まぜまぜ(^^♪ひふみ神示 その2

ブースカ明日香さんを真似て書いてみました(^^) スマホでしたら、横画面にすると見やすいかと思います。 5/11改題しました。

まぜまぜ 六六一~六九〇

ひふみ神示 まぜまぜの第六六一帖~第六九〇帖

 

 

第二十七巻 春の巻

全六十帖・通し番号(六五八)~(七一七)のうち(六六一)~(六九〇)

自  昭和二十七年旧一月 一日

至  昭和二十七年 二月十五日

 

 

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春の巻、第四帖(六六一)

 

f:id:satonory4949:20200222155313g:plainがよろこびであるぞ。

f:id:satonory4949:20200319172155g:plainもよろこびであるぞ。

よろこびにも三つあるぞ。

 

f:id:satonory4949:20200222155313g:plainは表、f:id:satonory4949:20200319172155g:plainは裏、表裏合せてf:id:satonory4949:20200215124119g:plainぞ。

 

f:id:satonory4949:20200215124119g:plainは神であるぞ。

 

神であるなれど現れの神であり、現れのよろこびであるぞ。

 

f:id:satonory4949:20200215124119g:plainのもとがΘであるぞ。

 

キであるぞ。

元の元の太元の神であるぞ。

 

△(ム)であるぞ。

 

△(ム)から ▽(ウ)生れ、 ▽(ウ)から △(ム)生れるぞ。

 

同じ名の神二つあると申してあろうが。

 

表の喜びが ゝ、愛、真、善、美となり現れ、

裏の喜びからは、〇、憎、偽、悪、醜が現れるのぢゃ。

 

喜びが神ぢゃと申して裏の喜びではならんぞ。

 

今の人民の喜びと申すのは裏の喜びであるぞ。

 

悲しみを喜びととり違へているぞ。

 

この巻、春の巻。こまかに説いて判り易く説いてきかすぞ。

 

分ければそれだけ小さくなるなれど。

 

 

春の巻、第三十三帖(六九〇)

 

新玉の 真珠の波も 草も木も 春立ちそめて よみかへりけり。

 

今の科学は科学のことは判るが、それより上のことは判らん。

 

今の科学はあるものがあると云ふことだけしか判らんのぢゃ。

 

よい求めにはよい感応、よい感応によい働き、

よい理解となり、よい生活 生れる。

 

間違った求めには間違った神、間違った生活 生れるぞ。

 

道理ぢゃナア。

 

窮屈であってはならん。

 

しかつめらしく固くなってゐてはならんぞ。

 

笑ひの道、喜びの道にこそ神のハタラキあるのぢゃ。

 

宿命は宿されたもの。

 

一つのワクに入ってゐるのであるぞ。

 

運命は自分で切りひらくこと出来るぞ。

 

磨け磨け、ミタマ磨き結構。

 

信念だけでは行き詰るぞ。

 

 

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春の巻、第五帖(六六二)

 

人民 栄えて行くことは、神、弥栄のことぞ。

 

神も、人民も、世界も、宇宙も、総ていつまでも未完成ぞ。

 

神様でも大神様は判らんのであるぞ。

 

只、よろこびに向ってひたすらに進んで行けばよいのであるぞ。

 

正しき喜びを先づ見極めよ。

 

見きわめてひたすらに進めばよいのぢゃ。

 

食物を食べるのも喜びであるぞ。

 

正しき食物 正しく食べよ。

 

更に喜びふへて弥栄へるのぢゃ。

 

自分の喜びを進め進めて天国へ入ること出来るのぢゃ。

 

悪い食物 悪く食べるから悪くなるのぢゃ。

 

目に見へる食物ばかりでないぞ。

 

何も彼も同様ぞ。

 

人民は喜びの子と申してあろう。

 

罪の子でないぞ。

 

うれしうれしの道あるに、何故 歩まんのぢゃ。

 

 

春の巻、第三十二帖(六八九)

 

信仰の始めは感情に支配されがちぢゃ。

 

理智を強く働かせねばならんぞ。

 

