まぜまぜ(^^♪ひふみ神示 その2

ブースカ明日香さんを真似て書いてみました(^^) スマホでしたら、横画面にすると見やすいかと思います。 5/11改題しました。

まぜまぜ 八二六~八四九

ひふみ神示 まぜまぜの第八二六帖~第八四九帖

 

 

ひふみ神示(補巻)月光の巻

全六十二帖・通し番号(七八八)~(八四九)のうち(八二六)~(八四九)

自  昭和三十三年十二月二十五日

至  昭和三十四年 三月  二日

 

 

826>849

月光の巻、第三十九帖(八二六

 

何ごとが起ってきてもそなたは先づよろこべよ。

 

それが苦しいことでも、かなしいことでも喜んで迎へよ。

 

喜ぶ心は喜び生むぞ。

 

人民よろこべば神よろこぶぞと申してあろが、天地はれるぞ。

 

輝くぞ。

 

そなたは先ばかり見てゐるぞ。

 

足で歩くのぢゃ。

 

足もとに気つけねばならんぞよ。

 

そなたは自分ひとりで勝手に苦しんで御座るなれど、みなが仲よう相談なされよ。

 

相談結構ぢゃなあ。

 

相談して、悪いことは気つけ合って進んで下されよ。

 

 

月光の巻、第六十二帖(八四九

 

そなたは現実世界のことばかりより判らんから、

現実のことばかり申して、一に一たす二だとのみ信じてゐるが、

現実界ではその通りであるが、それが平面の見方、考へ方と申すもの、

いくら極めても進歩も弥栄もないのぢゃ。

 

一に一たす一の世界、一に一たす無限の世界、

超現実、霊の世界、立体の世界、立立体の世界のあることを体得せねばならんぞ。

 

そなたは心をもって居ろうがな。

 

心があれば心の属する世界のある道理は判るであろうが。

 

心で描いて、心で先づつくり出してから行為することも、

その順序も判るであろうがな。

 

心のうごきが先で、肉体がその後でうごくことも判って居ろうがな。

 

心の世界にないものは物質の世界にない道理も判って居ろうがな。

 

何故に迷ふのぢゃ。

 

霊界が主で現界が従であること、判って下されよ。

 

逆立してそなた自身で苦しんでゐること、早う得心して、

うれしうれしで暮して下されよ。

 

三月三日。

(月光の巻了)

 

 

827>848

月光の巻、第四十帖(八二七

 

判らんことは神示にきくがよいぞ。

 

遠慮いらん。

 

そなたは一足飛びに二階に上がりたい気持がぬけない。

 

何事も一段ずつ、一歩づつ進まねばならん。

 

それより他に進み方はないのぢゃぞ。

 

先づそなたの中にゐるけだものを言向け合さねばならんぞ。

 

よく話し、教へ、導かねばならん。

 

けものを人間と同じにしようとしてはならん。

 

けものはけものとして導かねばならん。

 

金は金。

 

鉛は鉛ぞ。

 

鉛を金にしようとしてはならん。

 

鉛は鉛として磨かねばならんぞ。

 

浄化とはそのこと。

 

世は七度の大変り、いよいよの段階に入ったら、

何が何だか、われよしの人民にはいよいよ判らなくなり、

あせればあせる程ふかみに落ち込むぞ。

 

心の窓を大きくひらいて、小さい我の慾をすてると、遠くが見えてくるのぢゃ。

 

見えたら先づ自分の周囲に知らせねばならん。

 

知らすことによって次の道がひらけてくるのぢゃ。

 

自分だけではうれしうれしとならん。

 

うれしくないものは弥栄しないぞ。

 

冬になったら冬ごもりぞ。

 

死ぬ時には死ぬのが弥栄ぞ。遊ぶ時は遊ぶがよいぞ。

 

コト=言(光透)と、時と、その順序さへ心得て御座れば、

何をしても、何を話しても、何を考へてもよいのぢゃ。

 

 

月光の巻、第六十一帖(八四八

 

そなたの苦労は取越し苦労。

 

心くばりは忘れてならんなれど、取越し苦労、過ぎ越し苦労はいらん。

 

そうした苦労は、そうした霊界をつくり出して、自分自身がいらぬ苦労をするぞ。

 

何ごとも神にまかせよ。

 

そなたはまだ神業の取違ひして御座るぞ。

 

そなたの現在与えられてゐる仕事が神業であるぞ。

 

その仕事をよりよく、より浄化するよう行じねばならんぞ。

 

つとめた上にもつとめねばならん。

 

それが御神業であるぞ。

 

そなたはそなたの心と口と行が違ふから、違ふことが次から次へと折り重なるのぢゃ。

 

コト正して行かねばならんぞ。

 

苦を楽として行かねばならん。

 

苦と心するから苦しくなるのぢゃ。

 

楽と心すれば楽と出てくるのぢゃ。

 

ちょっとの心の向け方、霊線のつなぎ方ぞ。

 

そなたは悪人は悪人ぢゃ、

神として拝めとは無理ぢゃと申してゐるが、

一枚の紙にも裏表あるぞ。

 

そなたはいつも裏ばかり見てゐるから、そんなことになるのぢゃ。

 

相手を神として拝めば神となるのぢゃ。

 

この世は皆神の一面の現われであるぞ。

 

 

828>847

月光の巻、第四十一帖(八二八

 

そなたはいつも深刻な顔をして考へ込んでゐるが、

考へ方にも幾通りも御座るぞ。

 

考へは迷ひと申してあるのは、そなたのような場合ぞ。

 

そなたは苦に向ひ苦にかったつもりで、苦を楽しんで御座るが、

苦は曲ることぞと知らしてあろうが。

 

苦をつくり出してはならんぞ。

 

苦を楽しむより、楽をたのしむ心高いぞと知らしてあろう。

 

苦しむと曲り、楽しむとのびるぞ。

 

二月十日。

 

 

月光の巻、第六十帖(八四七

 

そなたは自分の力を人に見せようとしてゐるが、無邪気なものぢゃのう。

 

自分の力がかくせぬようでは、頭に立つこと出来んぞ。

 

何も彼も出して了ったのでは味がなくなるぞ。

 

そなたはよく祈る。

 

祈ることは結構であるなれど、祈るばかりでものごと成就せんぞ。

 

為すには先づ祈らねばならんが、そなたはそなたの神にのみ祈ってゐるぞ。

 

為すのは己であるから、己にゐのらねばならんぞ。

 

己に祈りた後、己が為さねばならんぞ。

 

乳房与えられても自分で吸はねば自分の身にはつかぬ道理ぢゃ。

 

だが、為したのみでは未だ足らんぞ。

 

時々は省みなければならんぞ。

 

そなたは形や口先ばかりでものを拝んでゐるが、

心と行と口と三つそろはねばならん。

 

三つ揃ふて拝むならば、どんなものでも与へられるのぢゃ。

 

拝む所へ ものは集まってくる。神も集まってくる。

 

足らぬものなくなるぞ。

 

余ることなくなって、満たされるのが まことの富ぢゃ。

 

清富ぢゃ。

 

 

829>846

月光の巻、第四十二帖(八二九

 

未来にもえることが現在に生きることであるぞ。

 

そなたは現在に生きる努力が足らん。

 

夢ばかり追ってゐてはうたかたぢゃ。

 

そなたは先祖に対する考へ方が間違ってゐるぞ。

 

先祖はそなたではないか。

 

地下にあるそなたの根が先祖でないか。

 

根のない草木はすぐ枯れる道理ぢゃ。

 

先祖は家をついだ兄がまつってゐるから、

分家した自分は先祖はまつらいでもよいのぢゃと申して御座るなれど、

よく考へて下されよ。

 

根から芽が出て幹となり枝が栄えてゐるのと同様ぞ。

 

枝には根はいらんと申すのと同じような間違ひであるぞ。

 

分家しても先祖まつらねばならん。

 

先祖をおろそかにするでないと、気付けてあるでないか。

 

 

月光の巻、第五十九帖(八四六

 

一度申したこと何処迄もつらぬくそなた結構ぞ。

 

なれども囚われているぞ。

 

この神はちと大きな、今迄にない大変をいたすのであるから、

あまり小さく囚われていると判らんことになってくるぞ。

 

固まるときには一度に固まらねばならん。

 

昨日は昨日、今日は今日ぞ。

 

そなたは動機が善ならば失敗は薬と、われの都合のよいように、

われとわれを弁解して御座るなれど、弁解したのでは薬にならん。

 

毒となることあるぞ。

 

省みよ。

 

そなたは何神様でも仏でも、何でも彼でも拝んでいるが、

その順序と区別がよく判ってゐないぞ。

 

判らずにめくらめっぽうに拝んではならん。

 

心得なされよ。

 

そなたは忙しい忙しい、神示よむ間もないと申してゐるが、

忙しいのは神のめぐみであるぞ。

 

よどんだ水はくさるのぢゃ。

 

忙しい中にこそ、神示よむ時があるのぢゃ。

 

逃げ道をつくってはならん。

 

 

830>845

月光の巻、第四十三帖(八三〇

 

そなたはまだ方便をつかってゐるが、方便の世はすんでゐるのぞ。

 

方便の教とは横の教、いろはの教、平面の教のことぞ。

 

仏教もキリスト教も回教もみな方便でないか、教はみな方便ぢゃ。

 

教ではどうにもならん。

 

ぎりぎりの世となってゐるのぞ。

 

理(ミチ)でなくてはならん。

 

変らぬ太道でなくてはならんぞ、

【方便】の世はすんで【ほうべん】の世となり、

そのほうべんの世もやがて終るぞと知らしてあろうが。

 

理とは三界を貫く道のことぞ。

 

字宙にみちみつゝのあり方ぞ。

 

法則ぞ。

 

秩序ぞ。

 

神の息吹きぞ。

 

弥栄ぞ。

 

喜びぞ。

 

判りたか。

 

 

月光の巻、第五十八帖(八四五

 

春が来れば草木に芽が出る。

 

花が咲く。

 

秋になれば葉が枯れるのぢゃ。

 

時節よく気付けて取違ひせんよういたしくれよ。

 

時節程結構なものないが、又こわいものもないのであるぞ。

 

丁度 呼吸のようなもので一定の順序あるのぞ。

 

吸の極は呼となり、呼の極は吸となるぞ。

 

これが神の用(ハタラキ)であるから、

神の現われの一面であるから、神も自由にならん。

 

この神も時節にはかなわんのであるのに、

そなたは時々この時節を無視して自我で、

或ひは時節を取違ひして押しまくるから失敗したり怪我したりするのぢゃぞ。

 

素直にしておれば楽に行けるようになってゐるぞ。

 

時まてばいり豆にも花さくのであるぞ。

 

水が逆に流れるのであるぞ。

 

上下でんぐり返るのであるぞ。

 

上の人が青くなり、下の人が赤くなるのであるぞ。

 

取りちがひないように理解して下されよ。

 

 

831>844

月光の巻、第四十四帖(八三一

 

この道に入ると損をしたり、病気になったり、怪我をすることがよくあるなれど、

それは大難を小難にし、又めぐりが一時に出て来て、

その借銭済しをさせられてゐるのぢゃ。

 

借りたものは返さねばならん道理ぢゃ。

 

損もよい、病気もよいぞと申してあろうが。

 

此処の道理もわきまへず理屈申してゐるが、

そんな人民の機嫌とりする暇はなくなったから、

早う神心になって下されよ。

 

そなたは祈りが足らんぞ。

 

祈りと申すのは心でゐのり願ふことでないそ。

 

実行せねばならん。

 

地上人は物としての行動をしなければならんぞ。

 

口と心と行と三つ揃はねばと申してあること、忘れたか。

 

 

月光の巻、第五十七帖(八四四

 

そなたは失業したから仕事を与えてくれと申してゐるが、

仕事がなくなってはおらんぞ。

 

いくらでもあるでないか。

 

何故に手を出さんのぢゃ。

 

そなたはすぐ金にならねば食って行けない、

金にならぬ仕事は出来ぬ、自分はよいが妻子が可哀さうだから、

などと申してゐるが、

どんな仕事でも、その仕事にとけ込まねば、その仕事になり切らねばならんのに、

そなたは目の先の慾にとらわれ、慾になり切って、目の色を変えて御座るぞ。

 

それでは仕事にならん。

 

仕事は神が与えたり人が与えてくれるのでないぞ。

 

自分自身が仕事にならねばならん。

 

この道理さへ判れば、失業はないぞ。

 

自分が仕事ぢゃからのう。

 

 

832>843

月光の巻、第四十五帖(八三二

 

マコトに祈れと申してあろう。

 

マコトとは 〇(マ)123456789(コ)10(ト)のことと申してあろう。

 

只心でゐのるばかりでは、自分で自分をだますこととなるのぢゃ。

自分をいつわることは神をいつわることとなるのぢゃ。

 

マコトでゐのれば何事もスラリスラリとかなふ結構な世ぞ。

 

 

月光の巻、第五十六帖(八四三

 

そなたは何時もあれもよいらしい、これもよいようだと迷って、

迷ひの世界をうみ出し、自分で自分を苦しめて、気の毒よなあ。

 

これと一応信じたらまかせきれよ。

 

梶をはなして鳴門の渦の中にまかせきれよ。

 

まかせきるとひらけてくるのぢゃ。

 

悟れたようでゐて、そなたが悟り切れんのはまかせきらんからぞ。

 

そなたはいつも孤独、そなたの不運は孤独からぢゃ。

 

友をつくりなさい、

友つくることは己をつくることと申してあろうが。

 

友つくることは新しき世界をつくることぞ。

 

一人の世界は知れたものぞ。

 

一人ではマコトの道を生きては行かれんぞ。

 

友と申しても人間ばかりではないぞ。

 

山も友、川も友、動物も植物も皆友ぞ。

 

大地も大空も皆友となるぞ。

 

何も彼も皆友ぢゃ、皆己ぢゃ。

 

皆々己となれば己はなくなるぞ。

 

己なくなれば永遠に生命する無限の己となるのぢゃ。

 

御神前で拝むばかりでは狭いぞ。

 

野菜拝めば野菜が、魚拝めば魚が己となるのぢゃ。

 

拝むことは和すこと。

 

和すことが友つくる秘訣ぞ。

 

友を己とすることは、己を友とすることぢゃ。

 

友にささげることぢゃ。

 

親は子にささげるからこそ、子が親となるのぢゃ。

 

判りたか。

 

赤ん坊のお尻をふいてやることもあるであろうがな。

 

そなたが赤ん坊と同じであったら出来ない芸当ぞ。

 

お尻を出すものがあっても、決して怒ってはならん。

 

子のお尻と思って きれいにふいてやれよと申してあろうが。

 

お尻を持ち込まれるのは、持ち込まれるだけのわけがあるからぞ。

 

利子は後から支払えばよいと、そなたは思ってゐるが、

先に支払ふこともあるのであるぞ。

 

先にお尻をふかねばならんことも、世が迫ってくると出てくるのぢゃ。

 

その代り、後では神がそなたのお尻をきれいにふいて下さるぞ。

 

ぶつぶつ申さずに勇んでやって下されよ。

 

そなたは他にものを与えることに心せねばならんぞ。

 

与えることは頂くことになるのであるから、

与えさしてもらう感謝の心がなければならんぞ。

 

強く押すと強く、弱く押すと弱くはねかえってくること、よく知って居ろうがな。

 

自分のものと云ふものは何一つないこと、よく判って居る筈ぢゃ。

 

 

833>842

月光の巻、第四十六帖(八三三

 

考えてゐては何も成就せんぞ。

 

神界と交流し、神界に生き、神界と共に弥栄すればよいのぢゃ。

 

人間だけの現実界だけで処理しようとするのが今迄の考えぢゃ。

 

今迄の考えでは人間の迷ひぞと申してあろうがな。

 

