まぜまぜ(^^♪ひふみ神示 その2

ブースカ明日香さんを真似て書いてみました(^^) スマホでしたら、横画面にすると見やすいかと思います。 5/11改題しました。

まぜまぜ 七五一~七九五

ひふみ神示 まぜまぜの第七五一帖~第七九五帖

 

 

第二十九巻 秋の巻

全二十八帖・通し番号(七四二)~(七六九)のうち(七四二)~(七五〇)

全二十八帖・通し番号(七四三)~(七七〇)のうち(七五一)~(七七〇)

  昭和二十七年 四月十一日

※通し番号を振りなおしました。(夏の巻、第二十二帖から)

 

第三十巻 冬の巻

全十八帖・通し番号(七七一)、(七八七)

自  昭和二十七年 五月 五日

至  昭和二十七年 六月 九日

 

 

ひふみ神示(補巻)月光の巻

全六十二帖・通し番号(七八八)~(八四九)のうち(七八八)~(七九五)

自  昭和三十三年十二月二十五日

至  昭和三十四年 三月  二日

 

 

 

751>795

秋の巻、第九帖(七五一)

 

みろくの世となれば世界の国々がそれぞれ独立の、

独自のものとなるのであるぞ。

 

ぢゃが皆それぞれの国は一つのへそで、

大き一つのへそにつながってゐるのであるぞ。

 

地上天国は一国であり、一家であるが、

それぞれの、又自づから異なる小天国が出来、民族の独立性もあるぞ。

 

一色にぬりつぶすような一家となると思ふてゐるが、

人間のあさはかな考へ方ぞ。

 

考へ違ひぞ。

 

この根本を直さねばならん。

 

霊界の通りになるのぢゃ。

 

 

月光の巻、第八帖(七九五)

 

神の御用は、神のみこと(命(実言))のままでなくては成就せん。

 

皆々釈迦ぞ、キリストぞ。

 

もっと大き計画もちて御座れ。

 

着手は出来る処からぞ。

 

つかめる所から神をつかめよ。

 

部分からつくり上げなされよ。

 

我出してはならん。

 

そなたはそれでいつもしくじってゐるでないか。

 

天狗ではならん。

 

心出来たら足場固めねばならん。

 

神の足場は人ぢゃ。

 

三千の足場、五千の足場。

 

 

752>794

秋の巻、第十帖(七五二)

 

外の喜びはその喜びによって悪をまし、

内の喜びはその喜びによって善をますなれど、

マコトの喜びは外内と一つになり、二つになり、

三つになった喜びとならねば、弥栄ないぞ。

 

 

月光の巻、第七帖(七九四)

 

大奥山は神人交流の道の場である。

 

道は口で説くものではない。

 

行ずるものである。

 

教は説かねばならない。

 

多数決が悪多数決となるわけが何故に判らんのぢゃ。

 

投票で代表を出すと殆んどが悪人か狂人であるぞ。

 

世界が狂ひ、悪となり、人民も同様となっているから、

その人民の多くが選べば選ぶ程、益々混乱してくるのであるぞ。

 

それより他に人民の得心出来る道はないと申してゐるが、道はいくらでもあるぞ。

 

人民の申してゐるのは平面の道、平面のみでは乱れるばかり、

立体にアヤなせば弥栄えて真実の道が判るのぢゃ。

 

ぢゃと申して独裁ではならん。

 

結果から見れば神裁ぢゃ。

 

神裁とは神人交流によることぞ。(十二月二十五日)

 

神はうそつきぢゃと人民申しても、

悪い予言はうそにしたいので日夜の苦労、

こらえられるだけこらえてゐるのである。

 

もう、ものばかりでは治まらんこと、

キンでは治まらんこと、平面のみでは駄目であること、

よく判ってゐるのにカブトぬげん神々様よ、

気の毒が来ぬ前に改心結構。

 

遠くからでは判らんし、近づくと迷うし、理屈すてて神にほれ参らせよ。

 