人間は絶えずけがれてくる。

 

けがれは清めることによって、あらたまる。

 

厄祓ひせよ。

 

福祓ひせよ。

 

想念は永遠にはたらくから、悪想念は早く清算しなければならんぞ。

 

中の霊は天国へ行っても、外の霊はこの世に残るぞ。

 

残ることあるぞ。

 

残ってこの世の事物にうつって同じこと、

所業をくりかへすことあるぞ。

 

早く洗濯せよと申してあろうがな。

 

梅の実から梅が生へるのぢゃ。

 

その梅に実出来て又梅が生へるのぢゃ。

 

人間も生れかわっても死にかわっても、

中々に悪いくせは直らんもんぢゃぞ。

 

それを少しづつ直してかからねばならん。

 

努力次第で漸次直るのぢゃぞ。

 

宗教は霊、芸術は体ぞ。(二月一日、ひつく神)

 

 

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春の巻、第六帖 (六六三)

 

喜びが ゝ、真、善、美、愛と現はれ、

それが又、喜びとなり、

又、ゝ、真、善、美、愛となり。

又現はれ、限りないのぢゃ。

 

喜びの本体はあの世、現はれはこの世、

あの世とこの世合せて真実の世となるのぞ。

 

あの世ばかりでも片輪、この世ばかりでも片輪、まこと成就せんぞ。

 

あの世とこの世と合せ鏡。

 

神はこの世に足をつけ衣とし、

人はあの世をΘとして、

心として生命しているのぢゃ。

 

神人と申してあろうがな。

 

この十理(ドーリ)よくわきまへよ。

 

この世にあるものの生命はあの世のもの、

あの世の生命の衣はこの世のもの。

 

くどいようなれど このこと肚の中に、得心なされよ。

 

これが得心出来ねば どんなによいことをしても、

まこと申しても なにもならん、ウタカタぢゃぞ。

 

時節来たのぢゃから、今迄のように一方だけではならんぞよ。

 

 

春の巻、第三十一帖(六八八)

 

今の自分の環境がどんなであろうと、それは事実であるぞ。

 

境遇に不足申すなよ。

 

現在を足場として境遇を美化し、善化してすすめ。

 

其処にこそ神の光、よろこび現れるのぢゃ。

 

逃げ道つくれば迷ひの道に入るぞ。

 

楽に得たもの、楽に失う。

 

 

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春の巻、第七帖 (六六四)

 

ことわけて書きおくから、迷はんように。

 

人民の理(ミチ)歩んで呉れよ。

 

何も彼も嬉し嬉しとなる仕組、人民に禍ないのぢゃ。

 

不足ないのぢゃ。

 

いつも楽し楽しの歌で暮せる仕組ぢゃぞ。

 

と申しても、

心で判っても、今の人民には判るまいから、

更にこと分けて、こまかに説いてきかすぞ。

 

理(ミチ)しるべをつくりおくぞ。

 

これがよろこびの理(ミチ)ぢゃ。

 

人民のいのちを正しく育てることが一番のよろこび。

 

人民と申すものは神の喜びの全き現れであるぞ。

 

いくらけがれても元の神の根元神のキをうけてゐるぞ。

 

それを育てることぢゃ。

 

導くことぢゃ。

 

死なんとする人助けるのもその一つぢゃ。

 

宿った子殺すことは、人民殺すことぢゃ。

 

今の人民 九分九厘は死んでいるぞ。

 

救へ、救へ、救へ。

 

おかげは取りどくぢゃ。

 

生かせよ。生かせよ。

 

生かす理(ミチ)は神示よむことぢゃ。

 

 

春の巻、第三十帖(六八七)

 

宇宙のすべてがつながりであるぞ。

 

石でも水でも草でも木でも動物でもすべてがつながりぢゃ。

 

手と頭のようなもんぢゃ。

 

拝み合へよ。

 

親しみ合へよ。

 

和せよ。

 

和すと自分となるのぢゃぞ。

 

自分 大きく、明るくなるのぢゃ。

 