迷ひを払って真実に生きよ。

 

みたましづめぢゃ。

 

加実しづめぢゃ。

 

そなたは信仰のありかたを知らんぞ。

 

長い目で永遠の立場からの幸が、歓喜がおかげであるぞ。

 

局部的一時的には いやなことも起ってくるぞ。

 

天地を信じ、自分を知り、人を理解する所にこそ まことの弥栄あるぞ。

 

だますものにはだまされてやれよ。

 

一先づだまされて、だまされんように導いて下されよ。

 

そなたはそんな場合に我を出すからしくじるのぞ。

 

だまされてやろうとするからカスが残るのぞ。

 

まことにだまされる修業が大切ぢゃなあ。

 

 

月光の巻、第五十五帖(八四二

 

そなたはよく肚をたてるが、肚がたつのは慢心からであるぞ。

 

よく心得なされよ。

 

下肚からこみあげてくる怒りは大きな怒りであるから、

怒ってよいのであるなれど、

怒りの現わし方を出来るだけ小さく、出来るだけ清く、

出来るだけ短かくして下されよ。

 

怒りに清い怒りはないと、そなたは思案して御座るなれど、

怒りにも清い怒り、澄んだ怒りあるぞ。

 

三月三日。

 

 

そなたはいつも自分の役に不足申すくせがあるぞ。

 

そのくせ直して下されよ。

 

長くかかってもよいから、根の音(ね)からの改心結構ぞ。

 

手は手の役、足は足、頭は頭の役、それぞれに結構ぞ。

 

上下貴賎ないこと、そなたには判ってゐる筈なのに、早う得心して下されよ。

 

そなたはこの神ときわめて深い縁があるのぢゃ。

 

縁あればこそ引きよせて苦労さしてゐるのぢゃ。

 

今度の御用は苦の花咲かすことぢゃ。

 

真理に苦の花さくのであるぞ。

 

因縁のそなたぢゃ、一聞いたなら十がわかるのぢゃ。

 

云われんさきに判ってもらわねばならんぞ。

 

知らしてからでは味ないぞ。

 

十人並ぞ。

 

今度の御用は千人力、十人並では間に合わんぞ。

 

人間の目は一方しか見えん。表なら表、右なら右しか見えん。

 

表には必ず裏があり、左があるから右があるのぢゃ。

 

自分の目で見たのだから間違いないと、

そなたは我を張って居るなれど、それは只一方的の真実であるぞ。

 

独断は役に立たんぞと申してあろうが。

 

見極めた上にも見極めねばならんぞ。

 

霊の目も一方しか見えんぞ。

 

霊人には何でも判ってゐると思ふと、大変な間違ひ起るぞ。

 

一方と申しても霊界の一方と現界の一方とは、一方が違ふぞ。

 

そなたは中々に立派な理屈を申すが、理屈も必要ではあるが、

あわの如きもの、そなたの財産にはならんぞ。

 

体験の財産は死んでからも役にたつ。

 

ざんげせよと申しても、人の前にざんげしてはならんぞ。

 

人の前で出来るざんげは割引したざんげ。

 

割引したざんげは神をだまし、己をだますこととなるぞ。

 

悔ひ改めて下され。

 

深く省みて下され。

 

深く恥ぢおそれよ。

 

心して慎しんで下されよ。

 

直ちによき神界との霊線がつながるぞ。

 

霊線つながれば、その日その時からよくなってくるぞ。

 

気持が曲ったら霊線が切り替えられる。

 

 

834>841

月光の巻、第四十七帖(八三四

 

八のつく日に気つけと申してあろう。

 

八とはひらくことぞ。

 

ものごとはひらく時が大切ぢゃ。

 

第一歩の前に〇歩があるぞ。

 

〇歩が大切ぞ。

 

心せよ。

 

そなたは行き詰って苦しんで御座るなれど、

それは間違った道を歩んで来たからぞ。

 

行き詰りは有りがたいぞ。

 

省みる時を与えられたのぢゃ。

 

ミタマ磨きさえすれば何ごともハッキリとうつりて、

楽に行ける道がちゃんとつくってあるのぢゃ。

 

その人その人に応じて如何ようにでも展け行くぞ。

 

犬猫でさえ楽々と栄えてゐるでないか。

 

洗濯次第でどんな神徳でも与えるぞ。二月十八日。

 

 

月光の巻、第五十四帖(八四一

 

頭を下げて見なされ、流れて来るぞ。

 

頭も下げず低くならんでゐては流れては来ないぞ。

 

神のめぐみは淡々とした水のようなものぞ。

 

そなたは頭が高いぞ。

 

天狗ぞ。

 

その鼻まげて自分のにほひをかいで見るがよい。

 

そなたは左に傾いてゐるぞ。

 

左を見なければならんが、片よって歩いてはならんぞ。

 

そなたは右を歩き乍ら、それを中道と思って御座るぞ。

 

そなたは平面上を行ってゐるから、

中道のつもりで、他に中行く道はないと信じてゐるが、それでは足らんのう。

 

立体の道を早うさとりなされよ。

 

【正中の大道】あるのであるぞ。

 

左でもなく右でもなく、うれしうれしの道あるぞ。

 

左も右も上も下も相対の結果の世界ぢゃ。

 

原因の世界に入らねばならん。

 

平面より見れば相対あるなれど、

立体に入り更に複立体、複々立体、立立体の世界を知らねばならんぞ。

 

相対では争ひぢゃ。

 

いくさぢゃ。

 

真の世界平和は今のやり方、考へ方では成就せんぞ。

 

三千世界和平から出発せねばならんぞ。

 

そなたは神示をよくよんでゐるが、それだけでは足らん。

 

神示を肚に入れねばならん。

 

つけ焼刃ではならん。

 

神示を血とし生活とすれば、何事も思ふ通りスラリスラリと面白い程 栄えて来るぞ。

 

思ふように運ばなかったら省みよ。

 

己が己にだまされて、己のためのみに為してゐることに気づかんのか。

 

それが善であっても、己のためのみならば死し、善のための善ならば弥栄えるぞ。

 

善にも外道の善あるぞ。

 

心せよ。

 

神示見て居らぬとびっくりが出てくるぞ。

 

この世始まってないことが出てくるのぢゃ、世界の片はし八まべからぞ。

 

判りたか。

 

そなたは神体を偶像と申して御座るが、それはそなた自身が偶像なるが故であるぞ。

 

礼拝を忘れ、祈りをわすれることは神をわすれることぢゃ。

 

そなたの住む段階では、祈り畏こみ謹んで実践しなければならんぞ。

 

拝まんでも拝んでゐる境地はなかなかぢゃなあ。

 

そなたはわれが助かろうとするから助からんのぢゃ。

 

世界はこの世ばかりではないことを、よく得心して下されよ。

 

我をすてて素直になされよ。

 

三千年の秋が来てゐるのであるぞ。

 

 

835>840

月光の巻、第四十八帖(八三五

 

世界中を泥の海にせねばならんところまで、

それより他に道のない所まで押しせまって来たのであるが、

尚一厘のてだてはあるのぢゃ。

 

大神様におわび申してすっかり心を改めて下されよ。

 

神々さまも人民さまも心得ちがひ多いぞ。

 

泥の海となる直前にグレンとひっくりかえし、びっくりの道あるぞ。

 

 

月光の巻、第五十三帖(八四〇

 

これほどことわけて申しても得心出来ないのならば、

得心の行くまで思ふままにやりて見なされよ。

 

そなたは神の中にゐるのであるから、

いくらあばれ廻っても神の外には出られん。

 

死んでも神の中にゐるのであるぞ。

 

思ふさまやりて見て、早う得心改心いたされよ。

 

回心して仕事嘉言と仕へまつれよ。

 

結構ぢゃなあ。

 

そなたは自分は悪くないが周囲がよくないのだ、

自分は正しい信仰をしてゐるのだから、

家族も知友も反対する理由はない、

自分は正しいが他が正しくないのだから、

正しくない方が正しい方へ従って来るべきだと申しているが、

内にあるから外から近よるのだと申してあろうが。

 

そなたは無低坑主義が平和の基だと申して、

右の頬を打たれたら左の頬をさし出して御座るなれど、

それは真の無抵坑ではないぞ。

 

よく聞きなされ、

打たれるようなものを そなたがもってゐるからこそ、

打たれる結果となるのぢゃ。

 

まことに磨けたら、まことに相手を愛してゐたならば、

打たれるような雰囲気は生れないのであるぞ。

 

頬をうたれて下さるなよ。

 

生れ赤児見よと知らしてあろうが。

 

 

836>839

月光の巻、第四十九帖(八三六

 

そなたの用意が足らんぞ。

 

日々の人間の御用を、神の御用と和すように、

神の御用が人の御用、人の御用が神の御用となるのがまことの道であり、

弥栄の道であり大歓喜であるぞ。

 

いつでも神かかれるように神かかってゐるように、

神かかっていても、われにも他にも判らぬようになりて下されよ。

 

鍬とる百性が己をわすれ、大地をわすれ、鍬をわすれてゐる境地が、

まことのみたましづめであり、神かかりであるぞ。

 

そこらでなさる行も、それに到る一つの道ではあるが、それのみではならんぞ。

 

気つけ合ってよきに進んで下されよ。

 

そなたが歩むのぢゃ。

 

道は自分で歩まねばならんぞ。

 

他人におんぶしたり、他人が歩かしてくれるのではないぞ。

 

そなたの力で、そなた自身の苦労で人を助けねばならんぞ。

 

人を助ければその人は神が助けるのであるぞ。

 

この道理なぜに判らんのぢゃ。

 

人を助けずに我を助けてくれと申しても、それは無理と申すもの。

 

神にも道はまげられんぞ。

 

 

月光の巻、第五十二帖(八三九

 

そなたはつまらんことにいつも心を残すから つまらんことが出てくるのであるぞ。

 

心を残すと云うことは、霊界とのつながりがあることぞ。

 

つまらん霊界にいつ迄くっついてゐるのぢゃ。

 

何ごとも清めて下されよ。

 

清めるとは和すことであるぞ。

 

同じもの同士では和ではない。

 

違ったものが和すことによって新しきものを生むのであるぞ。

 

奇数と偶数を合せて、新しき奇数を生み出すのであるぞ。

 

それがまことの和であり清めであるぞ。

 

善は悪と、陰は陽と和すことぢゃ。

 

和すには同じあり方で、例へば五と五との立場で和すのであるが、

位に於ては陽が中心であり、陰が外でなければならん。

 

天が主であり地が従でなければならん。

 

男が上で女が下ぢゃ、これが和の正しきあり方ぞ。

 

さかさまならんぞ。

 

これを公平と申すぞ。

 

口先ばかりでよいことを申すと悪くなるのぢゃ。

 

心と行が伴はねばならん。

 

判りきったこの道理が行はれないのは、

そなたをとり巻く霊の世界に幽界の力が強いからぢゃ。

 

そなたの心の大半を幽界的なもので占めてゐるからぞ。

 

己自身のいくさ まだまだと申してあろうがな。

 

このいくさ中々ぢゃが、正しく和して早う弥栄結構ぞ。

 

そなたのもつ悪いくせを治して下されよ。

 

そのくせ治すことが御神業ぞ。

 

自分で世界を建直すような大きこと申して御座るが、

そなたのくせを治すことが最も大切な御用でないか。

 

これに気がつかねば落第ぞ。

 

おそれてはならん。

 

おそれ生むからぞ。

 

喜べ、喜べ、喜べばよろこび生むぞ。

 

喜びは神ぢゃ。

 

神様御自身も刻々弥栄して御座るぞ。

 

故にこそ生長なされるのぢゃ。

 

人間も同様でなくてはならん。

 

昨日の自分であってはならん。

 

今の自分ぞ。

 

中今のわれに生きねばならん。

 

われにどんな力があったとて、我を出してはならんぞ。

 

我を出すと力なくなるぞ。

 

我を、大き我に昇華させよ。

 

大我にとけ入らねばならん。

 

大我にとけ入ったとて、小我がなくなるのではないぞ。

 

人おろがめよ。

 

物おろがめよ。

 

おろがむと自分の喜びとなり、拝まれたものも喜びとなるぞ。

 

うれしうれしとはそのことぞ。

 

 

837>838

月光の巻、第五十帖(八三七)

 

何も六ヶ敷いこと申すのではない。

 

自分の、内の自分を洗濯して明らかに磨けばよいのぢゃ。

 

内にあるものを浄化すれば、外から近づくものがかわって来る道理。

 

内の自分を洗濯せずにゐて、

きたないものが近づくとか、世の中がくらいとか不平申して御座るなれど、

そこにそなたの間違いがあるぞ。

 

木でも草でも中から大きくなって行くのぢゃ。

 

三千年に一度の時がめぐり来てゐるのであるぞ。

 

為せば成る時が来てゐるのぢゃ。

 

為さねば後悔ぞ。

 

時すぎて種まいても、くたびれもうけ。

 

そなたは世の中が悪いとか人がよくないとか申してゐるが、

すべては大神の肚の中にゐて、

一応 大神が許しなされて居ればこそ存在し、

いのちしてゐるのであるぞ。

 

悪くうつるのは心のかがみがくもってゐるからぞ。

 

悪い世の中、悪い人と申すことは、

神を悪く申し、神界が悪いのぢゃと申すのと同じであるぞ。

 

新しき世界には新しき【てんし(天詞)】【てんか】をこしらえねばならん。

 

このこと間違えるでないぞ。

 

珍らしき御型(方)が出て来てびっくりぢゃ。

 

びっくりしなければヒックリとはならんぞ。

 

神は今迄 化けに化けていたが、もう化けては居られん。

 

人民ももう化けては居られんぞ。

 

九分九厘までは化けて、がまんしてゐたなれど、

化けの世、方便の世、方便の教はすんだのぢゃ。

 

教では世は正されん。

 

教のつどいはつぶれて了うのぢゃ。

 

無理してはならん。

 

そなたの無理押しは よいことをわるく曲げるぞ。

 

 

月光の巻、第五十一帖(八三八

 

世界を一つにするのであるから、王は(秘答理)(ヒトリ)ぢゃ。

 

うごぎは二つとなるなれど、二つでないとうごかんのぢゃ。

 

キはキのうごき、ミはミのうごき、うごいて和すのぢゃぞ。

 

和すから弥栄ぢゃ。

 

和せば一つぢゃぞ。

 

キミとなるのぢゃ。

 

そなたは自分と他との境界をつくってゐるなれど、境界つくってはならんぞ。

 

境界をつくらずに、おのづからなる自他の別を生み出さねばならんぞ。

 

世界一家のやり方 間違えて御座るぞ。

 

それぞれのコト(言)のハ(葉)はあれど、

ミコト(実言)は一つと申して知らしてあろうがな。

 

大難は小難にすること出来るのであるが、無くすることは出来んぞ。

 

不足は不足をうむぞ。

 

そなたは口をつつしめよ。

 

そなたは一度 神をすてよ。

 

神にしがみついてゐるから、

小さい囚われた、ゆとりのない神を、そなたがつくり上げてゐるぞ。

 

信ずれば信ずる程 危ないぞ。

 

大空に向って大きく呼吸し、今迄の神をすてて心の洗濯をせよ。

 

神を信じつつ迷信におちてゐると申してあること、よく心得よ。

 

 

まぜまぜ 七九六~八二五

ひふみ神示 まぜまぜの第七九六帖~第八二五帖

 

 

ひふみ神示(補巻)月光の巻

全六十二帖・通し番号(七八八)~(八四九)のうち(七九六)~(八二五)

自  昭和三十三年十二月二十五日

至  昭和三十四年 三月  二日

 

 

796>825

月光の巻、第九帖(七九六)

 

気の合う者のみの和は和ではない。

 

色とりどりの組合せ、ねり合せこそ花さくぞ。

 