よくこの神をだましてくれたぞ、

この神がだまされたればこそ、太神の目的なってくるのぢゃ。

 

細工はりゅうりゅう仕上げ見て下されよ。

 

 

区別すると力出るぞ、同じであってはならん。

 

平等でなくてはならんが、区別なき平等は悪平等である。

 

天に向って石を投げるようなことは、早くやめねばならん。

 

霊かかりもやめて下されよ。

 

人民が絶対無と申してゐるところも、絶対無ではない。

 

科学を更に浄化弥栄させねばならん。

 

空間、時間が霊界にないのではない。

 

その標準が違うから無いと考えてよいのである。

 

奥山は奥山と申してあろう。

 

いろいろな団体をつくってもよいが、

何れも分れ出た集団、一つにしてはならん。

 

奥山はありてなきもの、なくて有る存在である。

 

奥山と他のものとまぜこぜまかりならん。

 

大き一つではあるが別々ぞ。

 

今迄になかった奥山のあり方、判らんのも無理ないなれど、

これが判らねば この度の大神業、判りはせんぞ。

 

 

753>793

秋の巻、第十一帖(七五三)

 

親と子は、生むと生まれるとの相違出来てくるぞ。

 

又上の子と下の子と、左の子と右の子とは違ふのであるぞ。

 

違へばこそ存在する。

 

 

月光の巻、第六帖(七九三)

 

あまてらすおほかみは、たかあまのはらをしらすべし。

 

また、たかあまのはらをしらすべし、

また、たかあまはらをしらすべし、

 

つきよみのおほかみは、あまてらすおほかみとともに、

あめのことをしらすべし。

 

また、あほうなはら しほのやほへをしらすべし。

 

また、よるのおすくにをしらすべし。

 

すさなおのおほかみは、

あほうなのはらをしらすべし、

また、あほうなはらをしらすべし。

 

また、あまがしたをしらすべし。

 

 

754>792

秋の巻、第十二帖(七五四)

 

神について御座れよ。

 

理屈申さず、ついて御座れよ。

 

地獄ないと申してあろう。

 

人は神の喜びの子と申してあらう。

 

人の本性は神であるぞ。

 

神なればこそ天国へ自づから行くのぢゃ。

 

住むのぢゃ。

 

 

月光の巻、第五帖(七九二)

 

十くさ、十二くさのかむたから、

おきつかがみ、へつかがみ、

八つかのつるぎ、九つかのつるぎ、十つかのつるぎ、

いくたま、まがるかへしのたま、

たるたま、ちかへしのたま、

おろちのひれ、はちのひれ、くさくさのひれ、であるぞ。

 

む、ひと、ふた、み、よ、いつ、む、なな、や、ここ、たり、う、であるぞ。

う、たり、ここ、や、なな、む、いつ、よ、み、ふた、ひと、む、であるぞ。

 

となへよ。

 

のりあげよ。

 

 

755>791

秋の巻、第十三帖(七五五)

 

人民、うそが上手になったから中々油断ならんぞ。

 

下々の神さまも、うそ上手になったなぁ。

 

善ぢゃ悪ぢゃと申してゐるが、

人民の善はそのまま霊人の善でないぞ。

 

そのまま霊人の悪でないぞ。

 

心して呉れ。

 

 

月光の巻、第四帖(七九一)

 

あめのみなかぬしのかみのそのまへに、

あめゆづる日あめのさぎりのみこと。

 

くにゆづる月、地のさぎりのみことあるぞ。

 

ΘのΘのΘであるぞ。

 

その前にゝあることわするるなよ。

 

 

756>790

秋の巻、第十四帖(七五六)

 

グッとしめたり、ゆるめたりして呼吸しなければならん。

 

其処に政治のうごきあるぞ。

 

経済の根本あるぞ。

 

逆にしめる事もあるぞ。

 

善と申し悪の御用と申すことの動き、そこから出るのぢゃ。

 

じっとしてゐてはならん。

 

