まぜまぜ(^^♪ひふみ神示 その2

ブースカ明日香さんを真似て書いてみました(^^) スマホでしたら、横画面にすると見やすいかと思います。 5/11改題しました。

まぜまぜ 七二一~七五〇

ひふみ神示 まぜまぜの第七二一帖~第七五〇帖

 

 

第二十八巻 夏の巻

全二十五帖・通し番号(七一八)~(七四一)のうち(七一八)~(七四一)

全二十五帖・通し番号(七一八)~(七四二)のうち(七一八)~(七四二)

 ※通し番号を振りなおしました。(夏の巻、第二十二帖から)

 

自  昭和二十七年 三月 三日

至  昭和二十七年 三月 八日

 

 

第二十九巻 秋の巻

全二十八帖・通し番号(七四二)~(七六九)のうち(七四二)~(七五〇)

全二十八帖・通し番号(七四三)~(七七〇)のうち(七四三)~(七五〇)

  昭和二十七年 四月十一日

 

 

 

 

721>750

夏の巻、第四帖(七二一)

 

何神様とハッキリ目標つけて拝めよ。

 

只ぼんやり神様と云っただけではならん。

 

大神は一柱であるが、あらわれの神は無限であるぞ。

 

根本の、太f:id:satonory4949:20200215124047g:plainf:id:satonory4949:20200215124049g:plainf:id:satonory4949:20200215124119g:plain(ヒツキ)大神さまと念じ、

その時その所に応じて、特に何々の神様とお願ひ申せよ。

 

信じ合ふものあれば、

病気も又たのしく、

貧苦も亦たのしいのであるぞ。

 

例外と申すのは、ないのであるぞ。

 

他の世界、他の天体、

他の小宇宙からの影響によって起る事象が例外と見えるのぢゃ。

 

心大きく、目ひらけよ。

 

 

秋の巻、第八帖(七五〇)

 

何事もよろこびからぞ。

 

結果から又よろこび生れるぞ。

 

この道理わかれば何事もありやか。

 

 

 

722>749

夏の巻、第五帖(七二二)

 

なりなると申してあろうが。

 

なると申すのは内分は同じであるが、形の変ることであるぞ。

 

ウムとナルとは同じであって、同じでないぞ。

 

 

秋の巻、第七帖(七四九)

 

公のことに働くことが己のため働くこと。

 

大の動きなすために小の動きを為し、

小の動きなすために個の動きなすのであるぞ。

 

ゝにゝあり、又ゝあると申してあるぞ。

 

 

723>748

夏の巻、第六帖(七二三)

 

ほんとうにモノを見、きき、味はい、消化して行かなならんぞ。

 

地の上にあるもの、人間のすること、

その総ては霊界で同じことになっていると申してあろうが。

 

先づ霊の世界のうごき大切。

 

霊の食物、霊の生活、求める人民 少ないのう。

 

これでは、片輪車、いつまでたってもドンテンドンテンじゃぞ。

 

そのものを見、

そのものに接して下肚がグッと力こもってくるものはよいもの、

ほんものであるぞ。

 

キは総てのものに流れ込むもの。

 

信仰は理智的にも求められる、完き情である。

 

真理を理解するのが早道。

 

確信となるぞ。

 

 

秋の巻、第六帖(七四八)

 

他を愛するは真愛ぞ。

 

己のみ愛するのは自己愛ぞ。

 

自己愛を排してはならん。

 

自己愛をひろげて、大きくして真愛と合致させねばならん。

 

そこに新しき理(ミチ)ひらけるのであるぞ。

 

自己愛を悪魔ととくは悪魔ぞ。

 

無き悪魔つくり、生み出すでないぞ。

 

一段昇らねば判らん。

 

 

 

724>747

夏の巻、第七帖(七二四)

 

神も人間も同じであると申してあろう。

 

同じであるが違ふと申してあろう。

 

それは大神の中に神を生み、神の中に人民生んだためぞ。

 

自分の中に、自分新しく生むときは、自分と同じカタのものを生む。

 

大神弥栄なれば、神も弥栄、神弥栄なれば人民弥栄ぞ。

 

困るとか、苦しいとか、貧しいとか、悲しいとか云う事ないのであるぞ

 

。理(ミチ)ふめと申すのは、

生みの親と同じ生き方、同じ心になれよと申すことぞ。

 