総てが神の子ぢゃ。

 

大神の中で弥栄ぞ。

 

大き心、広き心、長い心 結構。中々に合わんと申すなれど、

一つ家族でないか。

 

心得なされよ。

 

夫婦けんかするでない。

 

夫のみいかんのでない。

 

妻のみ悪いのでないぞ。

 

お互に己の姿を出し合ってゐるのぞ。

 

よく会得せよ。

 

判らんことが更に判らなくなるぞ。

 

ききたいことは何でもきけよ。

 

大グレ目の前。

 

アホになれよ。

 

一先づは月の代となるぞ。

 

ひっくり返り、ビックリぢゃ。

 

 

月光の巻、第三十八帖(八二五)

 

はじめの喜びは食物ぞ。

 

次は異性ぞ。

 

何れも大きな驚きであろうがな。

 

これは和すことによって起るのぞ。

 

とけ合ふことによって喜びとなるのぢゃ。

 

よろこびは神ぢゃ。

 

和さねば苦となるぞ。

 

かなしみとなるぞ。

 

先づ自分と自分と和合せよと申してあろうが。

 

そこにこそ神の御はたらきあるのぢゃ。

 

ぢゃがこれは外の喜び、肉体のよろこびぞ。

 

元の喜びは霊の食物を食ふことぞ。

 

その大きな喜びを与へてあるのに、何故 手を出さんのぢゃ。

 

その喜び、おどろきを何故に求めんのぢゃ。

 

何故に神示を食べないのか。

 

見るばかりではミにつかんぞ。

 

よく噛みしめて味はひて喜びとせんのぢゃ。

 

喜びが神であるぞ。

 

次には神との交わりぞ。

 

交流ぞ。

 

和ぞ。

 

そこには且って知らざりし おどろきと大歓喜が生れるぞ。

 

神との結婚による絶対の大歓喜あるのぢゃ。

 

神が霊となり花むことなるのぢゃ。

 

人民は花よめとなるのぢゃ。

 

判るであろうが。

 

この花むこはいくら年を経ても花よめを捨てはせぬ。

 

永遠につづく結びぢゃ。

 

結婚ぢゃ。

 

何ものにも比べることの出来ぬおどろきぞ。

 

よろこびぞ。

 

花むこどのが手をさしのべてゐるのに、何故に抱かれんのぢゃ。

 

神は理屈では判らん。

 

夫婦の交わりは説明出来まいがな。

 

神が判っても交わらねば、神ととけ合はねば真理は判らん。

 

なんとした結構なことかと人民びっくりする仕組ぞ。

 

神と交流し結婚した大歓喜は、死を越えた永遠のものぞ。

 

消えざる火の大歓喜ぞ。

 

これがまことの信仰、神は花嫁を求めて御座るぞ。

 

早う神のふところに抱かれて下されよ。

 

二月一日。

 

 

797>824

月光の巻、第十帖(七九七)

 

一はいくら集めても一ぢゃ。

 

二も三も四も五も同様ぞ。

 

〇にかえり、〇によって結ばれるのぢゃ。

 

〇がムスビぞ。

 

弥栄ぞ。

 

喜びぞ。

 

 

月光の巻、第三十七帖(八二四)

 

そなたのやることはいつも時が外れて御座るぞ。

 

餅つくにはつく時あるぞと知らしてあろうが。

 

時の神を忘れてはならんぞ。

 

春には春のこと、夏は夏のことぢゃ。

 

そなたは御神業ぢゃと申して、他に迷惑かけてゐるでないか。

 

そこから改めねばならん。

 

鼻つまみの御神業はないのであるぞ。

 

そなたはお先まっくらぢゃと申してゐるが、夜明けの前はくらいものぞ。

 

暗いやみの後に夜明けがくること判ってゐるであろうが、

神はすべてを見通しであるから、すぐのおかげは小さいぞ。

 

利子つけた大きなおかげを結構に頂いて下されよ。

 

 

798>823

月光の巻、第十一帖(七九八)

 

病むことは神から白紙の手紙を頂いたのぢゃと知らしてあろう。

 

心して読めよ。

 

ありがたき神からの手紙ぞ。

 

おろそかならん。

 

腹八分、二分は先づささげよ。

 

運ひらけるぞ。

 

病治るぞ。

 

 

月光の巻、第三十六帖(八二三)

 

行は、世界中の行、誰一人のがれるわけには行かんぞ。

 

めぐり果たしたものから、うれしうれしになる仕組。

 

そなたの心配 一応は無理ないなれど、

何処で、どんなことをしてゐても、みたま磨けてさへ居れば、心配なくなるぞ。

 

心配は、磨けて居らぬ証拠ぞ。

 

そなたはものに不足するとこぼして御座るなれど、

ものに不足するのは、心に足らぬ所があるからぞ。

 

心いたれば ものいたるぞ。

 

何ごとも神の申す通り素直になされよ。

 

素直結構ぢゃなあ。

 

 

799>822

月光の巻、第十二帖(七九九)

 

逃げ道つくってから追わねばならん。

 

そなたは相手の逃げ道をふさいで、ギュウギュウ追ひつめるから逆うらみされるのぢゃ。

 

逆うらみでも恨みは恨みの霊団をつくり出すぞ。

 

悪を抱けよ。

 

消化せよ。

 

浄化せよ。

 

何も彼も太神の許し給えるものなるが故に存在する。

 

そなたは神にこり固まってゐるぞ。

 

こり固まると動きのとれんことになる。

 

一度そなたのもつ神をすてるとよいぞ。

 

すてると掴めるぞ。

 

 

月光の巻、第三十五帖(八二二)

 

化物に化かされんよう、おかげ落さんようにして下されよ。

 

よいことを申し、よい行をしてゐても、よくない人があるのぢゃ。

 

よくないことも御用の一つではあるが、

そなたは未だそれを消化する程の所まで行ってゐないぞ。

 

小学生が大学生のまねしてはならん。

 

そなたはまだ慾があるぞ。

 

慾を、小さい自分ばかりの慾をすてなされ。

 

そしてまことの大深慾になりなされよ。

 

その気持さへ動いてくれば、何事も見事成就するぞ。

 

 

800>821

月光の巻、第十三帖(八〇〇)

 

木にも竹にも石にも道具にもそれぞれの霊が宿ってゐるのである。

 

人間や動物ばかりでなく、総てのものに宿ってゐるのである。

 

宿ってゐると云うよりは、霊と体とで一つのものが出来上がってゐるのである。

 

一枚の紙の裏表のようなもの、表ばかりのものもない。

 

裏ばかりのものもない道理。

 

数字にも文字にも それぞれの霊が宿って居り、

それぞれの能(ハタラキ)をしてゐるのであるぞ。

 

順序が判れば初段、和に徹すれば名人。

 

 

月光の巻、第三十四帖(八二一)

 

かみかかりはよしなされよ。

 

そなたは学に囚われて御座るぞ。

 

科学を越えて神の学に生きて下されよ。

 

そなたは自分で自分の首をしめるようなことをして御座るぞ。

 

自分で勝手に小さい自分の神をつくってゐるぞ。

 

一度その神をすてなされ、

固く抱きしめたり、とぢこめてゐるから判らんことに行きつまるのぢゃ。

 

判りたか。

 

我(が)と判らん我(が)を気つけなされよ、今一息と云ふところぞ。

 

 

801>820

月光の巻、第十四帖(八〇一)

 

流れ出たものは又元にかえると申しても、そのままでは帰られんのであるぞ。

 

天から降った雨が又天に昇るには、形をかえるであろうが、

この道理をわきまえんと、悪かみかかりとなるぞ。

 

それはそなたの自己慾から出てゐるぞ。

 

自己慾もなくてはならんが、段々浄化して行かねばならん。

 

浄化して大き自己の慾とせよ。

 

自分のみの慾となるから弥栄えんのぢゃ。

 

弥栄えんもの神の御心に逆行。

 

自分で判断出来ることを何故にきくのぢゃ。

 

神にきけば神に責任をきせるのと同様ぞ。

 

人間の悪いくせぞ。出直せよ。

 

 

月光の巻、第三十三帖(八二〇)

 

まことから出たことは誰のねがひも同様。

 

心配せずにドシドシと進めて下されよ。

 

若し行き詰ったら省みよ。

 

行き詰った時は大きくひらける時ぢゃ。

 

ぢゃと申して ひとこころで急ぐでないぞ。

 

急ぐと道が見えなくなってくるぞ。

 

そなたの考へて御座ることは自己中心でないか。

 

われよしの小さいわれよしではならん。

 

大きなわれよし結構ぞ。

 

ぎせいになることを尊いことぢゃと申してゐるが、ぎせいに倒れてはならん。

 

己を生かす為に他を殺すのもいかん。

 

己殺して他をいかすのもいかん。

 

大の虫を生かすため、小の虫を殺すことはやむを得んことぢゃと申したり、

教へたりしてゐるが、それもならんぞ。

 

総てを殺さずに皆が栄える道があるでないか。

 

何故に神示を読まぬのぢゃ。

 

 

802>819

月光の巻、第十五帖(八〇二)

 

与えることは頂くことぢゃと申しても、度をすぎてはならん。

 

過ぎると、過ぎるものが生れて、生んだそなたに迫って来るぞ。

 

 

月光の巻、第三十二帖(八一九)

 

世界連邦と申してゐるが、地上世界のみの連邦では成就せん。

 

片輪車で、いつまでたってもドンテンドンテンぢゃ。

 

心して下されよ。

 

何故に霊界、神界をひっくるめた三千世界連邦としないのか。

 

いらぬ苦労はせぬものぢゃ。

 

 

803>818

月光の巻、第十六帖(八〇三)

 

五十九柱と申してあるが、その中の九柱はかくれた柱ぢゃ。

 

 

f:id:satonory4949:20200509160051g:plainf:id:satonory4949:20200509160109g:plainf:id:satonory4949:20200509160118g:plainf:id:satonory4949:20200509160140g:plainf:id:satonory4949:20200509160155g:plainf:id:satonory4949:20200509160209g:plainf:id:satonory4949:20200509160220g:plainf:id:satonory4949:20200509160234g:plainf:id:satonory4949:20200509160245g:plainぞ。

 

f:id:satonory4949:20200509160302g:plainf:id:satonory4949:20200509160311g:plainf:id:satonory4949:20200509160322g:plainf:id:satonory4949:20200509160332g:plainf:id:satonory4949:20200509160345g:plainf:id:satonory4949:20200509160357g:plainf:id:satonory4949:20200509160410g:plainf:id:satonory4949:20200509160424g:plainf:id:satonory4949:20200509160436g:plainぞ。

 

この九柱は〇ぞ。

 

心得なされよ。現われの五十柱のかげの、かくれた九柱、心して大切申せよ。

 

真直ぐに真上に神をいただくと申すことは、上ばかりではないぞ。

 

真下にも横にも前後にも

立体三六〇度に真直ぐに神を頂かねばならんと云うことぞ。

 

神人交流の第一歩。

 

 

月光の巻、第三十一帖(八一八)

 

足のうらをきれいに掃除なされよ。

 

外から見えん所がけがれてゐるぞ。

 

日本の国よ、そなたも同様、世界よ、そなたも同様ぞ。

 

イヅモの神の社をかへて竜宮の乙姫(理由空云の音秘)様のお社を

陸(理空)につくらねば、これからの世はうごきとれんことになるぞ。

 

一切が自分であるぞと云うことは例へでないぞ。

 

そなたは、食物は自分でないと思うてゐるが、食べるとすぐ自分となるでないか。

 

空気も同様、水も同様ぞ。

 

火も同様、大空もそなたぞ。

 

山も川も野も海も、植物も動物も同様ぞ。

 

人間は横の自分ぞ。

 

神は縦の自分ぞ、自分を見極めねばならん。

 

自分をおろそかにしてはならん。

 

一切をうけ入れねばならんぞ。

 

一切に向って感謝しなければならんと申してあろうが。

 

三十一年一月三日。

 

 

804>817

月光の巻、第十七帖(八〇四)

 

そなたの仕事、思いつき結構であるが、

神の御意志を頂かねば成就せん。

 

神と申しても、

そなたが勝手にきめた神や宗教で固めた制限された神ではないぞ。

 

判っただけでは駄目ぞ。

 

行じねばならん。

 

生活しなければならん。

 

芸術しなければならん。

 

 

月光の巻、第三十帖(八一七)

 

心のいれかへせよとは新しき神界との霊線をつなぐことぞ。

 

そなたは我が強いから、

我の強い霊界との交流が段々と強くなり、我のむしが生れてくるぞ。

 

我の病になって来るぞ。

 

その病は自分では判らんぞ。

 

わけの判らん虫わくぞ。

 

わけの判らん病はやるぞと申してあるが そのことぞ。

 

肉体の病ばかりでないぞ。

 

心の病はげしくなってゐるから気付けてくれよ。

 

人々にもそのことを知らせて共に栄えてくれよ。

 

この病を治すのは、今日までの教では治らん。

 

病を殺して了ふて、病をなくしようとて病はなくならんぞ。

 

病を浄化しなければならん。

 

悪を殺すと云う教や、やり方ではならんぞ。

 

悪を抱き参らせて下されよ。

 

 

805>816

月光の巻、第十八帖(八〇五)

 

現実的には不合理であっても、

不合理にならぬ道をひらくのが、霊現交流の道であり、立体弥栄の道、

行き詰りのない道、新しき世界への道である。

 

平面のみではどうにもならない時となってゐるのに、何して御座るのか。

 

黒船にびっくりしては間に合わん。

 

 

月光の巻、第二十九帖(八一六)

 

モト(母答)を正さねばならん、間に合わんことになるぞ。

 

心の改心すれば、どんなおかげでもとらすぞ。

 

幽国(がいこく)は火の雨ぢゃなあ。

 

世界一度に改心。

 

 

806>815

月光の巻、第十九帖(八〇六)

 

釈迦、キリスト、マホメット、其の他、世界の生命ある教祖及びその指導神を、

み光の大神様とたたえまつれと申してあろが。

 

f:id:satonory4949:20200125135617g:plainf:id:satonory4949:20200215124047g:plainf:id:satonory4949:20200125135655g:plainf:id:satonory4949:20200215124119g:plain大神様の一つの現はれぞと申してあろうが。

 

何故にみ光の大神様として斎きまつらんのぢゃ。

 

宗教せぬのぢゃ。

 

其処にひかり教会としての力が出ないのぢゃ。

 

人民のうきせになやむを救うのはオホカムツミの神であるぞ。

 

この能(ハタラキ)の神名わすれてはならん。

 

このほうはオホカムツミの神とも現われるぞと知らしてあること忘れたのか。

 

 

月光の巻、第二十八帖(八一五)

 

厄も祓はねばならんが、福も祓はねばならん。

 

福はらひせよと申してあらうが。

 

厄のみでは祓ひにならん。

 

福のみでも祓ひにならんぞ。

 

厄ばらひのみしたから今日の乱れた世相となったのぢゃ。

 

この判り切った道理が何故に判らんのか。

 

悪を抱き参らせよ。

 

善も抱き参らせよ。

 

抱くには〇にならねばならんぞ。

 

 

807>814

月光の巻、第二十帖(八〇七)

 

大奥山と教会とをまぜこぜしてはならん。

 

教会や其の他の集団は現われ、大奥山はかくれぢゃ。

 

大奥山はこの度の大御神業にゆかりのある神と人とを引きよせてねり直し、

御用に使う仕組。

 

みて御座れ、人民には見当とれんことになるぞ。

 

 

月光の巻、第二十七帖(八一四)

 

はらひは結構であるが、厄はらひのみでは結構とはならんぞ。

 

それは丁度、悪をなくすれば善のみの地上天国が来ると思って

、悪をなくすることに努力した結果が、今日の大混乱を来したのと同じであるぞ。

 