ジッとしてゐる善は善でないぞ。

 

 

月光の巻、第三帖(七九〇)

 

こんどは、八のくまではたらん。

 

十のくま、十のかみをうまねばならんぞ。

 

そのほかに、

かくれた二つのかみ、二つのくまをうみて、そだてねばならんことになるぞ。

 

 

757>789

秋の巻、第十五帖(七五七)

 

何程 世界の為ぢゃ、人類の為ぢゃと申しても、

その心が、我が強いから、

一方しか見えんから、世界のためにならん。

 

人類の為にならんぞ。

 

洗濯ぢゃ洗濯ぢゃ。

 

自分が生んだもの、自分から湧き出るものは、いくら他に与へてもなくならんぞ。

 

与へよ、与へよ、

与へてなくなるものは自分のものでないと申してあろう。

 

無くなると思ふのは形のみ見てゐるからぢゃ。

 

カラのみ見るからぢゃぞ。

 

本質は無限に拡がるぞ。

 

与へる程よりよく、神から与へられるぞ。

 

井戸の水のようなもんぢゃ。

 

汲めば汲むほどよくなる仕組。

 

 

月光の巻、第二帖(七八九)

 

きすうときすうをあはしても、ぐうすう、

ぐうすうとぐうすうをあはしてもぐうすうであることをわすれてはならんぞ。

 

きすうとぐうすうをあはしてはじめて、

あたらしき、きすうがうまれるのであるぞ。

 

こんどのいわとひらきには ひるこうむでないぞ。

 

あはしまうむでないぞ。

 

 

758>788

秋の巻、第十六帖(七五八)

 

統一と云ふことは赤とか白とか一色にすることではないぞ。

 

赤もあれば黄もあり青もあるぞ。

 

それぞれのものは皆それぞれであって一点のゝでくくる所に統一あるぞ。

 

くくると申してしばるのでないぞ。

 

磁石が北に向くよう、総て一点に向かうことであるぞ。

 

これを公平と申し、平等と申すのぢゃ。

 

悪平等悪平等

 

一色であってはならんのう。

 

下が上に、上が下にと申してあるが、一度で治まるのでないぞ。

 

幾度も幾度も上下にひっくりかへり、又ひっくりかへりビックリぢゃ。

 

ビックリこねまわしぢゃ。

 

 

月光の巻、第一帖(七八八)

 

なりなりて なりあまれるところもて、

なりなりて なりあはざるところをふさぎて、くにうみせなならんぞ。

 

このよのくにうみは一つ(秘答通)(ヒトツ)おもて(面)でしなければならん。

 

みと(実透)のまぐはひでなくてはならんのに、

おもてを一つにしてゐないではないか。

 

それでは、こんどのことは、じょうじゅせんのであるぞ。

 

 

759>787

秋の巻、第十七帖(七五九)

 

神示が一度で判る人民にはミタマシズメやカミシズメやカミカカリはいらん。

 

判らんからやらしてゐるのぢゃ。

 

やらせねば判らんし、やらすとわき道におちゐるし、

いやはや困ったもんぢゃのう。

 

 

冬の巻、補帖(七八七)

 

病、ひらくことも、運、ひらくことも、皆 己からぢゃと申してあろう。

 

誰でも、何でもよくなるのが神の道、神の御心ぢゃ。親心ぢゃ。

 

悪くなると云ふことないのぢゃ。

 

迷ひが迷ひ生むぞ。

 

もともと病も不運もない弥栄のみ、喜びのみぢゃ。

 

神がよろこびぢゃから、その生んだもの皆よろこびであるぞ。

 

この道理よくわきまえよ。

 

毎日々々、太陽と共に、太陽について起き上がれよ。

 

その日の仕事、与へられるぞ。仕事いのちと仕へまつれよ。

 

朝寝するからチグハグとなるのぢゃ。

 

不運となるのぢゃ、仕事なくなるのぢゃ。

 