人民いくら頑張っても神の外には出られんぞ。

 

神いくら頑張っても大神の外には出られんぞ。

 

 

秋の巻、第五帖(七四七)

 

へその緒はつながってゐるのであるから、

一段奥のへそえへそえと進んで行けば、

其処に新しき広い世界、大きくひらけるのであるぞ。

 

自分なくするのではなく高く深くするのであるぞ。

 

無我でないぞ。

 

判りたか。

 

海の底にはキンはいくらでもあるぞ。

 

幽界と霊線つなぐと自己愛となり、

天国と霊線つなげば真愛と現れるぞ。

 

よろこびも二つあるぞ。

 

三つあるぞ。

 

歓喜は一つなれど、次の段階では二つとなるのであるぞ。

 

 

 

725>746

夏の巻、第八帖(七二五)

 

見へるものから来る幸福には限りがあるが、

見えんものから来る幸福は無限ぞ。

 

つきんよろこびは常に神から。

 

 

秋の巻、第四帖(七四六)

 

道徳、倫理、法律は何れも人民のつくったもの。

 

本質的には生れ出た神の息吹きによらねばならん。

 

神も世界も人民も何れも生長しつつあるのざ。

 

何時までも同じであってはならん。

 

三千年一切りぢゃ。

 

今迄の考へ方を変へよと申してあらう。

 

道徳を向上させよ。

 

倫理を新しくせよ。

 

法律を少なくせよ。

 

何れも一段づつ上げねばならん。

 

今迄のやり方、間違ってゐたこと判ったであらう。

 

一足飛びには行かんなれど、一歩々々上って行かなならんぞ。

 

ぢゃと申して土台をすててはならん。

 

土台の上に建物たてるのぢゃ。

 

空中楼閣 見て居れん。

 

 

 

726>745

夏の巻、第九帖(七二六)

 

ウムと申すことは、自分をよりよく生長さすこと。

 

一つ生めば自分は一段と上に昇る。

 

この道理わかるであろうがな。

 

産むことによって、自分が平面から立体になるのであるぞ。

 

毎日、一生懸命に掃除してゐても、何処かにホコリ残るもんぢゃ。

 

まして掃除せん心にホコリつもってゐること位、

誰にでも判ってゐるであろうが。

 

神示で掃除せよ。

 

大病にかかると借金してでも名医にかかるのに、

霊的大病は知らん顔でよいのか。

 

信仰を得て霊的に病気を治すのは、一瞬には治らんぞ。

 

奇跡的に治るとみるのは間違ひ。

 

迷信ぞ。

 

時間もいり手数もいる。

 

物も金もいる。

 

大き努力いるのであるぞ。

 

取違ひ多いのう。

 

 

秋の巻、第三帖(七四五)

 

霊界での現れは同じであっても、

現実界に現れる時は違ふことあるぞ。

 

それはモノが異なるからぞ。

 

二二はもとのキぞ。

 

ナルトとはその現れのはたらき。

 

 

 

727>744

夏の巻、第十帖(七二七)

 

過去も未来も中今(ナカイマ)。

 

神も人間と同じで、弥栄して行くぞ。

 

悪いくせ直さねば いつ何時までたっても自分に迫ってくるもの変らんぞ。

 

おかげないと不足申してゐるが、

悪いくせ、悪い内分を変へねば百年祈りつづけてもおかげないぞよ。

 

理屈なしに子は親を信ずるぞ。

 

その心で神に対せよ。

 

神が親となるのぢゃ。

 

目と口から出るもの、目の光りと声とは、

実在界にも実力もってゐるのであるぞ。

 

力は体験通して出るのであるぞ。

 

 

秋の巻、第二帖(七四四)

 

人民は土でつくったと申せば、

総てを土でこねてつくり上げたものと思ふから、

神と人民とに分れて他人行儀になるのぞ。

 

神のよろこびで土をつくり、それを肉体のカタとし、

神の歓喜を魂としてそれにうつして、

神の中に人民をイキさしてゐるのであるぞ。

 

取り違ひせんように致しくれよ。

 

親と子と申してあろう。

 

木の股や土から生れたのではマコトの親子ではないぞ。

 

世界の九分九分九厘であるぞ。

 

あるにあられん、さしも押しも出来んことがいよいよ近うなったぞ。

 