よく考えて下されよ。

 

善と申すも悪と云うも、皆悉く大神の肚の中であるぞ。

 

大神が許し給へばこそ存在してゐるのであるぞ。

 

この道理をよく会得せよ。

 

はらふと申すのは無くすることではないぞ。

 

調和することぞ。和して弥栄することぞ。

 

 

808>813

月光の巻、第二十一帖(八〇八)

 

大奥山から流れ出た宗団はひかり教会のみでないぞ。

 

いくらもあるのぢゃ。

 

出てくるぞ。

 

故に大奥山に集まったものが皆ひかり教会員ではない。

 

それぞれのミタマの因縁によって色々な集団に属する。

 

この点よく心得なされよ。

 

大奥山はありてなき存在、人間の頭で消化されるような小さいしぐみしてないぞ。

 

大奥山だけに関係もつ人もあるのぢゃ、囚われてはならん。

 

三千世界を一つにまるめるのが この度の大神業ぞ。

 

世界一家は目の前、判らんものは邪魔せずに見物して御座れ。

 

神の経綸 間違ひなし。

 

 

月光の巻、第二十六帖(八一三)

 

現状を足場として進まねばならん。

 

現在のそなたのおかれてゐた環境は、そなたがつくり上げたものでないか。

 

山の彼方に理想郷があるのではないぞ。

 

そなたはそなたの足場から出発せねばならん。

 

よしそれが地獄に見えようとも、現在に於てはそれが出発点。

 

それより他に道はないぞ。

 

十二月三十一日。

 

 

809>812

月光の巻、第二十二帖(八〇九)

 

産土さまによくお願いなされよ。

 

わすれてはならんぞ。

 

宗教にこり固まって忘れる人が多いぞ。

 

他の神を拝してはならんと云う、そなたの信仰はそれだけのもの、早う卒業結構。

 

 

月光の巻、第二十五帖(八一二)

 

食物は科学的栄養のみに囚われてはならん。

 

霊の栄養大切。

 

自分と自分と和合せよと申してあるが、

肉体の自分と魂の自分との和合出来たら、も一段奥の魂と和合せよ。

 

更に、又奥の自分と和合せよ。

 

一番奥の自分は神であるぞ。

 

高い心境に入ったら、神を拝む形式はなくともよいぞ。

 

為すこと、心に浮ぶこと、それ自体が礼拝となるからぞ。

 

山も自分、川も自分、野も自分、海も自分ぞ。

 

草木動物 悉く自分ぞ、歓喜ぞ。その自分出来たら天を自分とせよ。

 

天を自分にするとはムにすることぞ。

 

〇に化すことぞ。

 

ウとムと組み組みて新しきムとすることぢゃ。

 

 

810>811

月光の巻、第二十三帖(八一〇)

 

他の宗教に走ってはならんと云う宗教もそれだけのもの。

 

 

判らんと申してもあまりであるぞ。

同じ所に天国もあり、地獄もあり、

霊界もあり、現実界もあり、過去も未来も中今にあるのぞ。

 

同じ部屋に他の神や仏をまつってはならん

と申す一方的なメクラ宗教にはメクラが集まるのぢゃ。

 

病気が治ったり運がひらけたり、

奇跡が起ったりするのみをおかげと思ってはならん。

 

もちと大き心、深い愛と真の世界を拝めよ。

 

とけ入れよ。

 

浄化が第一。

 

金が好きなら金を拝んでもよいのぢゃ。

 

区別と順序さへ心得て居れば何様を拝んでもよいぞ。

 

金を拝めば金が流れてくるぞ。

 

金を拝み得ぬイコヂさが そなたを乏しくしたのぢゃ。

 

赤貧は自慢にならん。

 

無神論も自慢にならん。

 

清貧はまけおしみ、清富になれよと申してあろうが。

 

清富こそ弥栄の道、神の道、大f:id:satonory4949:20200215124047g:plainf:id:satonory4949:20200215124049g:plainf:id:satonory4949:20200215124119g:plain大神のマコトの大道ぞ。

 

 

月光の巻、第二十四帖(八一一)

 

怒ってはならん。急いではならん。

 

怒ると怒りの霊界との霊線がつながり、

思わぬ怒りが湧いてものをこわして了ふぞ。

 

太神のしぐみに狂ひはないぞ。

 

皆々安心してついて御座れよ。

 

 

まぜまぜ 七五一~七九五

ひふみ神示 まぜまぜの第七五一帖~第七九五帖

 

 

第二十九巻 秋の巻

全二十八帖・通し番号(七四二)~(七六九)のうち(七四二)~(七五〇)

全二十八帖・通し番号(七四三)~(七七〇)のうち(七五一)~(七七〇)

  昭和二十七年 四月十一日

※通し番号を振りなおしました。(夏の巻、第二十二帖から)

 

第三十巻 冬の巻

全十八帖・通し番号(七七一)、(七八七)

自  昭和二十七年 五月 五日

至  昭和二十七年 六月 九日

 

 

ひふみ神示(補巻)月光の巻

全六十二帖・通し番号(七八八)~(八四九)のうち(七八八)~(七九五)

自  昭和三十三年十二月二十五日

至  昭和三十四年 三月  二日

 

 

 

751>795

秋の巻、第九帖(七五一)

 

みろくの世となれば世界の国々がそれぞれ独立の、

独自のものとなるのであるぞ。

 

ぢゃが皆それぞれの国は一つのへそで、

大き一つのへそにつながってゐるのであるぞ。

 

地上天国は一国であり、一家であるが、

それぞれの、又自づから異なる小天国が出来、民族の独立性もあるぞ。

 

一色にぬりつぶすような一家となると思ふてゐるが、

人間のあさはかな考へ方ぞ。

 

考へ違ひぞ。

 

この根本を直さねばならん。

 

霊界の通りになるのぢゃ。

 

 

月光の巻、第八帖(七九五)

 

神の御用は、神のみこと(命(実言))のままでなくては成就せん。

 

皆々釈迦ぞ、キリストぞ。

 

もっと大き計画もちて御座れ。

 

着手は出来る処からぞ。

 

つかめる所から神をつかめよ。

 

部分からつくり上げなされよ。

 

我出してはならん。

 

そなたはそれでいつもしくじってゐるでないか。

 

天狗ではならん。

 

心出来たら足場固めねばならん。

 

神の足場は人ぢゃ。

 

三千の足場、五千の足場。

 

 

752>794

秋の巻、第十帖(七五二)

 

外の喜びはその喜びによって悪をまし、

内の喜びはその喜びによって善をますなれど、

マコトの喜びは外内と一つになり、二つになり、

三つになった喜びとならねば、弥栄ないぞ。

 

 

月光の巻、第七帖(七九四)

 

大奥山は神人交流の道の場である。

 

道は口で説くものではない。

 

行ずるものである。

 

教は説かねばならない。

 

多数決が悪多数決となるわけが何故に判らんのぢゃ。

 

投票で代表を出すと殆んどが悪人か狂人であるぞ。

 

世界が狂ひ、悪となり、人民も同様となっているから、

その人民の多くが選べば選ぶ程、益々混乱してくるのであるぞ。

 

それより他に人民の得心出来る道はないと申してゐるが、道はいくらでもあるぞ。

 

人民の申してゐるのは平面の道、平面のみでは乱れるばかり、

立体にアヤなせば弥栄えて真実の道が判るのぢゃ。

 

ぢゃと申して独裁ではならん。

 

結果から見れば神裁ぢゃ。

 

神裁とは神人交流によることぞ。(十二月二十五日)

 

神はうそつきぢゃと人民申しても、

悪い予言はうそにしたいので日夜の苦労、

こらえられるだけこらえてゐるのである。

 

もう、ものばかりでは治まらんこと、

キンでは治まらんこと、平面のみでは駄目であること、

よく判ってゐるのにカブトぬげん神々様よ、

気の毒が来ぬ前に改心結構。

 

遠くからでは判らんし、近づくと迷うし、理屈すてて神にほれ参らせよ。

 

よくこの神をだましてくれたぞ、

この神がだまされたればこそ、太神の目的なってくるのぢゃ。

 

細工はりゅうりゅう仕上げ見て下されよ。

 

 

区別すると力出るぞ、同じであってはならん。

 

平等でなくてはならんが、区別なき平等は悪平等である。

 

天に向って石を投げるようなことは、早くやめねばならん。

 

霊かかりもやめて下されよ。

 

人民が絶対無と申してゐるところも、絶対無ではない。

 

科学を更に浄化弥栄させねばならん。

 

空間、時間が霊界にないのではない。

 

その標準が違うから無いと考えてよいのである。

 

奥山は奥山と申してあろう。

 

いろいろな団体をつくってもよいが、

何れも分れ出た集団、一つにしてはならん。

 

奥山はありてなきもの、なくて有る存在である。

 

奥山と他のものとまぜこぜまかりならん。

 

大き一つではあるが別々ぞ。

 

今迄になかった奥山のあり方、判らんのも無理ないなれど、

これが判らねば この度の大神業、判りはせんぞ。

 

 

753>793

秋の巻、第十一帖(七五三)

 

親と子は、生むと生まれるとの相違出来てくるぞ。

 

又上の子と下の子と、左の子と右の子とは違ふのであるぞ。

 

違へばこそ存在する。

 

 

月光の巻、第六帖(七九三)

 

あまてらすおほかみは、たかあまのはらをしらすべし。

 

また、たかあまのはらをしらすべし、

また、たかあまはらをしらすべし、

 

つきよみのおほかみは、あまてらすおほかみとともに、

あめのことをしらすべし。

 

また、あほうなはら しほのやほへをしらすべし。

 

また、よるのおすくにをしらすべし。

 

すさなおのおほかみは、

あほうなのはらをしらすべし、

また、あほうなはらをしらすべし。

 

また、あまがしたをしらすべし。

 

 

754>792

秋の巻、第十二帖(七五四)

 

神について御座れよ。

 

理屈申さず、ついて御座れよ。

 

地獄ないと申してあろう。

 

人は神の喜びの子と申してあらう。

 

人の本性は神であるぞ。

 

神なればこそ天国へ自づから行くのぢゃ。

 

住むのぢゃ。

 

 

月光の巻、第五帖(七九二)

 

十くさ、十二くさのかむたから、

おきつかがみ、へつかがみ、

八つかのつるぎ、九つかのつるぎ、十つかのつるぎ、

いくたま、まがるかへしのたま、

たるたま、ちかへしのたま、

おろちのひれ、はちのひれ、くさくさのひれ、であるぞ。

 

む、ひと、ふた、み、よ、いつ、む、なな、や、ここ、たり、う、であるぞ。

う、たり、ここ、や、なな、む、いつ、よ、み、ふた、ひと、む、であるぞ。

 

となへよ。

 

のりあげよ。

 

 

755>791

秋の巻、第十三帖(七五五)

 

人民、うそが上手になったから中々油断ならんぞ。

 

下々の神さまも、うそ上手になったなぁ。

 

善ぢゃ悪ぢゃと申してゐるが、

人民の善はそのまま霊人の善でないぞ。

 

そのまま霊人の悪でないぞ。

 

心して呉れ。

 

 

月光の巻、第四帖(七九一)

 

あめのみなかぬしのかみのそのまへに、

あめゆづる日あめのさぎりのみこと。

 

くにゆづる月、地のさぎりのみことあるぞ。

 

ΘのΘのΘであるぞ。

 

その前にゝあることわするるなよ。

 

 

756>790

秋の巻、第十四帖(七五六)

 

グッとしめたり、ゆるめたりして呼吸しなければならん。

 

其処に政治のうごきあるぞ。

 

経済の根本あるぞ。

 

逆にしめる事もあるぞ。

 

善と申し悪の御用と申すことの動き、そこから出るのぢゃ。

 

じっとしてゐてはならん。

 

ジッとしてゐる善は善でないぞ。

 

 

月光の巻、第三帖(七九〇)

 

こんどは、八のくまではたらん。

 

十のくま、十のかみをうまねばならんぞ。

 

そのほかに、

かくれた二つのかみ、二つのくまをうみて、そだてねばならんことになるぞ。

 

 

757>789

秋の巻、第十五帖(七五七)

 

何程 世界の為ぢゃ、人類の為ぢゃと申しても、

その心が、我が強いから、

一方しか見えんから、世界のためにならん。

 

人類の為にならんぞ。

 

洗濯ぢゃ洗濯ぢゃ。

 

自分が生んだもの、自分から湧き出るものは、いくら他に与へてもなくならんぞ。

 

与へよ、与へよ、

与へてなくなるものは自分のものでないと申してあろう。

 

無くなると思ふのは形のみ見てゐるからぢゃ。

 

カラのみ見るからぢゃぞ。

 

本質は無限に拡がるぞ。

 

与へる程よりよく、神から与へられるぞ。

 

井戸の水のようなもんぢゃ。

 

汲めば汲むほどよくなる仕組。

 

 

月光の巻、第二帖(七八九)

 

きすうときすうをあはしても、ぐうすう、

ぐうすうとぐうすうをあはしてもぐうすうであることをわすれてはならんぞ。

 

きすうとぐうすうをあはしてはじめて、

あたらしき、きすうがうまれるのであるぞ。

 

こんどのいわとひらきには ひるこうむでないぞ。

 

あはしまうむでないぞ。

 

 

758>788

秋の巻、第十六帖(七五八)

 

統一と云ふことは赤とか白とか一色にすることではないぞ。

 

赤もあれば黄もあり青もあるぞ。

 

それぞれのものは皆それぞれであって一点のゝでくくる所に統一あるぞ。

 

くくると申してしばるのでないぞ。

 

磁石が北に向くよう、総て一点に向かうことであるぞ。

 

これを公平と申し、平等と申すのぢゃ。

 

悪平等悪平等

 

一色であってはならんのう。

 

下が上に、上が下にと申してあるが、一度で治まるのでないぞ。

 

幾度も幾度も上下にひっくりかへり、又ひっくりかへりビックリぢゃ。

 

ビックリこねまわしぢゃ。

 

 

月光の巻、第一帖(七八八)

 

なりなりて なりあまれるところもて、

なりなりて なりあはざるところをふさぎて、くにうみせなならんぞ。

 

このよのくにうみは一つ(秘答通)(ヒトツ)おもて(面)でしなければならん。

 

みと(実透)のまぐはひでなくてはならんのに、

おもてを一つにしてゐないではないか。

 

それでは、こんどのことは、じょうじゅせんのであるぞ。

 

 

759>787

秋の巻、第十七帖(七五九)

 

神示が一度で判る人民にはミタマシズメやカミシズメやカミカカリはいらん。

 

判らんからやらしてゐるのぢゃ。

 

やらせねば判らんし、やらすとわき道におちゐるし、

いやはや困ったもんぢゃのう。

 

 

冬の巻、補帖(七八七)

 

病、ひらくことも、運、ひらくことも、皆 己からぢゃと申してあろう。

 

誰でも、何でもよくなるのが神の道、神の御心ぢゃ。親心ぢゃ。

 

悪くなると云ふことないのぢゃ。

 

迷ひが迷ひ生むぞ。

 

もともと病も不運もない弥栄のみ、喜びのみぢゃ。

 

神がよろこびぢゃから、その生んだもの皆よろこびであるぞ。

 

この道理よくわきまえよ。

 

毎日々々、太陽と共に、太陽について起き上がれよ。

 

その日の仕事、与へられるぞ。仕事いのちと仕へまつれよ。

 

朝寝するからチグハグとなるのぢゃ。

 

不運となるのぢゃ、仕事なくなるのぢゃ。

 

神について行くことが祈りであるぞ。

 

よろこびであるぞ。

 

食物、食べ過ぎるから病になるのぢゃ。

 

不運となるのぢゃ。

 

口から出るもの、入るもの気つけよ。

 

いくさ起るのぢゃ。

 