豊かにうれしうれしぢゃ。

 

赤いものの中にゐると赤くなって行く。

 

理(リ)に向ってゐると、いつの間にか神の気いただくぞ。

 

神の光がいただけるのぢゃ。

 

二度三度、話きいたり、おろがんだりくらいで理は判らん。

 

神は解らん。

 

体験せねばならん。

 

一方的では何事も成就せん。

 

もちつもたれつであると申してあろう。

 

 

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春の巻、第八帖 (六六五)

 

人民をほめること よいことぢゃ。

 

ほめて、その非をさとらせよ。

 

罪ゆるすことぢゃ。

 

もの生かすことぢゃ。

 

生かして使ふことぢゃ。

 

神示(フデ)ひろめることぢゃ。

 

やって見なされ。

 

必ずうれしうれしとなるぞ。

 

栄えるぞ。

 

嬉しくなかったら神はこの世に居らんぞよ。

 

神示は一本道ぢゃ。

 

始めからの神示よんで、よく読んで見なされ。

 

何も彼もハッキリしてくるぞ。

 

神示うつして下されよ。

 

世界にうつすことよろこびぞ。

 

地に天国うつすことぞ。

 

六ヶ敷いことないぞ。

 

今の裏のやり方、ひっくり返して表のやり方すれば、

それでよいのぢゃ。

 

裏は裏として生きるのぢゃぞ。

 

金は使ふもの。

 

使はれるものでないこと よく判って居らうが。

 

御苦労のことやめなされよ。

 

 

春の巻、第二十九帖(六八六)

 

神から出るものは理(リ)にきまってゐるぞ。

 

この平凡の理(ミチ)の道理が何故に判らんのぢゃ。

 

得心出来んのぢゃ。

 

それに従へばこそ向上、弥栄するのぢゃ。

 

天狗ざから、慢心するから、

理がなくなるから行き詰るのぢゃ。

 

一応は世界一家のカタ出来るのぢゃ。

 

が、それではならん。

 

それを越えて、ねり直してマコトの一家となるのぢゃ。

 

天が上で地が下で、中にゝあるのぢゃ。

 

それがミロクの世ぢゃ。

 

気長にやれと申してあろう。

 

長い苦心なければ よいもの出来ん。

 

この世で出来終らねば、

あの世までもちつづけても やりつづけてもよいのぢゃ。

 

そなた達はあまりにも気が短いぞ。

 

それではならんのう。

 

マコトの生活は永遠性もってゐるぞ。

 

これないものは宗道でないぞ。

 

 

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春の巻、第九帖 (六六六)

 

人民には分別与へてあるから反省できるのであるぞ。

 

反省あるから進展するのであるぞ。

 

ほっておいても、いらんものは無くなり、

いるものは栄へるのであるが、

人民の努力によっては、よりよくなるのぢゃ。

 

省みねば生れた時より悪くなると申してあろうが。

 

慾、浄化して喜びとせよ。

 

喜び何からでも生れるぞ。

 

広い世界に住めば広く、深い世界に住めば深く向上する。

 

物の世界から霊の世界へ、

無限の世界へ入るから無限の生命が与へられるのぢゃ。

 

無限の喜び得ること出来るのぢゃ。

 

無限世界とは物と霊との大調和した、限りなき光の世界ぞ。

 

真理を知ることが、無限を得ること。

 

まことの神をつかむことぞ。

 

よいものつくるには大き手数かかるのぢゃ。

 

ふところ手でいては出来ん。

 

手出せ、足出せよ。

 

 

春の巻、第二十八帖(六八五)

 

親子、夫婦、兄弟姉妹と生れても逆縁あるぞ。

 

カタキ同士 結ばれることあるぞ。

 

それは神の大き恵みぞ。

 

それに打ちかって、新しき生命うみ出してつかへまつれ。

 

体験ないところに宗教はない。

 

 

667>684

春の巻、第十帖(六六七)

 

一切のものは🌀(ウズ)であるぞ。

 

