まぜまぜ(^^♪ひふみ神示 その2

ブースカ明日香さんを真似て書いてみました(^^) スマホでしたら、横画面にすると見やすいかと思います。 5/11改題しました。

まぜまぜ 六九一~七二〇

ひふみ神示 まぜまぜの第六九一帖~第七二〇帖

 

 

第二十七巻 春の巻

全六十帖・通し番号(六五八)~(七一七)のうち(六九一)~(七一七)

自  昭和二十七年旧一月 一日

至  昭和二十七年 二月十五日

 

 

第二十八巻 夏の巻

全二十五帖・通し番号(七一八)~(七四一)のうち(七一八)~(七二〇)

自  昭和二十七年 三月 三日

至  昭和二十七年 三月 八日

 

 

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春の巻、第三十四帖(六九一)

 

自分は自分の意志で生れたのではないのぢゃ。

 

その時、その環境を無視出来ん。

 

その法則に従はねばならん。

 

草を拝めば草が神となり、機械拝めば機械が神ぢゃ。

 

食物拝めば食物が神となる。

 

心せよ。

 

神は人民を根本から永遠の意味でよくしようと、

マコトの喜び与へようとしてゐるのぢゃ。

 

局都的、瞬間的に見て判らんこと多いぞ。

 

おかげは、すぐにはないものと思へ。

 

すぐのおかげは下級霊。

 

まゆにつばせよ、考へよ。

 

現在の環境を甘受せよと申してあるが、甘受だけでは足らん。

 

それに感謝せよ。

 

積極的に感謝し、天地の恩に報じねばならん。

 

誠の真理を知らぬ人間に神は判らん。

 

 

夏の巻、第三帖(七二〇)

 

人間は神と共に自分自身で生長して行かなならん。

 

人間から見れば全智全能の神、あるのであるぞ。

 

このことよく判りて下されよ。

 

マコトの理解と迷信との別れる大切ことぞ。

 

 

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春の巻、第三十五帖(六九二)

 

念じつつやれ。

 

神の為と念じつつやれば神のためとなる。

 

小さい行為でも霊的には大きはたらきするのぢゃ。

 

自分と云ふことが強くなるから発展ないのぢゃ。

 

行き止まるのぢゃ。

 

われよしとなるのぢゃ。

 

調和が神の現れであるぞ。

 

霊と調和せよ。

 

肉体と調和せよ。

 

人と調和せよ。

 

食物、住居と調和せよ。

 

世界と調和せよ。

 

うれしうれしぞ。

 

一生かかってもよいぞ。

 

おそくないのぢゃ。

 

自分の中のケダモノのため直しにかからねばならん。

 

悪いくせ直さねばならん。

 

これが第一歩、土台ぢゃぞよ。

 

よきことは 人にゆづりて 人をほめ 人たてるこそ 人の人なる。

 

敬愛の まこと心に まことのり まこと行ふ 人ぞ人なる。

(春立つ日、ひつく神)

 

 

夏の巻、第二帖(七一九)

 

ゝがよろこびであるぞ。またゝのゝはムでもあるぞ。

 

内から外に向って行くのがΘのやり方、

外から内に向って行くのが、がいこくのやりかた。

 

〇からゝに行くのは、マコトが逆であるから、マコトのことは判らん。

 

外から行く宗教や哲学や科学が元を判らなくしてゐるのぢゃ。

 

元わからんで生きのいのちの判る筈ないぞ。

 

今の世は逆様ぢゃ。

 

先祖から正せよ。

 

原因から正して行かなならんぞ。

 

Θから出てゝにかへり、無限より出て有限に形し、

有限から無限にかへり、又有限に動くのがマコトのやり方であるぞ。

 

マコトの理解者には甘露の水ぞ。

 

 

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春の巻、第三十六帖(六九三)

 

何事に向っても先づ感謝せよ。

 

ありがたいと思へ。

 

始はマネごとでもよいぞ。

 

結構と思へ。

 

幸と思へ。

 

そこに神の力 加はるぞ。

 

