まぜまぜ(^^♪ひふみ神示 その2

ブースカ明日香さんを真似て書いてみました(^^) スマホでしたら、横画面にすると見やすいかと思います。 5/11改題しました。

まぜまぜ 六三一~六六〇

ひふみ神示 まぜまぜの第六三一帖~第六六〇帖

 

 

第二十六巻 黒鉄(クロガネ)の巻

全三十九帖・通し番号(六一九)~(六五七)のうち(六三一)~(六五七)

自  昭和二十五年一月二十二日

至  昭和二十五年十月 十八日

 

 

第二十七巻 春の巻

全六十帖・通し番号(六五八)~(七一七)のうち(六五八)~(六六〇)

自  昭和二十七年旧一月 一日

至  昭和二十七年 二月十五日

 

 

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黒鉄の巻、第十三帖(六三一)

 

理屈で進んで行くと、しまひには共喰から、

われとわれを喰ふことになるぞ。

 

神様を真剣に求めれば、神様は人間様を真剣に導いて下さるぞ。

 

結構に導いて下さるぞ。

 

悪を意志して善を理解すること許さんぞ。

 

悪を意志して善を理解せんとするのが悪ぞ。

 

善を意志して悪を理解せんとするのも悪ぞ。

 

悪を意志して悪を理解する処に、

善としての悪の用(はたらき)うまれるのざ。

 

幽界も亦(また)神のしろしめす一面のこと。(一月二十二日)

 

 

春の巻、第三帖(六六〇)

 

掛巻も、畏き極み、九二つ千の、

清(スガ)の中なる大清み、

清みし中の、清らなる、

 

清き真中の、よろこびの、

其の真中なる、御光の、

そが御力ぞ、綾によし、

 

十九立(トコタチ)まし、

大九二の十九立(オオクニのトコタチ)大神、

十四九百ヌ(トヨクモヌ)、十四(トヨ)の大神、

 

瀬織津の、ヒメの大神、

速秋の、秋津ヒメ神、

伊吹戸の、主の大神、

速々の、佐須良ヒメ神、

 

これやこの、太日月f:id:satonory4949:20200319171501g:plain(オオヒツキかみ)、

皇神(スメカミ)の御前畏こみ(みまえかしこみ)、

 

謹(つつし)みて、うなね突貫き(つらぬき)、白(もう)さまく、

ことのマコト(真言)を。伊行く水。

 

流れ流れて、月速み、

いつの程にや、この年の、

冬も呉竹(くれたけ)、一と夜(ヨサ)の、

 

梓(アズサ)の弓の、今とはや、

明けなむ春の、立ちそめし、

 

真玉新玉、よろこびの、

神の稜威(ミイヅ)に、つらつらや、

 

思ひ浮べば、天地(アメツチ)の、

始めの時に、大御祖神(オオミオヤ)、

九二十九立(クニトコタチ)の、大神伊、

 

三千年(みちとせ)、またも三千年(みちとせ)の、もまた三千年(みちとせ)、

浮きに瀬に、忍び堪えまし、波風の、

その荒々し、渡津海(ワタツミ)の、

 

塩の八百路(やほじ)の、八汐路(やしほじ)の、

汐(しお)の八穂合(やほあい)ひ、洗はれし、

 

孤島の中の、籠らひし、籠り玉ひて、畏くも(かしこくも)、

 

この世かまひし、大神の、

時めぐり来て、一筋の、光の御代と、出でませし、

 

めでたき日にぞ、今日の日は、

 

御前畏こみ(みまえかしこみ)、御饌御酒(ミケミキ)を、

ささげまつりて、海山野(ウミヤマヌ)、

種々(クサグサ)珍(ウズ)の、みつぎもの、

 

供へまつりて、かごぢもの、

ひざ折り伏せて、大まつり、まつり仕へむ、まつらまく。

 

生きとし生ける、まめひとの、ゆくりあらずも、犯しけむ、

罪やけがれの、あらむをば、

 

祓戸(はらえど)にます、祓戸の、大神達と相共に、

ことはかりまし、神直日、大直日にぞ、

見伊直し、聞き直しまし、祓ひまし、

 