神について行くことが祈りであるぞ。

 

よろこびであるぞ。

 

食物、食べ過ぎるから病になるのぢゃ。

 

不運となるのぢゃ。

 

口から出るもの、入るもの気つけよ。

 

いくさ起るのぢゃ。

 

人間の病や、いくさばかりでない、

国は国の、世界は世界の、山も川も海も、みな病となり、不運となってくるぞ。

 

食べないで死ぬことないぞ。

 

食べるから死ぬのぢゃぞ。

 

 一椀をとって先づ神に供へよ。

 

親にささげよ。

子にささげよ。

腹八分の二分はささげよ。

 

食物こそは神から、親から与へられたものであるぞ。

 

神にささげずにむさぶるからメグリつむのぢゃ。

 

メグリが不運となり、病となるのぢゃぞ。

 

運ひらくのも食物つつしめばよい。

 

言つつしめばよい。

腹十分食べてはこぼれる。

 

運はつまってひらけん。

 

この判りきったこと、何故に判らんのぢゃ。

 

 ささげるからこそ頂けるのぢゃ。

 

頂けたらささげると今の人民申してゐるが、それがウラハラと申すもの。

 

衣類も家も土地も、みな神から頂いたのでないぞ。

 

あづけられてゐるのであるぞ。

人民に与へられてゐるものは食物だけぢゃ。

 

日のめぐみ、月のめぐみ、地のめぐみだけぢゃぞ。

 

その食物節してこそ、ささげてこそ、運ひらけるのぢゃ。

 

病治るのぢゃ。

 

人民ひぼしにはならん。

 

心配無用。

 

食物、今の半分で足りると申してあらうが。

 

遠くて近いものヒフミの食べ方して見なされよ。

 

運ひらけ、病治ってうれしうれしと輝くぞ。

 

そんなこと位で、病治ったり、運ひらける位なら、

人民はこんなに苦しまんと申すが、それが理屈と申すもの。

 

理屈悪と申してあるもの。

 

低い学に囚われたメクラ、ツンボと申すものぞ。

 

 理屈すてよ。

すててやって見なされ。

 

みなみな気つかん理(ミチ)、気つかん病になってゐるぞ。

 

ツキモノがたらふく食べてゐることに気づかんのか。

 

食物節すればツキモノ改心するぞ。

 

先づ百日をめあてに、百日過ぎたら一年を、

三年つづけたら開運間違ひなし。

 

病もなくなってうれしうれしとなるぞ。

 

三年目、五年目、七年目ぞ、めでたいナア、めでたいナア。

 

六月九日、ひつくの神。

 

 以上

(冬の巻了)

 

 

760>771

秋の巻、第十八帖(七六〇)

 

人民は神のへそとつながってゐるのであるぞ。

 

へその緒さへつながって居ればよく、神人であるぞ。

 

ゝとゝとつながって更に大きゝにつながってゐるからこそ動きあり、

それぞれのハタラキあり、使命を果たし得るのであるぞ。

 

同じであって全部が合一しては力出ないのであるぞ。

 

早う心いれかへと申してあるが、心とは外の心であるぞ。

 

心の中の中の中の心の中にはゝが植付けてあるなれど、外がまっくらぢゃ。

 

今迄のやり方では行けんこと判りて居らうがな。

 

いらんものは早うすてて了へよ。

 

直々の大神様は二(ツキ)の大神様なり。

 

 

冬の巻、第一帖(七七一)

 

宇宙は霊の霊と物質とからなってゐるぞ。

 

人間も又同様であるぞ。

 

宇宙にあるものは皆人間にあり。

人間にあるものは皆宇宙にあるぞ。

 

人間は小宇宙と申して、神のヒナガタと申してあらう。

 

人間には物質界を感知するために五官器があるぞ。

霊界を感知するために超五官器あるぞ。

神界は五官と超五官と和して知り得るのであるぞ。

 

この点 誤るなよ。

 