同じことくりかへしているように、

人民には、世界が見えるであろうなれど、

一段づつ進んでいるのであるぞ。

 

木でも草でも同様ぞ。

 

前の春と今年の春とは、同じであって違って居らうがな。

 

行き詰りがありがたいのぢゃ。

 

進んでいるからこそ、行きあたり行きつまるのぢゃ。

 

省みる時あたえられるのぢゃ。

 

さとりの時与えられるのぢゃ。

 

ものは、はなすからこそ掴(旧字体)めるのぢゃ。

 

固く握って戸しめていてはならんのう。

 

扉あけておけと申してあろうが。

 

着物ぬいで裸体となることつらいであろうなれど、

ぬがねば新しい着物きられんぞ。

 

裸になってブツカレよ。

 

神様も裸になってそなたを抱いてくださるぞよ。

 

重い石のせたタクアンはうまいのであるぞ。

 

 

春の巻、第二十七帖(六八四)

 

八合目あたりに参ると総ての様子が、ほぼ見当つくぞ。

 

それ迄は誰でもよくわからんもんぢゃ。

 

これと云う先達があったら、

先達の云うこと、云う通りについて行けよ。

 

おかしい先達は始めからおかしいぞ。

 

苦労し、手をかけ、金かけるほどよいもの出来るぞ。

 

信念越えて自分より上のものにまかせきったのが理解であるぞ。

 

信念だけでは何事も出来ん。

 

確信は理解からぞ。

 

 

668>683

春の巻、第十一帖(六六八)

 

内の自分は神であるが、外の自分は先祖であるぞ。

 

祖先おろそかにするでないぞ。

 

先祖まつることは自分をまつることぞ。

 

外の自分と申しても肉体ばかりでないぞ。

 

肉体霊も外の自分であるぞ。

 

信じ切るからこそ飛躍するのぢゃぞ。

 

不信に進歩弥栄ないぞ。

 

肉体霊も外の自分であるぞ。

 

まかせ切るからこそ神となるのぢゃ。

 

神に通づるのぢゃ。

 

他力で自力であるぞ。

 

真剣なければ百年たっても同じ所ウヨウヨぢゃ。

 

一歩も進まん。

 

進まんことはおくれていることぞ。

 

真剣なれば失敗してもよいと申してあろうが。

 

省みることによって更に数倍することが得られるのであるぞ。

 

いい加減が一旦成功しても土台ないからウタカタぢゃ。

 

下座の行、大切。

 

 

春の巻、第二十六帖(六八三)

 

神にまかせきると申しても、

それは自分で最善をつくして後のことぢゃ。

 

努力なしにまかせるのは悪まかせぢゃ。

 

悪おまかせ多いのう。

 

魂の財産は金を得るより数倍六ヶ敷いぞ。

 

ぬれ手で粟のやり方、カスつかむぞ。

 

むやみに腹が立ったり、悲しくなったり、

くやしくなったりするのは、まだめぐりあるからぢゃ。

 

めぐりの霊界との因縁が切れて居らぬからぢゃ。

 

愛は養はねばならん。

 

夫婦はいのちがけで、お互にきづき合はねばならんぞ。

 

夫婦愛はあるのではない。

 

築き上げねばならんぞ。

 

生み出すのぢゃ。

 

つくり出すのぢゃ。

 

そこに尊さあるぞ。

 

喜びあるぞ。

 

左には宗教、右には芸術。

 

 

669>682

春の巻、第十二帖(六六九)

 

無くて七癖、七七四十九癖、悪い癖 直して下されよ。

 

天国へ行く鍵ぞ。

 

直せば直しただけ外へひびくものが、かわって来るぞ。

 

よくなってくるぞ。

 

かわって来れば、外からくるもの、自分に来るもの、かわってくるぞ。

 

よくなってくるぞ。幸となるぞ。

 

よろこび満ち満つぞ。

 

神みちみちて天国ぢゃ。

 

一升桝もってきて一斗入れよと人民申しているが、

神は一斗も二斗も入れてやりたいなれど、

一升桝には一升しか入らん。

 