外は外にあり、内は内にあり、

外は内を悪と見、内は外を悪として考へるのであるが、

それは善と悪でないぞ。

 

内と外であるぞ。

 

外には外のよろこび、内には内のよろこびあるぞ。

 

二つが和して一となるぞ。

 

一が始めぞ、元ぞ。

 

和して動き、動いて和せよ。

 

悪を悪と見るのが悪。

 

 

 

728>743

夏の巻、第十一帖(七二八)

 

カタは形をもたねばならん。

 

念は語ることによって現れるのぢゃ。

 

ゝが無なればなる程〇は有となるであるぞ。

 

このことよく判りて下されよ。

 

肚の中のゴモクすてるとよくわかる。

 

 

秋の巻、第一帖(七四三)

 

同じ神の子でも本家と分家とあるぞ。

 

本家は人間ぢゃ。

 

分家は動植物ぢゃ。

 

本家と分家は神の前では同じであるが、位置をかへると同じでないぞ。

 

三十年で世の立替いたすぞ。

 

これからは一日ましに世界から出て来るから、

如何に強情な人民でも往生いたすぞ。

 

神は喜びであるから、

人の心から悪を取り除かねば神に通じないぞと教へてゐるが、

それは段階の低い教であるぞ。

 

大道でないぞ。

 

理屈のつくり出した神であるぞ。

 

大神は大歓喜であるから悪をも抱き参らせてゐるのであるぞ。

 

抱き参らす人の心に、マコトの不動の天国くるぞ。

 

抱き参らせば悪は悪ならずと申してあろうが。

 

今迄の教は今迄の教。

 

 

 

729>742

夏の巻、第十二帖(七二九)

 

キがもとと申してあろうがな。

 

人民は総てのもののキいただいて成長してゐるのであるぞ。

 

キ頂けよ。

 

横には社会のキを、縦には神の気を、悪いキを吐き出せよ。

 

よい気 養って行けよ。

 

【見分ける鏡与へてある】でないか。

 

道わからねば人にきくであろうが。

 

判らんのに判った顔して歩き廻ってゐてはならん。

 

人にたづねよ。

 

これと信ずる人にたづねよ。

 

天地にたづねよ。

 

神示にたづねよ。

 

 

夏の巻、第二十五帖(七四二)

 

二十二のように知らすぞ。

 

神の仕組、間違ひなし。

 

どしどしと運べよ。

 

三月八日、ひつく神。

(夏の巻了)

 

 

 

730>741

夏の巻、第十三帖(七三〇)

 

ウとムは相たがいに相反するのであるが、これが一つになって動く。

 

ウム組み組みてと、申してあろうがな。

 

今の人民の智では中々解けん。

 

ウの中心はム、ムの廻りはウであるぞ。

 

中心は無限、周辺は有限であること知れよ。

 

 

夏の巻、第二十四帖(七四一)

 

すべて世の中の出来ごとはそれ相当に意義あるのであるぞ。

 

意義ないものは存在ゆるされん。

 

それを人間心で、

邪と見、悪と感ずるから、狭い低い立場でゐるから、

いつまでたってもドウドウめぐり。

 

それを毒とするか薬とするかは各々の立場により、考へ方や、処理方法や、

いろいろの運び方によってしるのであるから、心せねばならんぞ。

 

「今」に一生懸命になりて下されよ。

 

三月三日、ひつく神。

 

 

 

731>740

夏の巻、第十四帖(七三一)

 

上にたつ程働かねばならん。

 

働いても力はへらん。

 

働くにはキ頂かねばならん。

 

キから力生れるのであるぞ。

 

働くと申して動くばかりでないぞ。

 

動かんのも働き、動くのも働き、よく心得よ。

 

よせては返し、よせては返し生きてゐるのであるぞ。

 

始の始と始が違ふぞ。

 

後になるほどよくなるぞ。

 

終りの中に始めあるぞ。

 

祈り、考へ、働きの三つ揃はねばならん。

 

 

夏の巻、第二十三帖(七四〇)

 

無限のものと、有限のものと、ムとウとをまぜまぜにして考へるから、

人民の頭は兎角ウになりがちぢゃぞ。

 

慾、浄化せよ。

 

 

 

732>739

夏の巻、第十五帖(七三二)

 

生めば生む程、自分新しくなり成り、大きくなる。

 

人間は大神のウズの御子であるから親のもつ、新しき、古きものが

そのままカタとして現れゐて、弥栄えてゐる道理ぢゃ。

 