霊的自分を正守護神と申し、神的自分を本守護神と申すぞ。

幽界的自分が副守護神ぢゃ。

本守護神は大神の歓喜であるぞ。

 

神と霊は一つであって、幽と現、合せて三ぞ。

 

この三は三にして一、一にして二、二にして三であるぞ。

 

故に肉体のみの自分もなければ霊だけの自分もない。

 

神界から真直ぐに感応する想念を正流と申す。

 

幽界を経て又幽界より来る想念を外流と申すぞ。

 

人間の肉体は想念の最外部、最底部をなすものであるから

肉体的動きの以前に於て霊的動きが必ずあるのであるぞ。

 

故に人間の肉体は霊のいれものと申してあるのぞ。

 

又 物質界は、霊界の移写であり衣であるから、

霊界と現実界、又 霊と体とは殆んど同じもの。

 

同じ形をしてゐるのであるぞ。

 

故に物質界と切り離された霊界はなく、

霊界と切り離した交渉なき現実界はないのであるぞ。

 

人間は霊界より動かされるが、

又 人間自体よりかもし出した霊波は反射的に霊界に反影するのであるぞ。

 

人間の心の凸凹によって、一は神界に、一は幽界に反影するのであるぞ。

 

幽界は人間の心の影が生み出したものと申してあろうがな。

 

 

総ては大宇宙の中にあり、

その大宇宙である大神の中に、大神が生み給ふたのであるぞ。

 

このことよくわきまへて下されよ。

 

善のこと悪のこと、善悪のこと、よく判って来るのであるぞ。

 

故に、人間の生活は霊的生活、言の生活であるぞ。

 

肉体に食ふことあれば霊にもあり、言を食べているのが霊ぞ。

 

霊は言ぞ。

 

この点が最も大切なことじゃから、くどう申しておくぞ。

 

 

死んでも物質界とつながりなくならん。

 

生きてゐる時も霊界とは切れんつながりあること、とくと会得せよ。

 

そなた達は神をまつるにも、祖先まつるにも物質のめあてつくるであろうがな。

 

それはまだまだ未熟な事ぞ。

 

死後に於ても、現実界に自分がある。

 

それは丁度、生きてゐる時も半分は霊界で生活してゐるのと同じであるぞ。

 

自分の衣は自分の外側であるぞ。

 

自分を霊とすると、衣は体、衣着た自分を霊とすれば家は体、

家にゐる自分を霊とすれば土地は体であるぞ。

 

更に祖先は過去の自分であり、子孫は新しき自分、未来の自分であるぞ。

 

兄弟姉妹は最も近き横の自分であるぞ。

 

人類は横の自分、動、植、鉱物は更にその外の自分であるぞ。

 

切りはなすこと出来ん。

 

自分のみの自分はないぞ。

 

縦には神とのつながり切れんぞ。

 

限りなき霊とのつながり切れんぞ。

 

故に、神は自分であるぞ。

 

一切は自分であるぞ。

 

一切がよろこびであるぞ。

 

霊界に於ける自分は、殊に先祖との交流、交渉深いぞ。

 

よって、自分の肉体は自分のみのものでないぞ。

 

先祖霊と交渉深いぞ。

 

神はもとより一切の交渉あるのであるぞ。

 

その祖先霊は神界に属するものと幽界に属するものとあるぞ。

中間に属するものもあるぞ。

 

神界に属するものは、正流を通じ、

幽界に属するものは外流を通じて自分に反応してくるぞ。

 

正流に属する祖先は正守護神の一柱であり、

外流に加はるものは、副守護神の一柱と現はれてくるのであるぞ。

 

外流の中には、動植物霊も交ってくることあるぞ。

 

それは己の心の中にその霊と通ずるものあるためぞ。

 

一切が自分であるためぞ。

常に一切を浄化せなならんぞ。

霊は常に体を求め、体は霊を求めて御座るからぞ。

 

霊体一致が喜びの根本であるぞ。

 

一つの肉体に無数の霊が感応し得るのざ。

 