大き桝もって来い。

 

頂くには頂くだけの資格いるぞ。

 

一歩づつ進め。

 

一歩づつ絶えず進めよ。

 

それより他に道はないのぢゃ。

 

 

春の巻、第二十五帖(六八二)

 

局部的に見るから判らんのぢゃ。

 

文字書くのは心であるが、心は見えん、手が見へるのぢゃ。

 

手見るはまだよい方ぢゃ。

 

筆の先だけしか見えん。

 

筆が文字書いていると申すのが、今の人民の考へ方ぢゃ。

 

筆が一番偉いと思ふて御座るのぢゃ。

 

信仰に入った始はよいが、途中から判らなくなるのぢゃ。

 

そこが大切ぞ。判らなくなったら神示(フデ)よめよ。

 

キ頂いてよみかへるぞ。

 

出足の港は二二の理(ミチ)からぢゃと申してあろう。

 

【真理】と申してあろう。

 

これが乱れると世が乱れるぞ。

 

神界の乱れイロからぢゃと申してあろう。

 

男女の道 正されん限り、世界はちっともよくはならんぞ。

 

今の世のさま見て、早う改心、結構いたしくれよ。

 

和は力ぞ。

 

 

670>681

春の巻、第十三帖(六七〇)

 

自分はよいが、世の中が悪いのぢゃと申しているが、その自分省みよ。

 

自分が神の理(ミチ)にあり、真実であるならば、世の中は悪くないぞ。

 

輝いているぞ。

 

自分にふりかかって来る一切のものは最善のものと思へ。

 

如何なる悪いことも それは最善のものであるぞ。

 

この道理よくわきまへて下されよ。

 

真の神を理解すれば、一切の幸福 得られるのぢゃ。

 

世を呪ふことは自分を呪ふこと、

世間や他人を恨むことは自分を恨むこと。

 

このこと悟れば一切はそこからひらけくるぞ。

 

十のもの受けるには十の努力。

 

 

春の巻、第二十四帖(六八一)

 

自分すてて他力なし。

 

人民なくて此の世の仕事出来ん。

 

人民は道具ぢゃ。

 

神は心ぢゃ、元ぢゃ、元だけではならん。

 

道具だけでならん。

 

大神は一切を幸し、一切を救ひ給ふのであるぞ。

 

一切が神であり一切が喜びであるぞ。

 

その人民にメグリなくしてもメグリ負ふことあるぞ。

 

人類のメグリは人類の誰かが負はねばならん。

 

一家のメグリは一家の誰かが負はねばならん。

 

果たさねばならん。

 

善人が苦しむ一つの原因であるぞ。

 

神の大きな恵みであり試練であるぞ。

 

判りたか。

 

愛するものほど、その度が濃い程、魂が入っているのぢゃ。

 

先祖が大切していたものは大切せねばならんぞ。

 

現界のみの理屈は通らんぞ。

 

飛んだ目に会ふぞ。

 

気つけおくぞ。

 

念じてから行へ。

 

 

671>680

春の巻、第十四帖(六七一)

 

どんな草でも木でも その草木でなければならん御用あるぞ。

 

だから生きているのぢゃ。

 

そのはたらき御用忘れるから苦しむ。

 

行き詰る。

 

御用忘れるから亡びるのぢゃ。

 

個人は個人の、一家は一家の、国は国の御用がある。

 

御用大切、御用結構。

 

日本が変って世界となったのぢゃ。

 

自分の為ばかりの祈りには、自分だけの神しか出て来ない。

 

悪の祈りには悪の神。

 

善の祈りには善の神。

 

始めの間は中々判らんものぢゃ。

 

神様のなされるマネから始めて下されよ。

 

 

春の巻、第二十三帖(六八〇)

 

順と区別さへ心得て居れば、何様を拝んでもよいと申してあろうが。

 

日の神様ばかりに囚われると判らんことになるぞ。

 

気付けおくぞ。

 

それでは理(ミチ)にならん。

 

父だけ拝んで母拝まんのは親不孝ぞ。

 