人間の病や、いくさばかりでない、

国は国の、世界は世界の、山も川も海も、みな病となり、不運となってくるぞ。

 

食べないで死ぬことないぞ。

 

食べるから死ぬのぢゃぞ。

 

 一椀をとって先づ神に供へよ。

 

親にささげよ。

子にささげよ。

腹八分の二分はささげよ。

 

食物こそは神から、親から与へられたものであるぞ。

 

神にささげずにむさぶるからメグリつむのぢゃ。

 

メグリが不運となり、病となるのぢゃぞ。

 

運ひらくのも食物つつしめばよい。

 

言つつしめばよい。

腹十分食べてはこぼれる。

 

運はつまってひらけん。

 

この判りきったこと、何故に判らんのぢゃ。

 

 ささげるからこそ頂けるのぢゃ。

 

頂けたらささげると今の人民申してゐるが、それがウラハラと申すもの。

 

衣類も家も土地も、みな神から頂いたのでないぞ。

 

あづけられてゐるのであるぞ。

人民に与へられてゐるものは食物だけぢゃ。

 

日のめぐみ、月のめぐみ、地のめぐみだけぢゃぞ。

 

その食物節してこそ、ささげてこそ、運ひらけるのぢゃ。

 

病治るのぢゃ。

 

人民ひぼしにはならん。

 

心配無用。

 

食物、今の半分で足りると申してあらうが。

 

遠くて近いものヒフミの食べ方して見なされよ。

 

運ひらけ、病治ってうれしうれしと輝くぞ。

 

そんなこと位で、病治ったり、運ひらける位なら、

人民はこんなに苦しまんと申すが、それが理屈と申すもの。

 

理屈悪と申してあるもの。

 

低い学に囚われたメクラ、ツンボと申すものぞ。

 

 理屈すてよ。

すててやって見なされ。

 

みなみな気つかん理(ミチ)、気つかん病になってゐるぞ。

 

ツキモノがたらふく食べてゐることに気づかんのか。

 

食物節すればツキモノ改心するぞ。

 

先づ百日をめあてに、百日過ぎたら一年を、

三年つづけたら開運間違ひなし。

 

病もなくなってうれしうれしとなるぞ。

 

三年目、五年目、七年目ぞ、めでたいナア、めでたいナア。

 

六月九日、ひつくの神。

 

 以上

(冬の巻了)

 

 

760>771

秋の巻、第十八帖(七六〇)

 

人民は神のへそとつながってゐるのであるぞ。

 

へその緒さへつながって居ればよく、神人であるぞ。

 

ゝとゝとつながって更に大きゝにつながってゐるからこそ動きあり、

それぞれのハタラキあり、使命を果たし得るのであるぞ。

 

同じであって全部が合一しては力出ないのであるぞ。

 

早う心いれかへと申してあるが、心とは外の心であるぞ。

 

心の中の中の中の心の中にはゝが植付けてあるなれど、外がまっくらぢゃ。

 

今迄のやり方では行けんこと判りて居らうがな。

 

いらんものは早うすてて了へよ。

 

直々の大神様は二(ツキ)の大神様なり。

 

 

冬の巻、第一帖(七七一)

 

宇宙は霊の霊と物質とからなってゐるぞ。

 

人間も又同様であるぞ。

 

宇宙にあるものは皆人間にあり。

人間にあるものは皆宇宙にあるぞ。

 

人間は小宇宙と申して、神のヒナガタと申してあらう。

 

人間には物質界を感知するために五官器があるぞ。

霊界を感知するために超五官器あるぞ。

神界は五官と超五官と和して知り得るのであるぞ。

 

この点 誤るなよ。

 

霊的自分を正守護神と申し、神的自分を本守護神と申すぞ。

幽界的自分が副守護神ぢゃ。

本守護神は大神の歓喜であるぞ。

 

神と霊は一つであって、幽と現、合せて三ぞ。

 

この三は三にして一、一にして二、二にして三であるぞ。

 

故に肉体のみの自分もなければ霊だけの自分もない。

 

神界から真直ぐに感応する想念を正流と申す。

 

幽界を経て又幽界より来る想念を外流と申すぞ。

 

人間の肉体は想念の最外部、最底部をなすものであるから

肉体的動きの以前に於て霊的動きが必ずあるのであるぞ。

 

故に人間の肉体は霊のいれものと申してあるのぞ。

 

又 物質界は、霊界の移写であり衣であるから、

霊界と現実界、又 霊と体とは殆んど同じもの。

 

同じ形をしてゐるのであるぞ。

 

故に物質界と切り離された霊界はなく、

霊界と切り離した交渉なき現実界はないのであるぞ。

 

人間は霊界より動かされるが、

又 人間自体よりかもし出した霊波は反射的に霊界に反影するのであるぞ。

 

人間の心の凸凹によって、一は神界に、一は幽界に反影するのであるぞ。

 

幽界は人間の心の影が生み出したものと申してあろうがな。

 

 

総ては大宇宙の中にあり、

その大宇宙である大神の中に、大神が生み給ふたのであるぞ。

 

このことよくわきまへて下されよ。

 

善のこと悪のこと、善悪のこと、よく判って来るのであるぞ。

 

故に、人間の生活は霊的生活、言の生活であるぞ。

 

肉体に食ふことあれば霊にもあり、言を食べているのが霊ぞ。

 

霊は言ぞ。

 

この点が最も大切なことじゃから、くどう申しておくぞ。

 

 

死んでも物質界とつながりなくならん。

 

生きてゐる時も霊界とは切れんつながりあること、とくと会得せよ。

 

そなた達は神をまつるにも、祖先まつるにも物質のめあてつくるであろうがな。

 

それはまだまだ未熟な事ぞ。

 

死後に於ても、現実界に自分がある。

 

それは丁度、生きてゐる時も半分は霊界で生活してゐるのと同じであるぞ。

 

自分の衣は自分の外側であるぞ。

 

自分を霊とすると、衣は体、衣着た自分を霊とすれば家は体、

家にゐる自分を霊とすれば土地は体であるぞ。

 

更に祖先は過去の自分であり、子孫は新しき自分、未来の自分であるぞ。

 

兄弟姉妹は最も近き横の自分であるぞ。

 

人類は横の自分、動、植、鉱物は更にその外の自分であるぞ。

 

切りはなすこと出来ん。

 

自分のみの自分はないぞ。

 

縦には神とのつながり切れんぞ。

 

限りなき霊とのつながり切れんぞ。

 

故に、神は自分であるぞ。

 

一切は自分であるぞ。

 

一切がよろこびであるぞ。

 

霊界に於ける自分は、殊に先祖との交流、交渉深いぞ。

 

よって、自分の肉体は自分のみのものでないぞ。

 

先祖霊と交渉深いぞ。

 

神はもとより一切の交渉あるのであるぞ。

 

その祖先霊は神界に属するものと幽界に属するものとあるぞ。

中間に属するものもあるぞ。

 

神界に属するものは、正流を通じ、

幽界に属するものは外流を通じて自分に反応してくるぞ。

 

正流に属する祖先は正守護神の一柱であり、

外流に加はるものは、副守護神の一柱と現はれてくるのであるぞ。

 

外流の中には、動植物霊も交ってくることあるぞ。

 

それは己の心の中にその霊と通ずるものあるためぞ。

 

一切が自分であるためぞ。

常に一切を浄化せなならんぞ。

霊は常に体を求め、体は霊を求めて御座るからぞ。

 

霊体一致が喜びの根本であるぞ。

 

一つの肉体に無数の霊が感応し得るのざ。

 

それは霊なるが故にであるぞ。

 

霊には霊の霊が感応する。

 

又 高度の霊は無限に分霊するのであるぞ。

 

二重三重人格と申すのは、

二重三重のつきものの転換によるものであり、

群集心理は一時的の憑依霊であると申してあろうがな。

 

霊が元と申してくどう知らしてあろうが。

 

人間は現界、霊界共に住んで居り、その調和をはからねばならん。

 

自分は自分一人でなく、

タテにもヨコにも無限につながってゐるのであるから、

その調和をはからねばならん。

 

それが人間の使命の最も大切なことであるぞ。

 

調和乱すが悪ぞ。

 

人間のみならず、総て偏してならん。

 

霊に偏してもならん。

 

霊も五、体も五と申してあらう。

 

ぢゃが主は霊であり体は従ぞ。

 

神は主であり、人間は従であるぞ。

 

五と五と同じであると申してあろう。

 

差別則平等と申してあらう。

 

取り違い禁物ぞ。

 

神は愛と現はれ、真と現はれるのであるが、その根はよろこびであるぞ。

 

神の子は皆よろこびぢゃ。

よろこびは弥栄ぞ。

ぢゃがよろこびにも正流と外流とあるぞ。

間違へてならんぞ。

 

正流の歓喜は愛の善となって現はれて、又 真の信と現はれるぞ。

 

外流のよろこびは愛の悪となって現れるぞ。

 

何れも大神の現れであること忘れるなよ。

 

悪抱き参らせて進むところにマコトの弥栄あるのであるぞ。

 

神は弥栄ぞ。

 

これでよいと申すことないのであるぞ。

 

大完成から超大大完成に向って常に弥栄してゐるのであるぞよ。

 

宇宙は総てに於ても、

個々に於ても総てよろこびからよろこびに向って呼吸してゐるのぞ。

 

よろこびによって創られてよろこんでゐるのであるぞ。

 

故によろこびなくして生きないぞ。

 

合一はないぞ。

 

愛は愛のみではよろこびでないぞと申してあろう。

 

真は真のみでは喜びでないと申してあろうが。

 

愛と真と合一し、ゝするところに、陰と陽と合一、

弥栄したところによろこびあるのぢゃぞ。

 

この巻 冬の巻、五月五日の佳き日。

 

ひつく神。

 

 

761>770

秋の巻、第十九帖(七六一)

 

中今(ナカイマ)と申すことは、ゝ今と申すこと。

 

ゝは無であるぞ。

 

動きなき動きであるぞ。

 

そのことよくわきまへよ。

 

今迄のこと、やり方かえねばならん。

 

一段も二段も三段も上の広い深い、

ゆとりのあるやり方に、神のやり方に、規則のない世に、

考へ方、やり方、結構であるぞ。

 

 

秋の巻、第二十八帖(七七〇)

 

霊はものにつくと申してあろう。

 

払ひするときはモノにつけて、モノと共にせよ。

 

共に祓へよ。

 

これほどマコト申しても、

残る一厘はいよいよのギリギリでないと申さんから、

うたがふのも無理ないなれど、見て御座れよ。

 

神の仕組 見事成就いたすぞ。

 

一厘のことは知らされんぞと申してあろう。

 

申すと仕組成就せんなり。

 

知らさんので、改心おくれるなり、心の心で取りて下されよ。

 

肉体は霊の衣と申してあらう。

 

衣が霊を自由にしてはならんぞ。

 

衣には衣の約束あるぞ。

 

衣ぢゃと申して粗末してはならん。

 

何れも神の現れであるぞ。

 

内には内の内があり、外には外の外があるぞ。

 

人ほめよ。

 

人ほめることは己ほめることぞ。

 

この巻、秋の巻。

 

四月十一日、ひつく神。

(秋の巻了)

 

 

762>769

秋の巻、第二十帖(七六二)

 

【科学にゝ入れると宗教となるのぢゃ】。

 

ゝは数。

 

カネは掘り出せん。

 

生み出してくれよ。

 

 

秋の巻、第二十七帖(七六九)

 

型にはまることをカタマルと申すのぢゃ。

 

こり固まっては動きとれん。

 

固まらねば型出来んで、人民には判らんし、型外して、型をつくらねばならん。

 

法律つくらねばならんが、つくってもならんぞ。

 

神から命令されたミタマでも油断は出来ん。

 

曇りたらすぐ代りのミタマと入れ替えるのであるぞ。

 

コリ固まったものがケガレぢゃ。

 

ケガレはらさねばならん。

 

絶えず払って払って払ひつつ、又固まらねばならんし、人民には判らんし、

肉体あるから固まらねばならんし、常に払ひせねばならん。

 

総てをこんなもんぢゃときめてはならんぞ。

 

ゝ枯れることをケガレと申すのぢゃ。

 

判りたか。

 

神界の立替ばかりでは立替出来ん。

 

人民界の立替なかなかぢゃナア。

 

 

763>768

秋の巻、第二十一帖(七六三)

 

和が根本、和がよろこびぞ。

 

和すには神を通じて和すのであるぞ。

 

神を通さずに、神をなくして通づるのが悪和合。

 

神から分れたのであるから神に帰って、神の心に戻って和さねばならん道理。

 

神なくして和ないぞ。

 

世界平和と申してゐるが、

神にかへって、神に通じねば和平なく、よろこびないぞ。

 

十二の玉を十まで生んで、後二つ残してあるぞ。

 

 

秋の巻、第二十六帖(七六八)

 

中は無、外は有であるぞ。

 

中になる程 無の無となるのぢゃ。

 

同じことくり返すと、人民申すであろうが、

得心して居らんから、かんじんのことぢゃから、クドう申してゐるのぢゃ。

 

人民それぞれのミタマによって役目違ふのであるぞ。

 

手は手、足は足と申してあろう。

 

何も彼もマゼコゼにやるから結びつかんのぢゃ。

 

 

764>767

秋の巻、第二十二帖(七六四)

 

神にとけ入れと申してあろう。

 

次元が違うから、戒律出来るから、判らんのぢゃ。

 

解け入れよ。

 

何につけても大いくさ。

 

人の殺し合ひばかりでないと知らしてあらう。

 

ビックリぢゃ。

 

 

 

秋の巻、第二十五帖(七六七)

 

ウはムであるぞ。

 

ウとは現実界ぞ。

 

ムとは霊界であるぞ。

 

ウもムも同じであるぞ。

 

ムからウ生れて来ると申してあること、よく心得よ。

 

神の仕組、狂ひないなれど、人民に判らねば、それだけこの世の歩みおくれるのぢゃ。

 

この世は人民と手引かねばならんから、苦しみが長くなるから、

千人万人なら一人づつ手引いてやりても やりやすいなれど、

世界の人民、動物虫けらまでも助ける仕組であるから、

人民 早う改心せねば、気の毒いよいよとなるぞ。

 

 

765>766

秋の巻、第二十三帖(七六五)

 

神が主であり人民が従であると申してあろう。

 

これを逆にしたから世が乱れてゐるのぞ。

 

結果あって原因あるのでないぞ。

 

今の人民、結構すぎて天地の御恩と申すこと忘れてゐるぞ。

 

いよいよとなって泣面せねばならんこと判りてゐるから、くどう気付けてゐるのぢゃ。

 

マコトのことはトリの年。

 

 

秋の巻、第二十四帖(七六六)

 

上から見ると皆人民ぢゃ。

 

下から見ると皆神ぢゃ。

 

判りたと思ふて御座るなれど、

神の経綸が学や、金銀つんで、チョットやソットで判る筈ないぞや。

 

今迄の、三千年のやり方違ってゐたと心つくなれば、

心付いて神示よむなれば、一切のことありやかとなるのぢゃ。

 

カンジンぢゃ。

 

まぜまぜ 七二一~七五〇

ひふみ神示 まぜまぜの第七二一帖~第七五〇帖

 

 

第二十八巻 夏の巻

全二十五帖・通し番号(七一八)~(七四一)のうち(七一八)~(七四一)

全二十五帖・通し番号(七一八)~(七四二)のうち(七一八)~(七四二)

 ※通し番号を振りなおしました。(夏の巻、第二十二帖から)

 

自  昭和二十七年 三月 三日

至  昭和二十七年 三月 八日

 

 

第二十九巻 秋の巻

全二十八帖・通し番号(七四二)~(七六九)のうち(七四二)~(七五〇)

全二十八帖・通し番号(七四三)~(七七〇)のうち(七四三)~(七五〇)