清め玉ひて、清々(スガスガ)し、

清(スガ)の御民(ミタミ)と、きこし召し、

 

相(アイ)諾(ウズナ)ひて、

玉へかし、玉はれかしと、多米津(タメツ)もの、

 

百取(モモトリ)、さらに、百取の、

机の代(シロ)に、足らはして、

 

横山の如、波の如、

伊盛、栄ゆる、大神の、

 

神の御前に、まつらまく、こひのみまつる、

畏こみて、まつらく白す、弥(いや)つぎつぎに。

 

新玉(アラタマ)の 玉の御年(ミトシ)の 明けそめて

罪もけがれも 今はあらじな。

 

節分の祝詞であるぞ。

 

 

太のりとせよ。

 

いよいよの年立ちそめたぞ。

うれしうれしの御代来るぞ。

(一月の三十日、日月神。)

 

 

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黒鉄の巻、第十四帖(六三二)

 

悪の総大将は奥にかくれて御座るのぞ。

 

一の大将と二の大将とが大喧嘩すると見せかけて、

世界をワヤにする仕組、もう九分通り出来てゐるのぢゃ。

 

【真の理解に入ると宗教に囚はれなくなるぞ。

形式に囚はれなくなるぞ】。

 

真の理解に入らねば、

真の善も、真の信も、真の悪も、真の偽りも判らんのぢゃ。

 

今にイワトひらいてあきらかになったら、宗教いらんぞ。

 

政治いらんぞ。

 

喜びの歌高らかにナルトの仕組、二二(フジ)にうつるぞ。(一月二十二日)

 

 

春の巻、第二帖(六五九)

 

カミヒトと申すのは、

神の弥栄のため、世の弥栄のため祈り、実践する人のことであるぞ。

 

神のため祈れば神となり、世のため祈れば世と一体となるのぢゃ。

 

自分のためばかりで祈れば迷信、われよしの下の下ぞ。

 

誰でも霊かかりであるぞ。

 

石でも木でも土でも霊かかりぞ。

 

これは一般かみかかりであるぞ、

特別神かかりは神の御力を強く深く集める行がいるのぢゃ。

 

九分通りしくじるのぢゃ。

 

太陽の光集めること知っているであらうが。

 

神の理(ミチ)をよりよく、より高く集める理(ミチ)がマコトの信仰であるぞ。

 

理(ミチ)であるぞ。

 

世、迫って、霊かかりがウヨウヨ出ると申してある時来ているのぢゃ。

 

悪かみかかりに迷ふでないぞ。

 

サニワせよ。

 

外はウソが多いぞ。

 

内の声ウソないぞ。

 

旧、元旦、日月神

 

 

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黒鉄の巻、第十五帖(六三三)

 

人間を幸福にするのは心の向け方一つであるぞ。

 

人間はいつも善と悪との中にゐるのであるから、

善のみと云ふこともなく悪のみと云ふこともない。

 

内が神に居りて外が人に和し、

内が霊に居り外が体に和せば、それでよいのぢゃ。

 

其処に喜び生れるのぢゃ。

 

神から出た教なら、他の教とも協力して共に進まねばならん。

 

教派や教義に囚はれるは邪の教。

 

豚に真珠となるなよ。

 

天国の意志は人間の喜びの中に入り、

幽界の意志は悲しみの中に入る。(一月二十二日)

 

 

春の巻、第一帖(六五八)

 

新しき御代の始めのタツの年。

 

スメ大神の生れ出で給ひぬ。

 

皆々御苦労ながら、グルグル廻って始めからぢゃと申してあらうが。

 

始の始と始が違ふぞ。

 

皆始めヒからぢゃ。

 

赤児になりて出直せよ。

 

ハラで見、ハラできき、ハラで話せよ。

 

ハラには間違ひないのぢゃ。

 

祈りばかりでは祈り地獄、

神から光いただけるように理(ミチ)つけねばならん。

 

水は低きに流れるぞ。

 

喜びに叶ふ心、喜びの行あるところ喜び来るのぢゃ。

 

喜びにも正しきと曲れるとあるぞ。

 

無限段階あるのぢゃ。

 

心して迷はんように致しくれよ。

 