道は感謝からぞ。

 

不足申せば不足うつるぞ。

 

心のままとくどう申してあろうが。

 

病気でないと思へ。

 

弥栄と思へ。

 

病治るモト生れるぞ。

 

キがもとぞ。

 

何事くるとも何クソと思へ。

 

神の力 加はるぞ。

 

おそれはおそれ生むぞと申してあろうが。

 

一聞いて十さとらねばならんぞ。

 

今の人民には何事も平面的に説かねば判らんし、

平面的では立体のこと、次元の違ふことは判らんし、

ハラでさとりて下されよと申してあろう。

 

 

夏の巻、第一帖(七一八)

 

与へられたもの、

そのもの喜ぶようにすれば楽にゆけるよう、

暮しむきもたのしたのしで暮せるようになってゐるぞ。

 

あり余る程 与へてあるでないか。

 

生かして使へよ。

 

生活に何故アクセクするのぢゃ。

 

与へてあるもの殺すから自分も死の苦しみするのぢゃ。

 

有限でなければモノは顕われないぞ。

 

モノに顕わすと有限となるのぢゃ。

 

総てに感謝せよと申してあろうが。

 

総てのものに、それ相当の意義あるぞ。

 

全体的には喜びせねばならん。

 

愛をもって接しなければならん。

 

信をおかねばならん。

 

ぢゃと申して局部々々に於ては、

それぞれ、その時に応じて処理せねばならん。

 

只その場合は、ゆとりをもって処理せよ。

 

綱長くしておかねばならん。

 

 

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春の巻、第三十七帖(六九四)

 

相手八と出たら二と受けよ。

 

人民と申すものはモノに囚われるから何事も判らんから、

十二と出、二十と出、三十六と出たらポカンとして判らんことになるぞ。

 

十二と出たら一段ケタ上げて八十八と受けよ。

 

又十二と受けるテもあるぞ。

 

二十と出たら八十と和せよ。

 

立体になれば それだけ自由になるのざ。

 

世界広くなるのぞ。

 

早う立体さとりくれよ。

 

 

春の巻、第六十帖(七一七)

 

一九三九 (ヒクミチコト)。

 

一九三九 (ヒクミチコト)。

 

一九三(ヒクミチ)。

 

四九三(ジクミチ)。

 

四九三(ジクミチ)。(二月十五日、日月神

(春の巻了)

 

 

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春の巻、第三十八帖(六九五)

 

f:id:satonory4949:20200422150608g:plainの次にf:id:satonory4949:20200125135415g:plainがあり、その次にf:id:satonory4949:20200125135408g:plainがあり、 十あると申してあろう。

 

立体から複立体、複々立体、立立体と申してあろうが。

 

×と÷と和せばf:id:satonory4949:20200422150727g:plainとなるぞ。

 

複立体であるぞ。

 

f:id:satonory4949:20200125135415g:plain が複々立体、f:id:satonory4949:20200422150608g:plainが立立体ぞ。

 

f:id:satonory4949:20200215124047g:plainがその元であるぞ。

 

判りたか。

 

f:id:satonory4949:20200215124047g:plainとなれば超自由、超自在、超無限ぞ。

 

それだけに又超完成であるぞ。

 

超未完成でもあるぞ。

 

神は全智全能から超全智全能に弥栄してゐるぞ。

 

六ヶ敷いようなれど、このことよく判りて下されよ。

 

新しき段階に入る門ぞ。

 

 

春の巻、第五十九帖(七一六)

 

一足飛びには行かん。

 

一歩々々と申してあろう。

 

一度に神様を知りたいと申してもさうは行かん。

 

一年生からぢゃ。

 

出直し出直し。

 

子供に大学のことは判らん。

 

十貫の荷物はかつげん道理。

 

進むには、それ相当の苦労と努力いるぞ。

 

あぐらかいて、ふところ手してゐては出来ん。

 

時もいるぞ。

 

金もいるぞ。

 

汗もいるぞ。

 

血もいるぞ。

 

涙もいるぞ。

 