人間の総てに迫り来るもの、総てを喜びとせよ。

 

努力せよ。

 

モノ喜ばせばモノは自分の喜びとなり、自分となる。

 

心の世界は無限に拡がり、生長するのであるぞ。

 

神にとけ入って宇宙大に拡がるのであるぞ。

 

神と共に大きくなればなるほど、喜び大きくなるのである。

 

一神説いて多神説かんのもかたわ、

多神説いて一神説かんのもかたわ、

一神則多神則汎神である事実を説いてきかせよ。

 

 

夏の巻、第二十二帖(七三九)

 

つくり主とつくられるものとでは無限にはなれて行くのぢゃ。

 

和ないぞ。和のないところ天国ないぞ。

 

こんな判りきったこと、何故にわからんのぢゃ。

 

尻の毛まで抜かれてゐると申してあろう。

 

早うめさめよ。

 

悪の道、教にまだ迷うて御座るが、早うめざめんと間に合はんぞ。

 

 

 

733>738

夏の巻、第十六帖(七三三)

 

人民は神のいれものと申してあろう。

 

神のゝと人間のゝと通じて居ればこそ呼吸するのぢゃ。

 

ゝとゝと通じて居ればそれでよいのぢゃ。

 

神のゝと人民のゝと通じて居るならば、

神の〇と人民の〇と同じようにしておかねばならんと申すのは、

人間の誤りやすい、いつも間違ひ起すもとであるぞ。

 

神の〇と人間の〇と同じようにしておくと思うて、

三千年の誤りしでかしたのぢゃ。

 

ゝとゝと結んでおけば後は自由ぢゃ。

 

人民には人民の自由あるぞ。

 

神のやり方と自ら違ふところあってよいのぢゃ。

 

天の理と人の理とは

同じであって違ふのざと知らしてあろう。

 

心得よ。

 

 

夏の巻、第二十一帖(七三八)

 

始めは形あるものを対象として拝むもよいが、

行きつまるのは目に見える世界のみに囚はれてゐるからぞ。

 

タテのつながりを見ないからであるぞ。

 

死んでも自分は生きてゐるのであるぞ。

 

大我に帰したり、理法にとけ入ったりして自分と云ふもの無くなるのでないぞ。

 

霊界と霊と、現界と現身(うつしみ)とのことはくどう説いてあろうが。

 

神示よめよめ。

 

大往生の理(ミチ)、弥栄に体得出来るのであるぞ。

 

霊と体と同じであると申しても、人間の世界では別々であるぞ。

 

内と外、上と下であるぞ。

 

取りちがいせんようして下されよ。

 

 

734>737

夏の巻、第十七帖(七三四)

 

神の姿は総てのものに現われてゐるぞ。

 

道ばたの花の白きにも現われてゐるぞ。

 

それを一度に、すべてを見せて、のみこませてくれと申しても判りはせんぞ。

 

判るところから、気長に神求めよ。

 

総ては神から流れ出てゐるのであるから、

神にお願ひして実行しなければならん。

 

この判り切った道理、おろそかにして御座るぞ。

 

そこに天狗出てゐるのぞ。

 

 

夏の巻、第二十帖(七三七)

 

人民の智の中に現われてくるときは、もはや大神ではないぞ。

 

神であるぞ。

 

原因の原因は中々見当とれん。

 

 

735>736

夏の巻、第十八帖(七三五)

 

自分が自分生むのであるぞ。

 

陰と陽とに分れ、更に分れると見るのは、

人間の住む次元に引下げての見方であるぞ。

 

陰陽分れるのでないこと、もとのもとの、もとの誠の弥栄知れよ。

 

 

夏の巻、第十九帖(七三六)

 

その人その人によって、食物や食べ方が少しづつ違ふ。

 

身体に合わんもの食べても何もならん。

 

かえって毒となるぞ。

 

薬、毒となることあると気つけてあろうが。

 

只歩きまわってゐるだけではならん。

 

ちゃんとめあてつくって、よい道 進んで下されよ。

 

飛行機あるに馬に乗って行くでないぞ。

 

額に先づ気あつめて、ハラでものごとを処理せねばならんぞ。

 

形ある世界では形の信仰もあるぞ。

 

偶像崇拝ぢゃと一方的に偏してはマコトは判らんぞ。