此処は光の理(ミチ)伝へ、行ふ所、教でないと申してあろう。

 

教は教に過ぎん。

 

理でなくては、今度はならんのぢゃ。

 

天の理、地の理、もろもろの理、カタ早う急ぐぞ。

 

教は局部的、時、所で違ふのぢゃ。

 

迷信となるぞ。

 

ハラが神であるぞ。

 

 

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黒鉄の巻、第十六帖(六三四)

 

いよいよ表の守護と相成ったぞ。

 

表の守護とは、よいものもなく悪いものもなく、

只喜びのみの守護となることぢゃ。

 

悪いもの悪くなるのは表の守護でないぞ。

 

心得なされよ。

 

一つの魂を得ることは一つの世界を得ることぢゃ。

 

人間は一人でないぞ。

 

神は善人の中にも悪人の中にも呼吸してゐるぞ。

 

悪なくては生きて行けん。

 

悪は悪でないぞ。

 

外道の悪が悪であるぞ。(一月二十二日)

 

 

黒鉄の巻、第三十九帖(六五七)

 

・ひふみ神言

 

ひふみゆらゆら。

ひふみゆらゆら、ひふみゆらゆら。

ひふみゆらゆら、ひふみゆらゆら。ひふみゆらゆら。

 

 

・あめつちの数歌

ひと、ふた、み、よ、いつ、むゆ、なな、や、ここノ、たり。

ひと、ふた、み、よ、いつ、むゆ、なな、や、ここノ、たり。

ひと、ふた、み、よ、いつ、むゆ、なな、や、ここノ、たり、もも、ち、よろづ。

 

 

・ひふみ祝詞(○印拍手)

 

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

ひふみ よいむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

そをたはくめか うおえ にさりへて のますあせゑほれけ。

 

 

・いろは祝詞(○印拍手)

 

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

いろは にほへとち りぬるをわかよ たれそ つねならむ

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

うゐのおくやま けふこ えてあさき ゆめみしゑひもせすん。

 

 

・アイウエオのりと

 

f:id:satonory4949:20200326175953g:plainf:id:satonory4949:20200326180007g:plainアイウエオ カキクケコ サシスセソ タチツテト

ナニヌネノ ハヒフヘホ マミムメモ ヤヰユヱヨ

ラリルレロ ワヰウヱヲf:id:satonory4949:20200326180007g:plainf:id:satonory4949:20200326175953g:plain

(黒鉄の巻了)

 

 

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黒鉄の巻、第十七帖(六三五)

 

霊ばかりよくてもならん。

 

体ばかりよくてもならん。

 

もちつもたれつの世であるぞ。

 

判らんのは、われが偉いと思ってゐるからぞ。

 

め覚めれば その日その時からよくなる仕組、

結構楽し楽しで どんな世でも過ごせるのが神の道。

 

【智の中に悪をとり入れるゆとりの出来んやうではマコト成就せんぞ。

智の中には総てを取入れて理解出来るやうに】なってゐるのであるぞ。

 

愛の中に悪入れてはならんぞ。(一月二十二日)

 

 

黒鉄の巻、第三十八帖(六五六)

 

人間の死後、自分の命(イノチ)の

最も相応(フサワ)しい状態におかれるのであるそ。

 

悪好きなら悪の、善好きなら善の状態におかれるのであるぞ。

 

皆々、極楽行きぢゃ。

 

極楽にもピンからキリまであるぞ。

 

神の旨に添ふ極楽を天国と云ひ、添はぬ極楽を幽界と申すのぢゃ。

 

心の世界を整理せよ。

 

そこには無限のものが、無限にあるのであるぞ。

 

神の理(ミチ)が判れば、判っただけ自分がわかる。

 

めでたさの九月八日の九のしぐみ、とけて流れて世界一つぢゃ。

 

白銀(しろがね)、鉄(くろがね)、これで終り。(旧九月八日)

 

 

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黒鉄の巻、第十八帖(六三六)

 

目さめたら起き上がるのぞ。

 

起き上がらずには居れまいが。

 

神の命ずることは丁度そのやうに人間にうつるのぞ。

 

