界では別々であるぞ。

 

内と外、上と下であるぞ。

 

取りちがいせんようして下されよ。

 

 

734>737

夏の巻、第十七帖(七三四)

 

神の姿は総てのものに現われてゐるぞ。

 

道ばたの花の白きにも現われてゐるぞ。

 

それを一度に、すべてを見せて、のみこませてくれと申しても判りはせんぞ。

 

判るところから、気長に神求めよ。

 

総ては神から流れ出てゐるのであるから、

神にお願ひして実行しなければならん。

 

この判り切った道理、おろそかにして御座るぞ。

 

そこに天狗出てゐるのぞ。

 

 

夏の巻、第二十帖(七三七)

 

人民の智の中に現われてくるときは、もはや大神ではないぞ。

 

神であるぞ。

 

原因の原因は中々見当とれん。

 

 

735>736

夏の巻、第十八帖(七三五)

 

自分が自分生むのであるぞ。

 

陰と陽とに分れ、更に分れると見るのは、

人間の住む次元に引下げての見方であるぞ。

 

陰陽分れるのでないこと、もとのもとの、もとの誠の弥栄知れよ。

 

 

夏の巻、第十九帖(七三六)

 

その人その人によって、食物や食べ方が少しづつ違ふ。

 

身体に合わんもの食べても何もならん。

 

かえって毒となるぞ。

 

薬、毒となることあると気つけてあろうが。

 

只歩きまわってゐるだけではならん。

 

ちゃんとめあてつくって、よい道 進んで下されよ。

 

飛行機あるに馬に乗って行くでないぞ。

 

額に先づ気あつめて、ハラでものごとを処理せねばならんぞ。

 

形ある世界では形の信仰もあるぞ。

 

偶像崇拝ぢゃと一方的に偏してはマコトは判らんぞ。