よいもの程 値が高い。

 

今を元とし自分をもととして善ぢゃ悪ぢゃと申してはならん。

 

よき人民 苦しみ、悪い人民 楽している。

 

神も仏もないのぢゃと申してゐるが、それは人民の近目ぞ。

 

一方的の見方ぞ。

 

長い目で見よと申してあろうが。

 

永遠のことわり わきまへよと申してあろうが。

 

支払い窓は金くれるところ、預け口は金とるところ。

 

同じ銀行でも部分的には、逆さのことしてゐるでないか。

 

全体と永遠を見ねば ものごとは判らんぞ。

 

よく心得よ。(二月十五日、日月神

 

 

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春の巻、第三十九帖(六九六)

 

道は三つと申してあろう。

 

三とは参であるぞ。

 

3(スリー)でないぞと申してあろう。

 

無限であるぞ。

 

平面的に申せば右と左とだけでないぞ。

 

その右の外に、又 左の外に道でなき道あるぞ。

 

それを善の外道、悪の外道と申す。

 

外道多いのう。

 

中の中には中の道あるぞ。

 

中の中のゝは無であるから動きないぞ。

 

動きないから無限の動きぢゃ。

 

そのゝの外の中は人民にも動きみゆるぞ。

 

この道は中ゆく道ざと申してあろうが、

中のゝの道は太神の道、中行く道が神の道、

中の道が人の道ぢゃ。

 

判りたか。

 

 

春の巻、第五十八帖(七一五)

 

心の洗濯 早ういたして 太f:id:satonory4949:20200215124047g:plainf:id:satonory4949:20200215124049g:plain(オオヒツキ)太神様に、

殊に育ての、

生みの親さま 九二十九十千(クニトコタチ)の大神様の御実体を理解せねば、

自分でいくら頑張ってもやりそこないぢゃ。

 

われがわれがと思ふてゐるなれど、

皆このほうがかげからさしてゐるのに気づかんのか。

 

おわびせよ。

 

と申せば、そんな悪いことした覚えないと申すが、何処迄くもったのぢゃ。

 

神にささげるには、

自分に与へられたものの中から ささげねばならんぞ。

 

むさぶり取ったり横取りしたり、

自分のものでないもの、

もうけたカスを神にささげて威張ってゐるが、

それはささげ物にならん。

 

神は受け給わんぞ。

 

泥棒のお残りちょうだいは真平ぢゃ。

 

自分のもの先づささげるから弥栄えるのぞ。

 

おかげ万倍間違ひなし。

 

 

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春の巻、第四十帖(六九七)

 

思想と申すのは広い意味で、太神から出てゐるのではあるが、

幽界からの力が強く加わってゐるのぢゃ。

 

ネンと申すのは神界からの直々であるぞ。

 

悪の気、断たねばネンとはならんぞ。

 

 

春の巻、第五十七帖(七一四)

 

後にも先にもない、みせしめ出てくるぞ。

 

めぐりひどい所ほど、ひどい見せしめ。

 

神がまこと心見抜いたら どんな手柄でも致さすぞ。

 

自分でびっくり。

 

まことの人程おかげおそい、おそい程 大きおかげあるぞ。

 

同じ筋のミタマ沢山にあるのぢゃ。

 

類魂と人民申してゐるもの。

 

いくら因縁あっても曇りひどいと、

その類魂の中から次々に代りのミタマ使ふ仕組。

 

兎や角申さずに素直について御座れ。

 

 

698>713

春の巻、第四十一帖(六九八)

 

天には天の道、地には地の道、人民には人民の道あると申してあろう。

 

同じ道であるが違ふのぞ。

 

地にうつし、人民にうつす時は、地の約束、人民の約束に従ふのぞ。

 

約束は神でも破れんのであるぞ。

 

次元違ふのであるから違ってくるぞ。

 

違ふのが真実であるぞ。

 

それを同じに説いたのが悪の教。

 

同じと思ふのが悪の考へ方であるぞ。

 

上から来るものは光となって流れてくるのざ。

 