それは霊なるが故にであるぞ。

 

霊には霊の霊が感応する。

 

又 高度の霊は無限に分霊するのであるぞ。

 

二重三重人格と申すのは、

二重三重のつきものの転換によるものであり、

群集心理は一時的の憑依霊であると申してあろうがな。

 

霊が元と申してくどう知らしてあろうが。

 

人間は現界、霊界共に住んで居り、その調和をはからねばならん。

 

自分は自分一人でなく、

タテにもヨコにも無限につながってゐるのであるから、

その調和をはからねばならん。

 

それが人間の使命の最も大切なことであるぞ。

 

調和乱すが悪ぞ。

 

人間のみならず、総て偏してならん。

 

霊に偏してもならん。

 

霊も五、体も五と申してあらう。

 

ぢゃが主は霊であり体は従ぞ。

 

神は主であり、人間は従であるぞ。

 

五と五と同じであると申してあろう。

 

差別則平等と申してあらう。

 

取り違い禁物ぞ。

 

神は愛と現はれ、真と現はれるのであるが、その根はよろこびであるぞ。

 

神の子は皆よろこびぢゃ。

よろこびは弥栄ぞ。

ぢゃがよろこびにも正流と外流とあるぞ。

間違へてならんぞ。

 

正流の歓喜は愛の善となって現はれて、又 真の信と現はれるぞ。

 

外流のよろこびは愛の悪となって現れるぞ。

 

何れも大神の現れであること忘れるなよ。

 

悪抱き参らせて進むところにマコトの弥栄あるのであるぞ。

 

神は弥栄ぞ。

 

これでよいと申すことないのであるぞ。

 

大完成から超大大完成に向って常に弥栄してゐるのであるぞよ。

 

宇宙は総てに於ても、

個々に於ても総てよろこびからよろこびに向って呼吸してゐるのぞ。

 

よろこびによって創られてよろこんでゐるのであるぞ。

 

故によろこびなくして生きないぞ。

 

合一はないぞ。

 

愛は愛のみではよろこびでないぞと申してあろう。

 

真は真のみでは喜びでないと申してあろうが。

 

愛と真と合一し、ゝするところに、陰と陽と合一、

弥栄したところによろこびあるのぢゃぞ。

 

この巻 冬の巻、五月五日の佳き日。

 

ひつく神。

 

 

761>770

秋の巻、第十九帖(七六一)

 

中今(ナカイマ)と申すことは、ゝ今と申すこと。

 

ゝは無であるぞ。

 

動きなき動きであるぞ。

 

そのことよくわきまへよ。

 

今迄のこと、やり方かえねばならん。

 

一段も二段も三段も上の広い深い、

ゆとりのあるやり方に、神のやり方に、規則のない世に、

考へ方、やり方、結構であるぞ。

 

 

秋の巻、第二十八帖(七七〇)

 

霊はものにつくと申してあろう。

 

払ひするときはモノにつけて、モノと共にせよ。

 

共に祓へよ。

 

これほどマコト申しても、

残る一厘はいよいよのギリギリでないと申さんから、

うたがふのも無理ないなれど、見て御座れよ。

 

神の仕組 見事成就いたすぞ。

 

一厘のことは知らされんぞと申してあろう。

 

申すと仕組成就せんなり。

 

知らさんので、改心おくれるなり、心の心で取りて下されよ。

 

肉体は霊の衣と申してあらう。

 

衣が霊を自由にしてはならんぞ。

 

衣には衣の約束あるぞ。

 

衣ぢゃと申して粗末してはならん。

 

何れも神の現れであるぞ。

 

内には内の内があり、外には外の外があるぞ。

 

人ほめよ。

 

人ほめることは己ほめることぞ。

 

この巻、秋の巻。

 

四月十一日、ひつく神。

(秋の巻了)

 

 

762>769

秋の巻、第二十帖(七六二)

 

【科学にゝ入れると宗教となるのぢゃ】。

 