霊眼で見たり霊耳で聞いたりすることは間違ひ多いぞ。

 

心せよ。

 

ものに対しては人間そのものが霊であるぞ。

 

人間はこの世の神と申してあらうが。

 

ものは人間の自由自在。

 

偶像は排すべし。

 

十像は拝すべし。

 

悪に行く理(ミチ)はないぞ。

 

理は善のみに通じてゐるぞ。

 

理なきところ進むでないぞ。(一月二十二日)

 

 

黒鉄の巻、第三十七帖(六五五)

 

宇宙は人間の心のままと申してあらうが。

 

宇宙は未完成のものと申してあらうが。

 

永遠に未完成であり、弥栄であるぞ。

 

そこに生命あり、喜びあるのぢゃ。

 

大神の中で、宇宙はなりなりてゐるのであるから、

ナリ、永遠になるのであるぞ。

 

不変の中に千変万化、自由自在の存在を与へてあるのぢゃ。(旧九月八日)

 

 

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黒鉄の巻、第十九帖(六三七)

 

愛からはなれた理解はないぞ。

 

善からはなれた真理はないぞ。

 

タネなくて芽は出ん道理。

 

人間の智で判らんことは迷信ぢゃと申してゐるが、

神界のことは神界で呼吸(イキ)せねば判らんのぢゃ。

 

判らん人間ざから何と申しても神を求めるより、

愈々になりたら道ないことぞ。

 

学に囚はれて まだめさめん気の毒がウヨウヨ。

 

気の毒ぢゃなあ。

 

人間は霊人のカタシロになるからこそ養はれてゐるのぢゃ。

 

成長して行くのぢゃ。

 

血は愛によって生き、愛はヨロコビによって生きるのぢゃ。

 

ヨロコビなき所に愛はないのざぞ。

 

ゝないところ生命(イノチ)栄えんぞ。(一月二十二日)

 

 

黒鉄の巻、第三十六帖(六五四)

 

天界に行く門は輝き、幽界に行く門は闇であるぞ。

 

闇の門はとざされ、光の門は開かれてゐるぞ。

 

天界は昇り易く、幽界にはおちにくいぞ。

 

神と金と二つに仕へることは出来ん、

そのどちらかに仕へねばならんと、

今迄は説かしてゐたのであるが、

それは段階の低い信仰であるぞ。

 

影しか判らんから、時節が来て居らんから、

さう説かしてゐたのであるが、

この度、時節到来したので、マコトの道理 説いてきかすのぢゃ。

 

 

神と金と共に仕へまつるとは、肉と霊と共に栄えて嬉し嬉しとなることぞ。

 

嬉し嬉しとはそのことであるぞ。

 

神と金と二つとも得ること嬉しいであろうがな。

 

その次には霊の霊とも共に仕へまつれよ。

 

まつれるのであるぞ。

 

これが、まことの正しき理(ミチ)であるぞ。

 

今迄の信仰は何処かにさびしき、もの足りなさかあったであらうが。

 

片親がなかったからぞ。

 

天に仕へるか、地に仕へるかであったからぞ。

 

この道はアメツチの道ざと知らしてあらうがな。

 

清くして富むのがまことぢゃ。

 

地も富まねばならんのぢゃと申してあらうが。

 

これから先は金もうけばかりも出来ん。

 

今迄のやうな神信心ばかりも出来ん。

 

神の理(ミチ)を進むものは嫌でも金がたまるのぢゃ。

 

金がたまらねば深く省みよ。

 

理に外れて御座るぞ。

 

人は罪の子でない、喜びの子ぞ。(旧九月八日)

 

 

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黒鉄の巻、第二十帖(六三八)

 

まかせ切らねばマコトの安心立命ないぞ。

 

まかせ切るには、まかせ切って安心出来る神をつかまねばならん。

 

おかげ信心や病気治しの神ではまかせ切れまいがな。

 

早う合点結構ぞ。

 

大きな生命に通ずるものには死はないぞ。

 

通じなければ死あるぞ。(一月二十二日)

 

 

黒鉄の巻、第三十五帖(六五三)

 

キが到ればモノが到る。

 

モノを求める前にキを求めよ。

 