  昭和二十七年 四月十一日

 

 

 

 

721>750

夏の巻、第四帖(七二一)

 

何神様とハッキリ目標つけて拝めよ。

 

只ぼんやり神様と云っただけではならん。

 

大神は一柱であるが、あらわれの神は無限であるぞ。

 

根本の、太f:id:satonory4949:20200215124047g:plainf:id:satonory4949:20200215124049g:plainf:id:satonory4949:20200215124119g:plain(ヒツキ)大神さまと念じ、

その時その所に応じて、特に何々の神様とお願ひ申せよ。

 

信じ合ふものあれば、

病気も又たのしく、

貧苦も亦たのしいのであるぞ。

 

例外と申すのは、ないのであるぞ。

 

他の世界、他の天体、

他の小宇宙からの影響によって起る事象が例外と見えるのぢゃ。

 

心大きく、目ひらけよ。

 

 

秋の巻、第八帖(七五〇)

 

何事もよろこびからぞ。

 

結果から又よろこび生れるぞ。

 

この道理わかれば何事もありやか。

 

 

 

722>749

夏の巻、第五帖(七二二)

 

なりなると申してあろうが。

 

なると申すのは内分は同じであるが、形の変ることであるぞ。

 

ウムとナルとは同じであって、同じでないぞ。

 

 

秋の巻、第七帖(七四九)

 

公のことに働くことが己のため働くこと。

 

大の動きなすために小の動きを為し、

小の動きなすために個の動きなすのであるぞ。

 

ゝにゝあり、又ゝあると申してあるぞ。

 

 

723>748

夏の巻、第六帖(七二三)

 

ほんとうにモノを見、きき、味はい、消化して行かなならんぞ。

 

地の上にあるもの、人間のすること、

その総ては霊界で同じことになっていると申してあろうが。

 

先づ霊の世界のうごき大切。

 

霊の食物、霊の生活、求める人民 少ないのう。

 

これでは、片輪車、いつまでたってもドンテンドンテンじゃぞ。

 

そのものを見、

そのものに接して下肚がグッと力こもってくるものはよいもの、

ほんものであるぞ。

 

キは総てのものに流れ込むもの。

 

信仰は理智的にも求められる、完き情である。

 

真理を理解するのが早道。

 

確信となるぞ。

 

 

秋の巻、第六帖(七四八)

 

他を愛するは真愛ぞ。

 

己のみ愛するのは自己愛ぞ。

 

自己愛を排してはならん。

 

自己愛をひろげて、大きくして真愛と合致させねばならん。

 

そこに新しき理(ミチ)ひらけるのであるぞ。

 

自己愛を悪魔ととくは悪魔ぞ。

 

無き悪魔つくり、生み出すでないぞ。

 

一段昇らねば判らん。

 

 

 

724>747

夏の巻、第七帖(七二四)

 

神も人間も同じであると申してあろう。

 

同じであるが違ふと申してあろう。

 

それは大神の中に神を生み、神の中に人民生んだためぞ。

 

自分の中に、自分新しく生むときは、自分と同じカタのものを生む。

 

大神弥栄なれば、神も弥栄、神弥栄なれば人民弥栄ぞ。

 

困るとか、苦しいとか、貧しいとか、悲しいとか云う事ないのであるぞ

 

。理(ミチ)ふめと申すのは、

生みの親と同じ生き方、同じ心になれよと申すことぞ。

 

人民いくら頑張っても神の外には出られんぞ。

 

神いくら頑張っても大神の外には出られんぞ。

 

 

秋の巻、第五帖(七四七)

 

へその緒はつながってゐるのであるから、

一段奥のへそえへそえと進んで行けば、

其処に新しき広い世界、大きくひらけるのであるぞ。

 

自分なくするのではなく高く深くするのであるぞ。

 

無我でないぞ。

 

判りたか。

 

海の底にはキンはいくらでもあるぞ。

 

幽界と霊線つなぐと自己愛となり、

天国と霊線つなげば真愛と現れるぞ。

 

よろこびも二つあるぞ。

 

三つあるぞ。

 

歓喜は一つなれど、次の段階では二つとなるのであるぞ。

 

 

 

725>746

夏の巻、第八帖(七二五)

 

見へるものから来る幸福には限りがあるが、

見えんものから来る幸福は無限ぞ。

 

つきんよろこびは常に神から。

 

 

秋の巻、第四帖(七四六)

 

道徳、倫理、法律は何れも人民のつくったもの。

 

本質的には生れ出た神の息吹きによらねばならん。

 

神も世界も人民も何れも生長しつつあるのざ。

 

何時までも同じであってはならん。

 

三千年一切りぢゃ。

 

今迄の考へ方を変へよと申してあらう。

 

道徳を向上させよ。

 

倫理を新しくせよ。

 

法律を少なくせよ。

 

何れも一段づつ上げねばならん。

 

今迄のやり方、間違ってゐたこと判ったであらう。

 

一足飛びには行かんなれど、一歩々々上って行かなならんぞ。

 

ぢゃと申して土台をすててはならん。

 

土台の上に建物たてるのぢゃ。

 

空中楼閣 見て居れん。

 

 

 

726>745

夏の巻、第九帖(七二六)

 

ウムと申すことは、自分をよりよく生長さすこと。

 

一つ生めば自分は一段と上に昇る。

 

この道理わかるであろうがな。

 

産むことによって、自分が平面から立体になるのであるぞ。

 

毎日、一生懸命に掃除してゐても、何処かにホコリ残るもんぢゃ。

 

まして掃除せん心にホコリつもってゐること位、

誰にでも判ってゐるであろうが。

 

神示で掃除せよ。

 

大病にかかると借金してでも名医にかかるのに、

霊的大病は知らん顔でよいのか。

 

信仰を得て霊的に病気を治すのは、一瞬には治らんぞ。

 

奇跡的に治るとみるのは間違ひ。

 

迷信ぞ。

 

時間もいり手数もいる。

 

物も金もいる。

 

大き努力いるのであるぞ。

 

取違ひ多いのう。

 

 

秋の巻、第三帖(七四五)

 

霊界での現れは同じであっても、

現実界に現れる時は違ふことあるぞ。

 

それはモノが異なるからぞ。

 

二二はもとのキぞ。

 

ナルトとはその現れのはたらき。

 

 

 

727>744

夏の巻、第十帖(七二七)

 

過去も未来も中今(ナカイマ)。

 

神も人間と同じで、弥栄して行くぞ。

 

悪いくせ直さねば いつ何時までたっても自分に迫ってくるもの変らんぞ。

 

おかげないと不足申してゐるが、

悪いくせ、悪い内分を変へねば百年祈りつづけてもおかげないぞよ。

 

理屈なしに子は親を信ずるぞ。

 

その心で神に対せよ。

 

神が親となるのぢゃ。

 

目と口から出るもの、目の光りと声とは、

実在界にも実力もってゐるのであるぞ。

 

力は体験通して出るのであるぞ。

 

 

秋の巻、第二帖(七四四)

 

人民は土でつくったと申せば、

総てを土でこねてつくり上げたものと思ふから、

神と人民とに分れて他人行儀になるのぞ。

 

神のよろこびで土をつくり、それを肉体のカタとし、

神の歓喜を魂としてそれにうつして、

神の中に人民をイキさしてゐるのであるぞ。

 

取り違ひせんように致しくれよ。

 

親と子と申してあろう。

 

木の股や土から生れたのではマコトの親子ではないぞ。

 

世界の九分九分九厘であるぞ。

 

あるにあられん、さしも押しも出来んことがいよいよ近うなったぞ。

 

外は外にあり、内は内にあり、

外は内を悪と見、内は外を悪として考へるのであるが、

それは善と悪でないぞ。

 

内と外であるぞ。

 

外には外のよろこび、内には内のよろこびあるぞ。

 

二つが和して一となるぞ。

 

一が始めぞ、元ぞ。

 

和して動き、動いて和せよ。

 

悪を悪と見るのが悪。

 

 

 

728>743

夏の巻、第十一帖(七二八)

 

カタは形をもたねばならん。

 

念は語ることによって現れるのぢゃ。

 

ゝが無なればなる程〇は有となるであるぞ。

 

このことよく判りて下されよ。

 

肚の中のゴモクすてるとよくわかる。

 

 

秋の巻、第一帖(七四三)

 

同じ神の子でも本家と分家とあるぞ。

 

本家は人間ぢゃ。

 

分家は動植物ぢゃ。

 

本家と分家は神の前では同じであるが、位置をかへると同じでないぞ。

 

三十年で世の立替いたすぞ。

 

これからは一日ましに世界から出て来るから、

如何に強情な人民でも往生いたすぞ。

 

神は喜びであるから、

人の心から悪を取り除かねば神に通じないぞと教へてゐるが、

それは段階の低い教であるぞ。

 

大道でないぞ。

 

理屈のつくり出した神であるぞ。

 

大神は大歓喜であるから悪をも抱き参らせてゐるのであるぞ。

 

抱き参らす人の心に、マコトの不動の天国くるぞ。

 

抱き参らせば悪は悪ならずと申してあろうが。

 

今迄の教は今迄の教。

 

 

 

729>742

夏の巻、第十二帖(七二九)

 

キがもとと申してあろうがな。

 

人民は総てのもののキいただいて成長してゐるのであるぞ。

 

キ頂けよ。

 

横には社会のキを、縦には神の気を、悪いキを吐き出せよ。

 

よい気 養って行けよ。

 

【見分ける鏡与へてある】でないか。

 

道わからねば人にきくであろうが。

 

判らんのに判った顔して歩き廻ってゐてはならん。

 

人にたづねよ。

 

これと信ずる人にたづねよ。

 

天地にたづねよ。

 

神示にたづねよ。

 

 

夏の巻、第二十五帖(七四二)

 

二十二のように知らすぞ。

 

神の仕組、間違ひなし。

 

どしどしと運べよ。

 

三月八日、ひつく神。

(夏の巻了)

 

 

 

730>741

夏の巻、第十三帖(七三〇)

 

ウとムは相たがいに相反するのであるが、これが一つになって動く。

 

ウム組み組みてと、申してあろうがな。

 

今の人民の智では中々解けん。

 

ウの中心はム、ムの廻りはウであるぞ。

 

中心は無限、周辺は有限であること知れよ。

 

 

夏の巻、第二十四帖(七四一)

 

すべて世の中の出来ごとはそれ相当に意義あるのであるぞ。

 

意義ないものは存在ゆるされん。

 

それを人間心で、

邪と見、悪と感ずるから、狭い低い立場でゐるから、

いつまでたってもドウドウめぐり。

 

それを毒とするか薬とするかは各々の立場により、考へ方や、処理方法や、

いろいろの運び方によってしるのであるから、心せねばならんぞ。

 

「今」に一生懸命になりて下されよ。

 

三月三日、ひつく神。

 

 

 

731>740

夏の巻、第十四帖(七三一)

 

上にたつ程働かねばならん。

 

働いても力はへらん。

 

働くにはキ頂かねばならん。

 

キから力生れるのであるぞ。

 

働くと申して動くばかりでないぞ。

 

動かんのも働き、動くのも働き、よく心得よ。

 

よせては返し、よせては返し生きてゐるのであるぞ。

 

始の始と始が違ふぞ。

 

後になるほどよくなるぞ。

 

終りの中に始めあるぞ。

 

祈り、考へ、働きの三つ揃はねばならん。

 

 

夏の巻、第二十三帖(七四〇)

 

無限のものと、有限のものと、ムとウとをまぜまぜにして考へるから、

人民の頭は兎角ウになりがちぢゃぞ。

 

慾、浄化せよ。

 

 

 

732>739

夏の巻、第十五帖(七三二)

 

生めば生む程、自分新しくなり成り、大きくなる。

 

人間は大神のウズの御子であるから親のもつ、新しき、古きものが

そのままカタとして現れゐて、弥栄えてゐる道理ぢゃ。

 

人間の総てに迫り来るもの、総てを喜びとせよ。

 

努力せよ。

 

モノ喜ばせばモノは自分の喜びとなり、自分となる。

 

心の世界は無限に拡がり、生長するのであるぞ。

 

神にとけ入って宇宙大に拡がるのであるぞ。

 

神と共に大きくなればなるほど、喜び大きくなるのである。

 

一神説いて多神説かんのもかたわ、

多神説いて一神説かんのもかたわ、

一神則多神則汎神である事実を説いてきかせよ。

 

 

夏の巻、第二十二帖(七三九)

 

つくり主とつくられるものとでは無限にはなれて行くのぢゃ。

 

和ないぞ。和のないところ天国ないぞ。

 

こんな判りきったこと、何故にわからんのぢゃ。

 

尻の毛まで抜かれてゐると申してあろう。

 

早うめさめよ。

 

悪の道、教にまだ迷うて御座るが、早うめざめんと間に合はんぞ。

 

 

 

733>738

夏の巻、第十六帖(七三三)

 

人民は神のいれものと申してあろう。

 

神のゝと人間のゝと通じて居ればこそ呼吸するのぢゃ。

 

ゝとゝと通じて居ればそれでよいのぢゃ。

 

神のゝと人民のゝと通じて居るならば、

神の〇と人民の〇と同じようにしておかねばならんと申すのは、

人間の誤りやすい、いつも間違ひ起すもとであるぞ。

 

神の〇と人間の〇と同じようにしておくと思うて、

三千年の誤りしでかしたのぢゃ。

 

ゝとゝと結んでおけば後は自由ぢゃ。

 

人民には人民の自由あるぞ。

 

神のやり方と自ら違ふところあってよいのぢゃ。

 

天の理と人の理とは

同じであって違ふのざと知らしてあろう。

 

心得よ。

 

 

夏の巻、第二十一帖(七三八)

 

始めは形あるものを対象として拝むもよいが、

行きつまるのは目に見える世界のみに囚はれてゐるからぞ。

 

タテのつながりを見ないからであるぞ。

 

死んでも自分は生きてゐるのであるぞ。

 

大我に帰したり、理法にとけ入ったりして自分と云ふもの無くなるのでないぞ。

 

霊界と霊と、現界と現身(うつしみ)とのことはくどう説いてあろうが。

 

神示よめよめ。

 

大往生の理(ミチ)、弥栄に体得出来るのであるぞ。

 

霊と体と同じであると申しても、人間の世界では別々であるぞ。

 

内と外、上と下であるぞ。

 

取りちがいせんようして下されよ。

 

 

734>737

夏の巻、第十七帖(七三四)

 

神の姿は総てのものに現われてゐるぞ。

 

道ばたの花の白きにも現われてゐるぞ。

 

それを一度に、すべてを見せて、のみこませてくれと申しても判りはせんぞ。

 

判るところから、気長に神求めよ。

 

総ては神から流れ出てゐるのであるから、

神にお願ひして実行しなければならん。

 

この判り切った道理、おろそかにして御座るぞ。

 

そこに天狗出てゐるのぞ。

 

 

夏の巻、第二十帖(七三七)

 

人民の智の中に現われてくるときは、もはや大神ではないぞ。

 

神であるぞ。

 

原因の原因は中々見当とれん。

 

 

735>736

夏の巻、第十八帖(七三五)

 

自分が自分生むのであるぞ。

 

陰と陽とに分れ、更に分れると見るのは、

人間の住む次元に引下げての見方であるぞ。

 

陰陽分れるのでないこと、もとのもとの、もとの誠の弥栄知れよ。

 

 

夏の巻、第十九帖(七三六)

 

その人その人によって、食物や食べ方が少しづつ違ふ。

 

身体に合わんもの食べても何もならん。

 

かえって毒となるぞ。

 

薬、毒となることあると気つけてあろうが。

 

只歩きまわってゐるだけではならん。

 

ちゃんとめあてつくって、よい道 進んで下されよ。

 

飛行機あるに馬に乗って行くでないぞ。

 