おかげないぞ。

 

おかげあったらヨコシマのおかげと心得よ。

 

手だけ尊んではいかん。

 

足だけ尊んでもいかん。

 

一切に向って感謝せよと申してあろうが。

 

門もくぐらず玄関も通らずに奥座敷には行かれん道理。

 

順序を馬鹿にしてはならんぞ。

 

いつ迄門に立っていても何もならん、お出直しぢゃ。

 

川がなければ水流れん道理。

 

始はカタふんで行かなならんぞ。(ひつくの神二月三日)

 

 

672>679

春の巻、第十五帖(六七二)

 

思ふようにならんのは、天地の弥栄。

 

生成化育にあづかって働いていないからぞ。

 

今の世界の行き詰りは、世界が世界の御用をしてないからぢゃ。

 

神示よめよ。

 

秘文(ヒフミ)世界にうつせよ。

 

早ううつせよ。

 

早ううつせよ。

 

人間の智のみでは世界はよくならん。

 

裏側だけ清めても総体は清まらん。

 

神にめざめねばならん。

 

愛にも内のものと外のものとがある。

 

愛と申せば何でもよいと思ふていてはならん。

 

愛の悪もあるぞ。

 

総てこの通りぢゃ。

 

上の、より高いところから来るから奇跡と見へ、偶然と見へるのぢゃ。

 

神からの現われであるから、

その手順が判らんから偶然と見へるのぢゃぞ。

 

偶然の真理さとれと申してあろう。

 

これが判れば大安心。

 

立命

 

 

春の巻、第二十二帖(六七九)

 

宇宙の総てはこの神の現れであり、一面であるから、

その何処つかんで拝んでもよいのである。

 

その何処つかんで、すがってもよいのであるぞ。

 

水の流れも宗教ぞと申してあらう。

 

総てに神の息、通ふているぞ。

 

一本の箸 拝んでもよいのぢゃが、

ちゃんとめあて、よいめあて、きめねばならん。

 

内の自分に火つけよ。

 

心くらくては何も判らん。

 

世の中は暗う見えるであろう。

 

真暗に見えたら自分の心に光ないのぢゃ。

 

心せよ。

 

自分光れば世の中明るいぞ。

 

より上のものから流れてくるものにまつりて行くこと大切ぢゃ。

 

それがまつりの元。

 

それが宗教ぢゃ。

 

宗教は生活ぢゃ。

 

生活は宗教ぢゃ。

 

裏と表ぢゃ。

 

 

673>678

春の巻、第十六帖(六七三)

 

あなたまかせ、よい妻と申してあろうが。

 

神まかせがよい人民であるぞ。

 

この神とみとめたら理解して、マカセ切れよ。

 

太元の神さまにホレ参らせよ。

 

真の信仰の第一歩ぞ。

 

雨降らば雨を、風ふけば風を、一先づ甘受せよ。

 

甘受した後、処理して行かなならん。

 

受けいれずにハネ返すのは大怪我のもと。

 

何回でも何回でも同じことくりかえさねばならんことになるぞ。

 

何か迫り来るのは、何か迫り来るものが自分の中にあるからぞ。

 

内にあるから外から迫るのぢゃ。

 

自分で呼びよせているのぢゃ。

 

苦しみの神、因果の神 呼んでおいて、不足申している者 多いのう。

 

自分で呼びよせながら嫌がってハネ返すテあるまいにのう。

 

同じものでも表からと裏からとでは違ふのぢゃ。

 

同じ目で見ても、ちがってうつるのぢゃ。心得よ。

 

 

春の巻、第二十一帖(六七八)

 

太一二f:id:satonory4949:20200215124119g:plain(オーヒツキ)大神としてのこの神は一柱であるが、

働きはいくらでもあるぞ。

 

その働きの名がもろもろの神様の名ぢゃ。

 

無限であるぞ。

 

このほう一柱であるが無限柱ぞ。

 

総てが神であるぞ。

 

一神ぢゃ。

 

多神ぢゃ。

 

汎神(ハンシン)ぢゃ。

 