めあてなしに歩いたとて、くたびれもうけばかり。

 

人生のめあて、行く先の見当つけずに、

その日暮しの、われよしの世となり下がってゐるぞ。

 

めあてはΘのゝでないか。

 

ゝに向かないでウロウロ。

 

草木より、なり下がってゐるでないか。

 

為すとはイノること。

 

人の為にイノるは、己の為にイノること。

 

今の人民、イノり足らん。(旧九月八日)

 

 

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黒鉄の巻、第二十一帖(六三九)

 

身も心も嬉し嬉しなるのがまことの神ぢゃ。

 

ものの嬉しさだけではゼロぢゃ。

 

たまの嬉しさだけでもゼロぢゃ。

 

よく心得なされよ。

 

死後のみ説く宗教はゼロの宗教ぢゃ。

 

迷ふでないぞ。

 

この世で天国に住めんもの、

天国に行ける道理ないのぢゃと申してあらう。

 

神は人間の命、人間は神の容れものであると申してあらう。

 

人間の極まるところは神であるぞ。

 

霊人は中間の存在ぞ。

 

人間は神への土台ぞ。

 

この道理判るであらうが。

 

Θは三五七ぞ。

 

三のΘから三五のΘ。

 

三五七のΘ。(一月二十二日)

 

 

黒鉄の巻、第三十四帖(六五二)

 

祈りは弥栄であり、限りない生活であるぞ。

 

生命のイキであるぞ。

 

祈りから総てのもの生れるぞ。

 

誠の喜びの祈りからはゝが生命し、かげの祈りからは〇が生命するぞ。

 

人祈れば神祈り、人為せば神なる道理ぢゃ。

 

禁慾は神の御旨でないぞ。

 

慾を浄化して、生めよ。産めよ。

 

今の人民、慾の聖化を忘れて御座るぞ。

 

慾は無限に拡がり、次々に新しきもの生み出すぞ。

 

慾を導けよ。

 

自分だけならば五尺の身体、五十年の生命であるが、

霊を知り、宇宙の意志を知り、神にとけ入ったならば、

無限大の身体、無限の生命となるぞ。

 

マコトの嬉し嬉しのよろこびとなるのであるぞ。(旧九月八日)

 

 

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黒鉄の巻、第二十二帖(六四〇)

 

顔まで変ってゐるのに未だ気づかんのか。

 

病気に皆がなってゐるのに未だ気づかんのか。

 

何事も早い改心結構。

 

自分で自分の心の中は中々につかめんものであらうがな。

 

その中に又心あり、又中に心があるのぢゃ。

 

心は神界ぞ。

 

霊界や神界のものを肉体の自分で掴まうとしても中々ぢゃ。

 

うなぎつかみと申してあらうが。

 

ヌラリクラリと掴んだ筈が掴んでないぞえ。

 

掴むには身と魂と一つに和せねばならん。

 

ゝから愛と智とが生れると申してあらうが。

 

智と愛との和合によってゝが又生れるのぢゃ。

 

ゝは喜びであるぞ。

 

ゝの別のゝであるぞ。

 

そのゝから又別の愛と智が生れ、

又別のゝが喜びとなり、

その喜びの愛と智の喜びと結んで、

又喜びのゝ生れるのぢゃ。

 

神は額から入って顔全体に至り、全身に及ぶものであるぞ。(一月二十二日)

 

 

黒鉄の巻、第三十三帖(六五一)

 

神がうつらぬと申してゐるが、

心をやはらかくしてマカセ切れば刻まれるぞ。

 

平かにすれば正しく写り、凸凹(デコボコ)すれば曲ってうつる。

 

神の前に固くなってはならぬ。

 

人間は肉体をもってゐる間でも、

その霊は、霊の国に住んで居り、

霊の霊は、霊の霊の世界に住んでゐるのであるぞ。

 

この道理よくわきまへよ。

 

愛は脈うってゐるぞ。

 

真は呼吸してゐるぞ。

 

肉体にあっては肺臓は呼吸し、心臓は脈うつ、

この二つが一つであって、肉体を生命する。

 

喜びと三つが一つであるのぞ。

 