額に先づ気あつめて、ハラでものごとを処理せねばならんぞ。

 

形ある世界では形の信仰もあるぞ。

 

偶像崇拝ぢゃと一方的に偏してはマコトは判らんぞ。

 

 

(更新2・編集中) (番外編)三のくくり まぜまぜ

(番外編)三のくくり まぜまぜ

 

2回目(4/28 18:40 390帖まで)

  初回(4/27 18:35 174帖まで)

 

ひふみ神示の通し番号を

一桁になるまで足して、

三になる帖を抜き出します。

 

 

 

上つ巻、第三帖 (三)

 

善言(よごと)は神、

なにも上下、

下ひっくり返ってゐるから、

分らんから、

神の心になれば何事も分るから、

鏡を掃除して呉れよ。

 

今にこのおつげが

一二三(ヒフミ)ばかりになるから、

それまでに身魂をみがいて置かんと、

身魂の曇った人には何ともよめんから、

早く神こころに返りて居りて呉れ、

何も一度に出て来る。

海が陸になり陸が海になる。

 

六月十一日の朝のお告げ、みよみよみよひつくの神。

 

 

 

12

上つ巻、第十二帖 (一二)

 

大将を誰も行かれん所へ

連れて行かれんやうに、

上の人、気をつけて呉れよ。

 

この道はちっとも心ゆるせん

まことの神の道ぞ。

 

油断すると神は代りの身魂使うぞ。

 

六月の二十一日の朝、ひつくのか三。

 

 

 

21

上つ巻、第二十一帖 (二一)

 

世の元の大神(かみ)の仕組といふものは、

神々にも分らん仕組であるぞ、

この仕組 分りてはならず分らねばならず、

なかなかに六ヶ敷い仕組であるぞ、

知らしてやりたいなれど、

知らしてならん仕組ぞ。

 

外国がいくら攻めて来るとも、

世界の神々がいくら寄せて来るとも、

ぎりぎりになりたら

神の元の神の神力出して

岩戸開いて

一つの王で治める神のまことの世に

致すのであるから、

神は心配ないなれど、

ついて来れる臣民少ないから、

早う掃除して呉れと申すのぞ、

掃除すれば何事も、

ハッキリと映りて楽なことになるから、

早う神の申すやうして呉れよ。

 

今度はとことはに変らぬ世に致すのざから、

世の元の大神でないと分らん仕組ざ。

洗濯できた臣民から手柄立てさして

うれしうれしの世に致すから、

神が臣民にお礼申すから、

一切ごもく捨てて、

早う神の申すこと聞いて呉れよ。

 

因縁の身魂は

何うしても改心せねばならんのざから、

早う改心せよ、

おそい改心なかなか六ヶ敷ぞ。

 

神は帳面につける様に何事も見通しざから、

神の帳面間違ひないから、

神の申す通りに、

分らんことも神の申す通りに従ひて呉れよ。

 

初めつらいなれど

だんだん分りて来るから、

よく言うこと聞いて呉れよ、

外国から攻めて来て日本の国丸つぶれといふところで、

元の神の神力出して世を建てるから、

臣民の心も同じぞ、

江戸も昔のやうになるぞ、

神の身体から息出来ぬ様にしてゐるが、

今に元のままにせなならんことになるぞ。

 

富士から三十里四里離れた所へ祀りて呉れよ、

富士にも祀りて呉れよ、

富士はいよいよ動くから、

それが済むまでは三十里離れた所へ、

仮に祀りて置いて呉れよ。

 

富士は神の山ざ、

いつ火を噴くか分らんぞ、

神は噴(ふ)かん積りでも、

いよいよとなれば噴かなならんことがあるから、

それまでは離れた所へ祀りて呉れよ、

神はかまはねど、

臣民の肉体大切なから、

肉体もなくてはならんから、

さうして祀りて呉れ。

まつりまつり結構。

 

六月の二十八日、ひつ九のか三。

 

 

 

30

上つ巻、第三十帖 (三〇)

 

富士を開いたら

まだ開くところあるのざ、

 

鳴戸へ行くことあるのざから

このこと役員だけ心得て

置いて呉れよ。

 

七月一の日、ひつくのか三。

 

 

 

39

上つ巻、第三十九帖 (三九)

 

地震かみなり火の雨降らして大洗濯するぞ。

よほどシッカリせねば生きて行けんぞ。

ミカカリが沢山出来て来て、

わけの分らんことになるから、

早く此の理(みち)をひらいて呉れよ。

神界ではもう戦の見通しついてゐるなれど、

今はまだ臣民には申されんのぞ。

改心すれば分りて来るぞ、

改心第一ぞ、

早く改心第一ざ。

ひつくのか三。

 

 

 

48

下つ巻、第六帖 (四八)

 

今までの神示 縁ある臣民に早う示して呉れよ、

神々さま臣民まつろひて言答(いわと)開くもと出来るから、

早う知らせて呉れよ、

誰でも見て読める様に写して神前に置いて、

誰でも読めるやうにして置いて呉れよ、

役員よく考へて、

見せるとき間遠へぬ様にして呉れよ、

 

七月の十五日、ひつくのか三神示。

 

 

 

57

下つ巻、第十五帖 (五七)

 

この方祀りて神示(ふで)書かすのは一所なれど、

いくらでも分け霊(みたま)するから、

ひとりひとり祀りてサニワ作りてもよいぞ。

 

祀る時は先づ鎮守様によくお願いしてから祀れよ、

鎮守様は御苦労な神様ぞ、

忘れてはならんぞ、

この神には鳥居と注連(しめ)は要らんぞ。

追ひ追ひ分かりて来るぞ、

一二七七七七七わすれてはならんぞ、

次の世の仕組であるぞ。

身魂みがけば何事も分りて来ると申してあろがな、

黙ってゐても分るやうに早うなって下されよ、

神の国近づいたぞ。

 

七月の二十一日、ひつ九のか三。

 

 

 

66

下つ巻、第二十四帖 (六六)

 

一が十にと申してありたが、

一が百に、一が千に、一が万になるとき

いよいよ近づいたぞ。

 

秋立ちたらスクリと厳しきことになるから、

神の申すこと一分一厘ちがはんぞ。

 

改心と申すのは、

何もかも神にお返しすることぞ、

臣民のものといふもの何一つもあるまいがな、

草の葉一枚でも神のものぞ。

 

七月の三十日、ひつくのか三。

 

 

 

75

下つ巻、第三十三帖 (七五)

 

親となり子となり夫婦となり、

兄弟(はらから)となりて、

生きかわり死にかわりして御用に使ってゐるのぞ、

臣民同士、世界の民、

みな同胞(はらから)と申すのは喩へでないぞ、

血がつながりてゐるまことの同胞ぞ、

はらから喧嘩も時によりけりぞ、

あまり分らぬと神も堪忍袋の緒切れるぞ、

何んな事あるか知れんぞ、

この道の信者は神が引き寄せると申せば

役員ふところ手で居るが、

そんなことでこの道開けると思ふか。

 

一人が七人の人に知らせ、

その七人が済んだら、

次の御用にかからすぞ、

一聞いたら十知る人でないと、

この御用つとまらんぞ、

うらおもて、よく気つけよ。

 

因縁の身魂はどんなに苦しくとも

勇んで出来る世の元からのお道ぞ。

 

七人に知らしたら役員ぞ、

神が命ずるのでない、

自分から役員になるのぞと申してあろがな、

役員は神のぢきぢきの使ひぞ、

神柱ぞ。

肉体男なら魂(たま)は女(おみな)ぞ、

この道 十(と)りに来る悪魔あるから気つけ置くぞ。

 

八月の三日、ひつ九のか三。

 

 

 

84

富士の巻、第四帖 (八四)

 

一二三(ひふみ)の仕組が済みたら

三四五(みよいづ)の仕組ぞと申してありたが、

世の本の仕組は

三四五の仕組から五六七(みろく)の仕組となるのぞ、

五六七の仕組とは弥勒(みろく)の仕組のことぞ、

獣と臣民とハッキリ判りたら、

それぞれの本性出すのぞ、

今度は万劫末代のことぞ、

気の毒出来るから洗濯大切と申してあるのぞ。

今度お役きまりたら そのままいつまでも続くのざから、

臣民よくこの神示(ふで)よみておいて呉れよ。

 

八月十三日、 Θのひつくのか三。

 

 

 

93

富士の巻、第十三帖 (九三)

 

何もかもてんし様のものではないか、

それなのにこれは自分の家ぞ、

これは自分の土地ぞと申して

自分勝手にしているのが神の気に入らんぞ、

一度は天地に引き上げと知らしてありたこと忘れてはならんぞ、

一本の草でも神のものぞ、

野(ぬ)から生れたもの、

山から取れたもの、

海の幸もみな神に供へてから

臣民いただけと申してあるわけも、

それで分るであろうがな。

 

この神示よく読みてさへ居れば

病気もなくなるぞ、

さう云へば今の臣民、

そんな馬鹿あるかと申すが

よく察して見よ、必ず病も直るぞ、

それは病人の心が綺麗になるからぞ、

洗濯せよ掃除せよと申せば、

臣民 何も分らんから、

あわててゐるが、

この神示よむことが洗濯や掃除の初めで終りであるぞ、

神は無理は言はんぞ、神の道は無理してないぞ、

よくこの神示読んで呉れよ。

 

よめばよむほど身魂みがかれるぞ、

と申しても仕事をよそにしてはならんぞ。

 

臣民と申すものは馬鹿正直ざから、

神示よめと申せば、

神示ばかり読んだならよい様に思うてゐるが、

裏も表もあるのぞ。

 

役員よく知らしてやれよ。

 

八月二十二日、 Θのひつ九のか三のお告。

 

 

 

102

富士の巻、第二十二帖 (一〇二)

 

まつりまつりと、くどく申して知らしてあるが、

まつり合はしさへすれば、

何もかも、うれしうれしと栄える仕組で、

悪も善もないのぞ、

まつれば悪も善ぞ、まつらねば善もないのぞ、

この道理分りたか、

祭典と申して神ばかり拝んでゐるやうでは何も分らんぞ。

 

そんな我れよしでは神の臣民とは申せんぞ、

早うまつりて呉れと申すこと、

よくきき分けて呉れよ。

 

われがわれがと思ふてゐるのは調和(まつり)てゐぬ証拠ぞ、

鼻高となればポキンと折れると申してある道理よく分らうがな、

この御道は鼻高と取りちがひが一番邪魔になるのぞと申すのは、

慢心と取りちがひは調和(まつり)の邪魔になるからぞ。

 

ここまでわけて申さばよく分かるであろう、

何事も真通理(まつり)が第一ぞ。

 

八月の二十九日、Θの一二Θ。

 

 

 

111

天つ巻、第四帖 (一一一)

 

この方は元の肉体のままに生き通しであるから、

天明にも見せなんだのざぞ、

あちこちに臣民の肉体かりて予言する神が沢山出てゐるなれど、

九分九厘は分りて居れども、

とどめの最后は分らんから、

この方に従ひて御用せよと申してゐるのぞ。

砂糖にたかる蟻となるなよ。

 

百人千人の改心なれば、

どんなにでも出来るなれど、

今度は世界中、

神々様も畜生も悪魔も餓鬼も外道も三千世界の大洗濯ざから、

そんなチョロコイ事ではないのざぞ。

 

ぶち壊し出来ても建直し分かるまいがな。

 

火と水で岩戸開くぞ、

知恵や学でやると、グレンと引繰り返ると申しておいたが、

さう云へば知恵や学は要らんと臣民早合点するが、

知恵や学も要るのざぞ。

 

悪も御役であるぞ、

この道理よく腹に入れて下されよ。

 

天の神様 地に御降りなされて、

今度の大層な岩戸開きの指図なされるのざぞ、

国々の神々様、うぶすな様、

力ある神々様にも御苦労になっているのざぞ。

 

天照皇太神宮様初め神々様、

あつくまつりて呉れと申してきかしてあろがな、

神も仏もキリストも元は一つぞよ。

 

八月三十一日、ひつ九のΘ。

 

 

 

120

天つ巻、第十三帖(一二〇)

 

空に変りたこと現はれたなれば

地に変りたことがあると心得よ、

いよいよとなりて来てゐるのざぞ。

 

神は元の大神様に延ばせるだけ延ばして頂き、

一人でも臣民助けたいのでお願ひしてゐるのざが、

もうおことはり申す術(すべ)なくなりたぞ。

 

玉串 神に供へるのは衣(ころも)供へることぞ、

衣とは神の衣のことぞ、

神の衣とは人の肉体のことぞ。

 

臣民をささげることぞ、

自分をささげることぞ、

この道理分りたか。

人に仕へるときも同じことぞ、

人を神として仕へねばならんぞ、

神として仕へると神となるのざから、

もてなしの物出すときは、

祓ひ清めて神に仕へると同様にして呉れよ、

喰べ物 今の半分で足りると申してあるが、

神に献げたものか祓ひ清めて神に献げると

同様にすれば半分で足りるのぞ、

てんのゐへん気つけて居れよ。

神くどう気つけて置くぞ。

 

神世近づいたぞ。

 

九月六日、一二のか三。

 

 

129

天つ巻、第二十二帖(一二九)

 

十柱の世の元からの活神様 御活動になりてゐること分りたであろうがな、

けものの入れものには分るまいなれど、

神の臣民にはよく分りてゐる筈ぞ。

 

まだだんだんに烈しくなりて外国の臣民にも分る様になりて来るのざぞ。

 

その時になりて分りたのではおそいおそい、

早う洗濯いたして呉れよ。

 

八月の九日、ひつ九のか三。

 

 

 

138

第一帖 (一三八)

 

地つ巻 書き知らすぞ、

世界は一つの実言(みこと)となるのぞ、

それぞれの言の葉はあれど、実言(みこと)は一つとなるのであるぞ。

 

てん詞様の実言(みこと)に従ふのざぞ、

命(みこと)の世近づいて来たぞ。

 

九月十五日、一二Θ。

 

 

 

147

地つ巻、第十帖 (一四七)

 

何事も方便と申して自分勝手なことばかり申してゐるが、

方便と申すもの神の国には無いのざぞ。

 

まことがことぞ、まの事ぞ、ことだまぞ。

 

これまでは方便と申して逃げられたが、

も早 逃げること出来ないぞ、

方便の人々早う心洗ひて呉れよ、

方便の世は済みたのざぞ、

いまでも仏の世と思うてゐるとびっくりがでるぞ、

神の国、元の神がスッカリ現はれて富士の高嶺から天地(あめつち)へのりとするぞ、

岩戸しめる御役になるなよ。

 

九月の二十日、ひつ九のか三。

 

 

 

156

地つ巻、第十九帖 (一五六)

 

世成り、神国の太陽足り満ちて、皆みち足り、

神国の月神、世をひらき足り、弥栄にひらき、月光、

総てはみち、結び出づ、道は極みに極む、

一二三(ひふみ)、三四五(みよいづ)、五六七(みろく)、弥栄々々ぞ、

神、仏、耶ことごと和し、和して足り、

太道ひらく永遠(とわ)、富士は晴れたり、

太神は光り出づ、神国のはじめ。

 

九月二十四日、一二Θふみ。

 

 

 

165

地つ巻、第二十八帖 (一六五)

 

神の国には神の国のやり方、

外国には外国のやり方あると申してあらうがな、

戦もその通りぞ、

神の国神の国のやり方せねばならんのざぞ、

外国のやり方真似ては外国強いのざぞ、

戦するにも身魂みがき第一ぞ。

 

一度に始末することは易いなれど、

それでは神の国を一度は丸つぶしにせねばならんから、

待てるだけ待ってゐるのざぞ、

仲裁する国はなく、

出かけた船はどちらも後へ引けん苦しいことになりて来るぞ、

神気つけるぞ。

 