ゝは数。

 

カネは掘り出せん。

 

生み出してくれよ。

 

 

秋の巻、第二十七帖(七六九)

 

型にはまることをカタマルと申すのぢゃ。

 

こり固まっては動きとれん。

 

固まらねば型出来んで、人民には判らんし、型外して、型をつくらねばならん。

 

法律つくらねばならんが、つくってもならんぞ。

 

神から命令されたミタマでも油断は出来ん。

 

曇りたらすぐ代りのミタマと入れ替えるのであるぞ。

 

コリ固まったものがケガレぢゃ。

 

ケガレはらさねばならん。

 

絶えず払って払って払ひつつ、又固まらねばならんし、人民には判らんし、

肉体あるから固まらねばならんし、常に払ひせねばならん。

 

総てをこんなもんぢゃときめてはならんぞ。

 

ゝ枯れることをケガレと申すのぢゃ。

 

判りたか。

 

神界の立替ばかりでは立替出来ん。

 

人民界の立替なかなかぢゃナア。

 

 

763>768

秋の巻、第二十一帖(七六三)

 

和が根本、和がよろこびぞ。

 

和すには神を通じて和すのであるぞ。

 

神を通さずに、神をなくして通づるのが悪和合。

 

神から分れたのであるから神に帰って、神の心に戻って和さねばならん道理。

 

神なくして和ないぞ。

 

世界平和と申してゐるが、

神にかへって、神に通じねば和平なく、よろこびないぞ。

 

十二の玉を十まで生んで、後二つ残してあるぞ。

 

 

秋の巻、第二十六帖(七六八)

 

中は無、外は有であるぞ。

 

中になる程 無の無となるのぢゃ。

 

同じことくり返すと、人民申すであろうが、

得心して居らんから、かんじんのことぢゃから、クドう申してゐるのぢゃ。

 

人民それぞれのミタマによって役目違ふのであるぞ。

 

手は手、足は足と申してあろう。

 

何も彼もマゼコゼにやるから結びつかんのぢゃ。

 

 

764>767

秋の巻、第二十二帖(七六四)

 

神にとけ入れと申してあろう。

 

次元が違うから、戒律出来るから、判らんのぢゃ。

 

解け入れよ。

 

何につけても大いくさ。

 

人の殺し合ひばかりでないと知らしてあらう。

 

ビックリぢゃ。

 

 

 

秋の巻、第二十五帖(七六七)

 

ウはムであるぞ。

 

ウとは現実界ぞ。

 

ムとは霊界であるぞ。

 

ウもムも同じであるぞ。

 

ムからウ生れて来ると申してあること、よく心得よ。

 

神の仕組、狂ひないなれど、人民に判らねば、それだけこの世の歩みおくれるのぢゃ。

 

この世は人民と手引かねばならんから、苦しみが長くなるから、

千人万人なら一人づつ手引いてやりても やりやすいなれど、

世界の人民、動物虫けらまでも助ける仕組であるから、

人民 早う改心せねば、気の毒いよいよとなるぞ。

 

 

765>766

秋の巻、第二十三帖(七六五)

 

神が主であり人民が従であると申してあろう。

 

これを逆にしたから世が乱れてゐるのぞ。

 

結果あって原因あるのでないぞ。

 

今の人民、結構すぎて天地の御恩と申すこと忘れてゐるぞ。

 

いよいよとなって泣面せねばならんこと判りてゐるから、くどう気付けてゐるのぢゃ。

 

マコトのことはトリの年。

 

 

秋の巻、第二十四帖(七六六)

 

上から見ると皆人民ぢゃ。

 

下から見ると皆神ぢゃ。

 

判りたと思ふて御座るなれど、

神の経綸が学や、金銀つんで、チョットやソットで判る筈ないぞや。

 

今迄の、三千年のやり方違ってゐたと心つくなれば、

心付いて神示よむなれば、一切のことありやかとなるのぢゃ。

 

カンジンぢゃ。