光に本来影はないのであるが、動くから影がうまれる。

 

それを影でない影と申すぞ。

 

悪でない悪あると申してあろうがな。

 

天には天の自由、地には地の自由、

神には神の、人民には人民の、

動物には動物の、それぞれの自由あるぞ。

 

その性の高さ、清さ、大きさなどによって、

それぞれの制限された自由あるぞ。

 

自由あればこそ動くぞ。

 

自由とは弥栄のこと。

 

光は神から人民に与へられてゐる。

 

光に向かふから照らされる。

 

光は、ゝ、真、善、美、愛となり、

又そのうらの〇、疑、悪、醜、憎となり現はれるぞ。

 

御用の善となり、御用の悪となる。

 

悪にくむは外道の善、

外道とは上からの光が一度人民界にうつり、

人民界の自由の範囲に於ける凸凹にうつり、

それが再び霊界にうつる。

 

それが幽界と申してあらう。

 

その幽界から更に人民界にうつったものが外道の善となり、

外道の悪となるのざ。

 

善にも外道あるぞ。

 

心得よ。

 

光は天のみでなく、地からも人民からも、

すべて生命あるものから出てゐるのであるが、

その喜びの度に正比例してのものであるから、

小さい生命からの光は判らんのであるぞ。

 

 

春の巻、第五十六帖(七一三)

 

行く水にも雲にも咲く花にも神のみ心あるぞ。

 

それ見る目ないからわからんのぢゃ。

 

掃除すれば判る。

 

掃除結構。

 

拝むは拝まんよりはましであるぞ。

 

しかし拝んでばかりでは病気は治らん。

 

金はもうからん。

 

拝むばかりで金もうけ出来たり病気治ったりすると思ふたら間違ひぞ。

 

理(ミチ)にいそしめ。

 

理(ミチ)ゆくところ喜びあるぞ。

 

喜びあるから病気も治るのぢゃ。

 

金も出てくるのぢゃ。

 

おかげあるのぢゃ。

 

喜び神ぢゃ。

 

タテには神と神界と和し、

ヨコには人と環境と大和して行くところにこそ、

生きの生命のウレシウレシあるのであるぞ。

 

 

699>712

春の巻、第四十二帖(六九九)

 

いくさは善にもあり、悪にもあり、

右には右の、左には左の、

上には上の、下には下の、

中には中の、外には外のいくさあるぞ。

 

新しき御代が到来しても いくさはなくならん。

 

いくさも歩みぞ。

 

弥栄ぞ。

 

ぢゃと申して今のような外道のいくさでないぞ。

 

人殺し、生命殺すようないくさは外道。

 

やればやる程はげしくなるぞ。

 

正道のいくさは人を生かすいくさ、やればやるほど進むのぢゃ。

 

今の人民いくさと申せば、

人の殺し合ひと早合点するが、それは外道のいくさ。

 

天国へのいくさもあるぞ。

 

幽界へのいくさもあるぞ。

 

人民の云ふ今のいくさ、今の武器は、

人殺す外道の道、それではならんのう。

 

外道なくして下されよ。

 

外道はないのであるから、

外道 抱き参らせて、正道に引き入れて下されよ。

 

新しき霊界は神人(カミヒト)共でつくり出されるのざ。

 

それは大いなる喜びであるからぞ。

 

神のみ旨であるからぞ。

 

新しき世はあけてゐるぞ。

 

夜明ければヤミはなくなるぞ。

 

新しきカタはこの中からぞ。

 

日本からぞ。

 

日本よくならねば世界はよくならん。

 

外道の武器すてよ。

 

外道の武器生かして、活かして、

いのちを生かす弥栄の武器とせよ。

 

かへられるでないか。

 

 

春の巻、第五十五帖(七一二)

 

十二年おくれてゐるのを取り戻すのであるから、

これからは目の廻る程 急しくなってくるぞ。

 

神示よむ暇もなくなると申してある時来たぞ。

 

いづれは人民へるなれど、何も約束ごと真理とはかえられん。

 