霊にあっては霊の心臓、霊の肺臓、よろこびあるぞ。(旧九月八日)

 

 

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黒鉄の巻、第二十三帖(六四一)

 

何事も体験結構。

 

今の人民の迷信と思ふものの中に正信あるぞ。

 

正信と思ふものの中に迷信多いぞ。

 

理解は正信。

 

神の気通うたら、

その気を人間にうつす御役、救ひの御役を結構につとめあげて呉れよ。

 

自分の自由にならんことは大き自分が自由にしてゐるのであるぞ。

 

神となれば、神人となれば何事も心のまま。

 

神とは神、大神とはΘ一十(カミヒト)のこと。(一月二十二日)

 

 

黒鉄の巻、第三十二帖(六五〇)

 

祈りとは意が乗ることぞ。

 

霊の霊と霊と体と合流して一つの生命となることぞ。

 

実力であるぞ。

 

想念は魂。

 

魂は霊であり、霊の世界に属し、霊に生きるのであるぞ。

 

ものは霊につけられたもの、

霊の霊は、霊につけられたものであるぞ。

 

ものにはものの生命しかない。

 

真の生命は霊であるぞ。

 

生命のもとの喜びは霊の霊であるぞ。

 

霊の霊が主ざと申してあらう。

 

奥の奥の奥のゝは大神に通ずるゝであるぞ。

 

喜びであるぞ。

 

ゝある為に人間となり、

人間なるが故に神となり、

神なるが故に喜びであるぞ。

 

他のいきものにもゝはあれど、外のゝであるぞ。(旧九月八日)

 

 

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黒鉄の巻、第二十四帖(六四二)

 

悪とはカゲのことであるぞ。

 

斜めに光を頂くから影出来るのぢゃ。

 

影は主人でないぞ。

 

絶対は何と申しても絶対ぞ。

 

相対から神を求めると、相対の神が顕はれるぞ。

 

相対で神の道に導くこと中々ぢゃ。

 

必ず後戻り、判りはせんぞ。

 

この神示、肚に入ったらグレンと変りて来るぞ。

 

早う肚に入れて下されよ。

 

間に合はん。

 

天の声は内から聞こえて来る。

 

人間の言葉は外から聞こえて来る。

 

霊耳と申すのは内からぞ。

 

耳ふさいでも聞こえて来るのぢゃ。

 

悪霊自身は自身を悪と思うてないぞ。(一月二十二日)

 

 

黒鉄の巻、第三十一帖(六四九)

 

中の自分と外の自分と和せよ。

 

それが改心の第一歩。

 

聞かせてきくならば、実地はカタのカタ位ですむなれど。

 

慾入ると邪気湧く、邪気湧くと邪霊集まるぞ。

 

肉体人に神は直接分らんものぞ。

 

神は能(ハタラ)き、神の働きの影しか判らんものぞ。

 

神の姿、見たと申すのは、

神の姿の影を自分の心に描き出したまでであるぞ。

 

心に判っても肉体に判るものでないぞ。

 

肉を魂とせよ。

魂を魂の魂と向上させよ。

 

ひらけ来るぞ。

 

何事もとがむでないぞ。

 

とがむ心、天狗ぞ。

 

神の前にへり下り、へり下っても尚過ぎると云ふことないのぢゃ。

 

人間は、色とりどりそれぞれの考へ方を自由に与へてあるのざから、

無理に引張ったり、教へたりするでないぞ。

 

今あるもの、今生きてゐるものは、たとへ極悪ざと見えても、

それは許されてゐるのであるから、あるのであるぞ。

 

他を排すでないぞ。(一月二十二日)

 

 

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黒鉄の巻、第二十五帖(六四三)

 

心は草にも木にも石にもあるぞ。

 

天にまたたく星にもあるぞ。

 

ただ薄いか厚いかの相違であるぞ。

 

ゝの中のゝに悪は入れんのであるぞ。

 

外のゝの中に、外の智の中に悪が入るのぢゃ。

 

人間の智の中には悪も善も入るぞ。

 

入るからこそ、これは善ぢゃ、これは悪ぢゃと判るのぢゃ。

 

人間の自由は其処にあるのぢゃ。

 