総てが神ぢゃ。

 

喜びぢゃ。

 

始めから全体を掴もうとしても、それは無理と申すもの。

 

手でも足でもよい、

何処でもよいから掴める所からつかんで御座れよ。

 

だんだん判ってくるぞ。

 

全体をつかむには全体と同じにならねばならん。

 

その人民々々のつかめるところから掴んで参れよ。

 

このほう抱き参らせてやるぞ。

 

マツリから出直せよ。

 

天地見よ。

 

大きマツリ致して居らうがな。

 

霊と肉のまつり第一。

 

頭とハラのまつり結構。

 

二二のマツリ、出船の港ぢゃ。

 

奥から来るものは喜びぢゃ。

 

念ぢゃ。

 

力のもとぢゃ。

 

生きの生命ぢゃ。

 

神様にはハラを向けなさい。

 

 

674>677

春の巻、第十七帖(六七四)

 

希望は愛の現れの一つ。

 

どんな時、どんな人にも与へられているのぢゃ。

 

希望にもえつつ、現在を足場として生きよ。

 

呼吸せよ。

 

同じことしていても、希望もつ人は栄え、希望なき人は亡びる。

 

希望は神ぞ。

 

アイウエオからアオウエイの世にうつって来るぞ。

 

アオウエイの世が天国ぢゃ。

 

用意はよいか。

 

今の世は道具ばかりぢゃ。

 

使ふ人民、早うつくれよ。

 

 

春の巻、第二十帖(六七七)

 

他力の中の自力ぢゃ。

 

ぢゃと申して、まかせきったと申して、ふところ手ならん。

 

自力大切ぢゃ。

 

まつりは常住坐臥(じょうじゅうざが、普段の生活の中の意)にあるぞ。

 

拝むばかりではならん。

 

【拝むまつりはまつりのカタぢゃ】。

 

カタから入るのが入り易いが、この程度の境地では戒律いるぞ。

 

カタに囚われてはならん。

 

戒律の世界にいつ迄もいてはならん。

 

十年たてば十才になるぞ。

 

恩、知らねばならん。

 

恩に報ひなければならんぞ。

 

人民、天地の恩 忘れているから、喜び少ないのぢゃ。

 

ものの順序わきまえねばならん。

 

悪平等ならん。

 

政治や経済は裏、二義的のもの。

 

 

675>676

春の巻、第十八帖(六七五)

 

使命がいのち。

 

上から、神から命ぜられたことがいのちぞ。

 

使命はつくられた時に与えられる。

 

使命なくてものは生れんぞ。

 

自分の使命は内にききつつ外にきけよ。

 

使命果たすがよろこびぞ。

 

使命果たすには生命がけでなくてはならん。

 

生命ぢゃからのう。

 

努力した上にもせなならんぞ。

 

努力には苦もあるぞ。

 

苦のない努力ないぞ。

 

右を動かせば左もうごくぞ。

 

果たせば苦は楽。

 

果たさねば楽も苦。

 

重荷あるからこそ、苦あるからこそ、風にも倒れんのぢゃ。

 

神が主であるぞ。

 

 

春の巻、第十九帖(六七六)

 

小乗の行と馬鹿にするでないぞ。

 

理屈で神を割出したり、そろばんでハヂキ出したり、

今の鼻高さんはしているなれど、何処まで行っても判りはせんぞ。

 

土耕す祈りに神の姿現はれるぞ。

 

とどまってはならん。

 

いつも弥栄々々に動いて行かなならん。

 

大中心に向って進まねばならん。

 

途中には途中の、大には大の、中には中の、

小には小の中心はあるなれど、行く所は一つぢゃ。

 

ぢゃと申して小の中心を忘れてはならん。

 

神は順であるぞ。

 

先づ小の神から進んで行けよ。

 

ほんとのこと知るには、ほんとの鍛練いるのぢゃ。

 

たなからボタモチ食っていては段々やせ細るのみ。

 

鍛えよ鍛えよ。

 

鍛えればこそ光出て来るのぢゃ。