まこと求めるならば、

これと見届けたならば、その場で御用与へる仕組。

 

 

700>711

春の巻、第四十三帖(七〇〇)

 

与へよ、与へよ、与へよ、与へる政治と申してあろうが。

 

戦争か平和かと人民申してゐるなれど、

道はその二つでないぞ、三が道と、くどう申してあろう。

 

水の外道の武器と火の外道の武器の他に、新しき武器気づかんのか。

 

神示よく読めば示してあるのであるぞ。

 

ほかに道ないと きめてかかるから判らんのざ。

 

生れ赤児になれば判るぞ。

 

知らしてやりたいなれど、知らして判るのでは自分のものとならん。

 

自分が体得し、自分から湧き出ねば自分のものでないぞ。

 

つけ焼刃は危ない、危ない。

 

気狂ひに刃物ぞ。

 

平面的考え、平面生活から立体に入れと申してあろうがな。

 

神人共にとけ合ふことぞ。

 

外道でない善と悪ととけ合ふのぞ。

 

善のみで善ならず。

 

悪のみで悪ならず。

 

外道は夜明けくれば消えて了ふぞ。

 

夜明けの御用大切と申してあろうが。

 

外道の悪 殺すでないぞ。

 

抱き参らすから消えるのであるぞ。

 

 

春の巻、第五十四帖(七一一)

 

見へる幸福には限りがあり、見へぬ幸福は永遠であるぞ。

 

理(ミチ)にいそしめ。

 

理(ミチ)にとけ入れよ。

 

モノは無くなるぞ。

 

霊は永遠に弥栄えるぞ。

 

毎日々々掃除してもホコリはたまる。

 

絶えず心の掃除よいか。

 

洗濯よいか。

 

目に見へず、

上、下、左、右、前、後から何となくせまってくるものをサニワせよ。

 

サニワして受けいれねばならん。

 

自分の魂をはぐくみ、

生長さしてくれる大切なものは目に見へんところから流れてくるぞ。

 

和せよ。

 

調和せよ。

 

調和とは、上から、より清い所から流れて来るものに従ふことぞ。

 

いよいよが一四一四となるぞ。

 

雨の神、風の神、地震の神、岩の神、荒の神、

地震の神。

 

 

701>710

春の巻、第四十四帖(七〇一)

 

念入れかへるぞ。

 

念入れかへるとは、新しき霊界つくることぞ。

 

新しき霊界つくるとは、太神の真中にとけ入ることぞ。

 

 

春の巻、第五十三帖(七一〇)

 

どうしたらよいのぢゃ、

神の云ふこときくから助けてくれと申すもの沢山でてくるが、

何も六ヶ敷いこと神は申さん。

 

現在を足場として一歩づつ進めばよいのぢゃ。

 

それでは食って行けんと申すものあるが、

神はあり余るほど与へてあるでないか。

 

何故、手出さんのぢゃ。

 

与へたもののみが自分のものぞ。

 

今の人民、余っても足らんと考へて、むさぶりてゐるぞ。

 

幸福与へてあるに何故手出さんのぢゃ。

 

曲げてとるのぢゃ。

 

心の目ひらけよ。

 

ゴモク投げ出せよ。

 

我の強い守護神どの、もう我の世はすんだぞ。

 

我出すほど苦しくなるのぢゃ。

 

 

702>709

春の巻、第四十五帖(七〇二)

 

一時は人民なくなるところまで行くと申してあらうが。

 

人民なくしても人民なくならん。

 

洗濯して掃除して、新しき道 早う進めよ。

 

おそくなる程 六ヶ敷く苦しくなるぞ。

 

近目で見るから判らん。

 

日本の、世界あけたり。あな爽々(スガスガ)し、日本晴れぞ。

 

二二(フジ)は晴れたりとは、真理の世に出づことぞ。

 

天のこと地にうつすときは、

地の力出るように、地の息吹き通ふように、

弥栄するように、

念を地の力と現はれるように、正しくうつして下されよ。

 

邪気入ってはならん。

 

 