自由なければ発展ないぞ。

 

弥栄ないぞ。

 

霊を信ずる者は霊と語り、肉を信ずる者は肉と語り得るのぢゃ。

 

人間そのものから湧き出づる喜びは無いぞ。

 

よく心得なされよ。(一月二十二日)

 

 

黒鉄の巻、第三十帖(六四八)

 

表ばかり見てゐるから判らんのぢゃ。

 

水晶の心なれば三千里先のこともありやか。

 

人民と云ふものは奇跡見ても、病気になっても、

中々改心出来んものぢゃ。

 

死後の生活がハッキリ判っても、未だ改心出来んのぢゃ。

 

それは外からのものであるからぢゃ。

 

まことの改心は、中の中のゝのキいただいて、

ほっこんの改心出来ねばならん。

 

死後の生活知らすことはよいなれど、

それのみによって改心せよと迫るのは悪のやり方。

 

奇跡を見せ、病気を直してやるのもよいのぢゃが、

それのみによって改心を迫ってはならん。

 

それのみで道を説いてはならんぞ。

 

そんなこと位でマコトのホッコンの改心が出来るならば、

人間は遠の昔に改心して御座るぞ。

 

今迄のやうな宗教は亡びると申してあらうが。

 

亡びる宗教に致して下さるなよ。(一月二十二日)

 

 

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黒鉄の巻、第二十六帖(六四四)

 

神は理屈ではない。

 

理であるぞ。

 

生きた自由自在の、見当とれん、絶対であるぞ。

 

只求めるより外に道ないぞ。

 

親呼ぶ赤児の声で神を求めよ。

 

神に呼びかけよ。

 

総てを投げ出せよ。

 

まかせ切れよ。

 

神は喜びの光となって、そなたに現はれて来るぞ。

 

理屈の信仰に囚はれると邪道。

 

赤児心の理解は第一ぞ。(一月二十二日)

 

 

黒鉄の巻、第二十九帖(六四七)

 

運命は自由自在のものではあるが、又強ひるものでもあるぞ。

 

大きくも、小さくも、薄くも、厚くも、その人の心次第に変るぞ。

 

もとは霊界にあるからぞ。

 

嬉し嬉しで運命を迎へる気、結構ぞ。

 

この世のことだけで この世のこと動かんぞ。

 

霊界との関係によって、この世が動いてゐる道理判らねばならん。

 

早う神の心に、神意さとれよ。

 

遠慮いらん。

 

何事も天から出て来るのぢゃ。

 

天からとは心からのことぢゃ。(一月二十二日)

 

 

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黒鉄の巻、第二十七帖(六四五)

 

神は人間の想念の中に入ってゐるのぢゃ。

 

想念が一致するから神の想念が人間に伝はるのぞ。

 

人間の言葉となって人間に現はれる。

 

言は神であるが人間でもあるぞ。

 

自分が自分に語るのであるぞ。

 

この道理、よく心得なされよ。

 

時まちて起き出て下されよ。

 

恨みの霊は中々にとけんぞ。

 

思ひは能(ハタラ)き、実在と申してあらうが、

間違ひでも恨まれると、恨みがまとひつくぞ。

 

心して神を求め、心して幽界からのキ断ちて下されよ。

 

判ったと思うたら天狗ぞ。

 

かへりみるとよくなる仕組。(一月二十二日)

 

 

黒鉄の巻、第二十八帖(六四六)

 

喜びにとけ入るから嬉しいのぞ。

 

喜びから遠ざかるから悲しいのぞ。

 

そんなこと分ってゐると申してゐるが、

ほんとに身体に分ってゐまいぞ。

 

喜びに入る門は愛からぢゃ。

 

真からじゃ。

 

二道あるなれど愛から入るのが入り易いが、愛からでは誤り易い。

 

生れてすぐ歩けるものでないぞ。

 

始めから何も彼も出来るものでない。

 

気長に進んで行けよ。

 

内の念と外の念とあるぞ。

 

二つであるぞ。

 

一つであるぞ。

 

三つであるぞ。

 

心大きく、広く天地に放さねば、天地のキを吸ふこと出来んぞ。(一月二十二日)