春の巻、第五十二帖(七〇九)

 

まことの光の道に行き、進めよ。

 

ここぞと見極めたら、理解に向ってひたすらに進まねばならん。

 

理屈いらん。

 

宇宙はこの方の中にあるのぢゃ。

 

このほうぢゃ。

 

世が段々せまって悪くなるように申してゐるが、

それは局部的のこと。

 

大局から見れば、よきに向って弥栄えてゐるぞ。

 

夏が暑いと申してブツブツ申すでないぞ。

 

秋になるぞ。

 

冬もあるぞ。

 

冬ばかりと考へるでないぞ。

 

やがては春が訪れるのぢゃ。

 

いづれも嬉し嬉しとなる仕組。

 

 

703>708

春の巻、第四十六帖(七〇三)

 

今の武器は幽界の裏打ちあるぞ。

 

神界の裏打ちある武器でなくてはならん。

 

まことの武器ぞ。

 

ヒックリであるぞ。

 

念からつくり出せよ。

 

その念のもとをつくれば、神から力を与へるから、

この世の力と現はれるぞ。

 

念の凸凹から出た幽界を抱き参らさねばならんのざ。

 

中々の御苦労であるなれど、

幽界を神界の一部に、力にまで引きよせねばならん。

 

 

春の巻、第五十一帖(七〇八)

 

人民の因縁性来はみな神示にかかしてあるぞ。

 

そなたのこと何も彼も一目ぢゃ。

 

因縁判ってうれしうれしで御用結構。

 

うれしおそろしくなる仕組。

 

 

704>707

春の巻、第四十七帖(七〇四)

 

念が新しき武器であるぞ。

 

それでは人民まわりくどいと申すであろうなれど。

 

ものごとには順と時あるぞ。

 

もとのキから改めて下されよ。

 

尊き御役。

 

 

春の巻、第五十帖(七〇七)

 

その人によってふさわしい行がある。

 

誰でも同じでない。

 

一合食べる人もあれば一升食べる人もあるぞ。

 

身につかんもの、身につかん行は、いくらしても何もならん。

 

いらん苦労はいらんと申してあろう。

 

風呂には時々入るが、魂の風呂に行く人 少ないぞ。

 

より高い聖所へ参りて魂のアカ落せよ。

 

神示よんで落して下されよ。

 

アカ落さずに神の光見えんと申して、

おかげないと、われよし申して御座るなれど、

風呂に入らずに、アカつくとは怪しからんと申すのと同じでないか。

 

何故に判らんのぢゃ。

 

全体の為 奉仕するはよいが、

自分すてて全体なく、自分ないぞ。

 

全体を生かし、全体と共に部分の自分が弥栄えるのであるぞ。

 

早合点 禁物。

 

 

705>706

春の巻、第四十八帖(七〇五)

 

念なりと、今の人民申す思想はマコトの念でないぞ。

 

思想は思想ぞ。念とは力であるぞ。

 

実在であるぞ。

 

喜びであるぞ。

 

喜びは神ぞ。

 

弥栄。(二月十二日、ひつく神)

 

 

春の巻、第四十九帖(七〇六)

 

これぞと思ふ人があったら、

その理(ミチ)の人について御座れよ。

 

一寸先見へん人民ぢゃ。

 

先達の後からついて御座れ。

 

それが一番よいことぢゃ。

 

人、見出すこと六ヶ敷いのう。

 

十年、二十年行じても、目あて違ってゐたら何にもならんぞ。

 

このほうの道へ御座れ。

 

正しき光の道によれよ。

 

十日で、一月で見ちがへる程になるぞ。

 

死んだ気で神示(フデ)をそなたの身にうつせよ。

 

涙流せよ、汗流せ、血流せよ。

 

天災や地変は大き肉体の応急処置の現れであるぞ。

 

部分的に、人間苦しめる様に思ふてはならん。

 

一日一度は便所へ行かなならんであろうがな。

 

人間、この世の五十年をもととして考へるから判らなくなるのざ。

 

永遠弥栄の生命、早う体得結構。