十月六日、ひつくのか三。

 

 

 

174

日月の巻、第一帖 (一七四)

 

富士は晴れたり日本晴れ。

 

Θの巻 書き知らすぞ。

 

此の世に自分の物と云ふ物は何一つないのであるぞ。

 

早う自分からお返しした者から楽になるのざぞ。

 

今度の大洗濯は三つの大洗濯が一度になって居るのざから、

見当取れんのざぞ。

 

神の国の洗濯と外国の洗濯と世界ひっくるめた洗濯と一度になってゐるのざから、

そのつもりで少しでも神の御用務めて呉れよ。

 

此れからがいよいよの正念場と申してあろがな。

 

今はまだまだ一の幕で、せんぐり出て来るのざぞ。

 

我(が)出したら判らなくなるぞ、てんし様おがめよ、てんし様まつりて呉れよ、

臣民 無理と思ふ事も無理でない事 沢山にあるのざぞ、

神はいよいよの仕組にかかったと申してあろがな。

 

毀(こわ)すのでないぞ、練り直すのざぞ。

 

世界を摺鉢(すりばち)に入れて捏(こ)ね廻し、練り直すのざぞ。

 

日本の中に騒動起るぞ。

 

神の臣民 気つけて呉れよ。

 

日本も神と獣に分れているのざから、

 

いやでも応でも騒動となるのざぞ。

 

小さくしたいなれど。

 

旧九月一日、ひつくのか三。

 

 

 

183

日月の巻、第十帖 (一八三)

 

ツギ、アメノトコタチノミコト、

ツギ、クニノトコタチノミコト、

ツギ、トヨクモヌノミコトトナリナリテ、

アレイデタマイ、ミコトスミキリタマヒキ。

 

辛酉(かのととり)の日と年はこわい日で、よき日と申してあろがな。

 

九月八日は結構な日ざが、こわい日ざと申して知らしてありた事少しは判りたか。

 

何事も神示通りになりて、せんぐりに出て来るぞ。

 

遅し早しはあるのざぞ。

 

この度は幕の一ぞ。

 

日本の臣民これで戦済む様に申してゐるが、戦はこれからぞ。

 

九、十月八日、十八日は幾らでもあるのざぞ。

 

三月三日、五月五日はよき日ぞ。

 

恐ろしい日ざぞ。

今は型であるぞ。

 

改心すれは型小(ち)さくて済むなれど、掃除大きくなるぞ。

 

猫に気付けよ、犬来るぞ。

 

臣民の掃除遅れると段々大きくなるのざぞ。

 

神が表に出ておん働きなされてゐること今度はよく判りたであろがな。

 

Θと神との戦でもあると申してあろがな。

 

戦のまねであるぞ。

 

神がいよいよとなりて、びっくり箱開いたら、臣民ポカンぞ。

 

手も足も動かすこと出来んぞ。

 

たとへではないのざぞ。

 

くどう気付けておくぞ。

 

これからがいよいよの戦となるのざぞ、鉄砲の戦はかりでないぞ。

 

その日その日の戦烈しくなるぞ、褌締めて呉れよ。

 

十月二十五日、ひつ九のか三。

 

 

 

 

192

日月の巻、第十九帖 (一九二)

 

今のやり方、考へ方が間違ってゐるからぞ。

洗濯せよ掃除せよと申すのはこれまでのやり方考へ方をスクリと改める事ぞ。

一度マカリタと思へ。

掃除して何もかも綺麗にすれば神の光スクリと光り輝くぞ。

ゴモク捨てよと申してあろがな。

人の心ほど怖いものないのざぞ。

奥山に紅葉(もみじ)あるうちにと申すこと忘れるなよ。

北に気付けよ。

神の詞(よ)の仕組よく腹に入れておいて下されよ。

今度のさらつの世の元となるのざぞ。

 

十一月七日、ひつ九のか三。

 

 

 

201

日月の巻、第二十八帖 (二〇一)

 

岩戸あけたり日本晴れ、富士ひかるぞ。

この巻 役員読むものぞ。

世の元と申すものは火であるぞ、水であるぞ。

くもでて くにとなったぞ。

出雲(いずも)とはこの地(くに)の事ぞ。

スサナルの神はこの世の大神様ぞ。

はじめは「🌀」であるなり、

「🌀」(うご)いて月となり地となりたのざぞ。

アは「🌀」(ヒツキクニ)の神様なり、

(ヨ)は月の神様ぞ「ヨ=〇の中に(ワヤ)の字が書いてある記号」【>読みは(ヨ)】、

クニの神様はスサナルの神様ぞ。

この事はじめに心に入れれば掃除タワイないぞ、

グレンとは上下かへる事と申してあろうがな、

云ふてはならぬ事ぞ。

いはねばならぬ事ぞ。

 

アメのΘつ九のΘ。

 

 

 

210

日月の巻、第三十七帖 (二一〇)

 

天にも あまてらすすめ大神様、あまてらす大神様ある様に、

地にも あまてらすすめ大神様、あまてらす大神様あるのざぞ。

 

地にも月読の大神様 隠れて御座るのざぞ。

 

素盞鳴の大神様 罪穢れ祓ひて隠れて御座るのざぞ。

 

結構な尊い神様の御働きで、何不自由なく暮して居りながら、

その神様あることさへ知らぬ臣民ばかり。

 

これで此の世が治まると思ふか。

 

神々まつりて神々にまつはりて神国のまつりごといたして呉れよ。

 

詰らぬ事申してゐると愈々詰らぬ事になりて来るぞ。

 

十一月三十日、ひつ九の神しらすぞ。

 

 

 

219

日の出の巻、第六帖 (二一九)

 

神界の事は人間には見当取れんのであるぞ、

学で幾ら極め様とて会得(わか)りはせんのざぞ、

学も無くてはならぬが囚はれると悪となるのざぞ、

しもの神々様には現界の事は会得りはせんのざぞ、

会得らぬ神々に使はれてゐる肉体気の毒なから身魂磨け磨けと

執念(くどう)申してゐるのざぞ。

 

三、四月に気つけて呉れよ、どえらい事出来るから何うしても磨いておいて下されよ、

それまでに型しておいて呉れよ。

 

十二月五日、ひつ九のかみ。

 

 

 

228

日の出の巻、第十五帖 (二二八)

 

十柱の神様 奥山に祀りて呉れよ、九柱でよいぞ、

何れの神々様も世の元からの肉体持たれた生き通しの神様であるぞ、

この方合はして十柱となるのざぞ。

 

御神体の石 集めさしてあろがな、篤く祀りて、辛酉(かのととり)の日にお祭りして呉れよ。

 

病あるかないか、災難来るか来ないかは、手届くか届かないかで分ると申してあろがな。

 

届くとは注(そそ)ぐ事ぞ、

手首と息と腹の息と首の息と頭の息と足の息と胸の息と臍の息と脊首(せくび)の息と手の息と

八所十所の息合ってゐれば病無いのざぞ、

災難見ないのざから、毎朝 神拝みてから克く合はしてみよ、

合ってゐたら其日には災難無いのざぞ、

殊に臍の息一番大切ざぞ、

若しも息合ってゐない時には一二三(ひふみ)唱へよ、

唱へ唱へて息合ふ迄 祷(ゐの)れよ、何んな難儀も災難も無くしてやるぞ、

此の方 意富加牟豆美神(オホカムツミノカミ)であるぞ。

 

神の息と合はされると災難、病無くなるのざぞ、大難小難にしてやるぞ、生命助けてやるぞ、

此の事は此の方信ずる人でないと誤るから知らすではないぞ、

手二本 足二本いれて十柱ぞ、手足一本として八柱ぞ、

此の事 早う皆に知らしてどしどしと安心して働く様にしてやれよ。

 

飛行機の災難も地震罪穢の禍も、大きい災難ある時には息乱れるのざぞ、

一二三祝詞と祓え祝詞と神の息吹と息と一つになりておれば災難逃れるのぞ、

信ずる者ばかりに知らしてやりて呉れよ。

 

十二月十八日、ひつ九か三。

 

 

 

237

磐戸の巻、第一帖 (二三七)

 

イワトの巻かき知らすぞよ、イワトひらくには神人共にゑらぎにぎはふのざぞ、

ミカカリして唱ひ舞ふのざぞ、ウズメノミコトいるのざぞ。

 

ウズメとは女(おみな)のみでないぞ、男(おのこ)もウズメざぞ、

女のタマは男、男のタマは女と申してあろがな。

 

ヤミの中で踊るのざぞ、唄ふのざぞ、皆のものウズメとなりて下されよ、

暁(あけ)つげる十理(とり)となりて下されよ、

ミカカリて舞ひ唄ひ下されよ、

ミカカリでないと、これからは何も出来ぬと申してあろがな。

 

十二月三十日、Θの一二Θ。

 

 

 

246

磐戸の巻、第十帖(二四六)

 

悪の仕組は、日本魂をネコソギ抜いて了ふて、

日本を外国同様にしておいて、一呑みにする計画であるぞ。

 

日本の臣民、悪の計画通りになりて、

尻の毛まで抜かれてゐても、まだキづかんか、

上からやり方かへて貰はねば、

下ばかりでは何うにもならんぞ。

 

上に立ちてゐる人、日に日に悪くなりてきてゐるぞ。

 

メグリある金でも物でも持ちてゐたらよい様に思ふてゐるが、

えらい取違ひであるぞ。

 

早う神の申すことききて下されよ。

 

世界の何処さがしても、

今では九九(ここ)より外に、

神のマコトの道知らす所ないのざぞ。

 

此の道の役員、

上から見られん所によきことないと今度の御用、

なかなかにつとまらんぞ、

洗濯急げよ、掃除急げよ、

家の中が治まらんのは女にメグリあるからぞ、

このことよく気付けておくぞ、

村も国々も同様ぞ。

 

女のメグリはコワイのざぞ。

節分からは八回拍手うちて下されよ。

神はげしくなるぞ。

 

一月十二日、Θのひつ九のΘ。

 

 

 

255

磐戸の巻、第十九帖 (二五五)

 

向ふの国いくら物ありても、人ありても、

生神が表に出て働くのざから、

神なき国は、いづれは往生ざぞ。

 

この神の申すことよく肚に入れて、

もうかなはんと申す所こらへて、

またかなはんと申す所こらへて愈よどうにもならんといふ所こらへて、

頑張りて下されよ、

神には何も彼もよくわかりて帳面に書きとめてあるから、

何処までも、死んでも頑張りて下されよ、

其処迄 見届けねば、この方の役目果たせんのざ、

可哀さうなれど神の臣民殿、

こらえこらえてマコト何処迄も貫きて下されよ、

マコトの生神がその時こそ表に出て、

日本に手柄さして、神の臣民に手柄たてさして、

神からあつく御礼申してよき世に致すのであるぞ、

腹帯しっかり締めてくれよ。

 

重ねて神が臣民殿にたのむぞよ、

守護神殿にたのむぞよ。

 

一月十四日、Θのひつ九のか三。

 

 

 

264

キの巻、第七帖 (二六四)

 

物、自分のものと思ふは天の賊ぞ、

皆てんし様の物ざと、

クドウ申してあるのにまだ判らんか。

 

行(おこない)出来て口静かにして貰ふと、

何事もスラリとゆくぞ、

行(ぎょう)が出来ておらんと何かの事が遅れるのざぞ、

遅れるだけ苦しむのざぞ。

 

神の国の半分の所にはイヤな事あるぞ、

洗濯出来た臣民に元の神がうつりて、

サア今ぢゃと云ふとこになりたら、

臣民の知らん働きさして悪では出来ん手柄さして、

なした結構な事かとビックリ箱あくのざぞ。

 

天と地との親の大神様のミコトでする事ぞ、

いくら悪神じたばたしたとて手も出せんぞ、

この世 三角にしようと四角にしようと元のこの方等の心のままぞ。

 

後から来た守護神 先になるから、

今の役員さうならん様に神示で知らしてあるのざから、

よく裏の裏まで読んで肚に入れて、

何一つ分らん事ない様にして呉れよ、今に恥づかしい事になるぞ。

 

元の大和魂の誠の身魂揃ふたら、

人は沢山なくても この仕組成就するのざと申してあろが、

末代動かぬ世の元の礎きづくのざから、

キマリつけるのざから、気つけおくぞ。

 

キが元と申してあろがな、

上は上の行、中は中、下は下の行ひ、作法あるのざぞ、

マゼコゼにしてはならんぞ、

この中からキチリキチリと礼儀正しくせよ。

 

三月十一日、ひつ九の神。

 

 

 

273

キの巻、第十六帖 (二七三)

 

元津神代の道は満つ、一時は闇の道、ひらき極み、

富士の代々、鳴り成るには弥栄に変わり和すの道、道は弥栄。

 

ひふみ道出で睦び、月の神 足り足りて成り、新しき大道みつ。

 

神々みち、ゑらぎ百千万のよきこと極む。

 

いよいよとなり、何も彼も百千とひらき、道栄え道極み進み、道極み真理の真理極む。

 

元の光の神々ゑらぎ、更に進む世、和合まずなりて百(もも)の世極みなる。

 

世に光る神々の大道、神々ことごとにゑらぎて大道いよいよ展き進みて、

大真理世界の三つは一と和し、

鳴り成りて始めて、まことの愛の代 極み来る、

弥栄の代の神、人、神人わけへだてなく光り輝き、

道は更に極みの極みに進み動き、

ありとあることごとくの成り結び、

更に新しく更に極むるの大道、神代歓喜の代々。

 

三月二十日、ひつ九の神。

 

 

 

282

水の巻、第八帖 (二八二)

 

鎮座は六月の十日であるぞ。神示書かしてまる一年ぞ。

神示で知らしてあろが、それからがいよいよの正念場ざぞ。

 

びっくり箱あくぞ。

 

五月四日、みづのひつ九のか三。

 

 

 

291

水の巻、第十七帖 (二九一)

 

カイの御用はキの御用であるぞ。

臣民はミの御用つとめて呉れよ。

キとミの御用であるぞ。

 

ミの御用とは体(からだ)の御用であるぞ。

身 養ふ正しき道開いて伝へて呉れよ。

今迄の神示読めばわかる様にしてあるぞ。

キの御用に使ふものもあるぞ。

 

キミの御用さす者もあるぞ、お守りの石どしどしさげてよいぞ。

水の巻これで終りぞ。

 

六月二十三日、三(みず)の一二Θ。

(水の巻了)

 

 

 

300

松の巻、第九帖 (三〇〇)

 

悪のやり方は始めはどんどん行くなれど、九分九厘でグレンぞ、

善のやり方 始め辛いなれど先行く程よくなるぞ。

 

この世に何一つ出来んと云ふことない此の方のすることぞ。

 

云ふ事聞かねば、きく様にしてきかすぞ。

 

因縁だけのことはどうしてもせねば、今度の峠は越せんのざぞ。

 

ここの役員は皆因縁ミタマばかり、苦労しただけお蔭あるぞ。

 

六月二十四日、あめのひつ九のかみしるす。

 

 

 

309

松の巻、第十八帖 (三〇九)

 

人民同士の戦ではかなはんと云ふ事よく判りたであろがな。

 

神と臣民融け合った大和魂でないと勝てんことぞ。

悪神よ。

日本の国を此処までよくも穢したな、

これで不足はあるまいから、

いよいよ此の方の仕組通りの、とどめにかかるから、

精一杯の御力でかかりて御座れ。

 

学問と神力の、とどめの戦ざぞ。

 

七月三日、あめのひつ九のかみ。

 

 

 

318

松の巻、第二十七帖 (三一八)

 

天も地も一つにまぜし大嵐、

攻め来る敵は駿河灘(するがなだ)、

富士を境に真二つ。

 

先づ切り取りて残るもの、七つに裂かん仕組なり。

 

されど日本は神の国

 

最後の仕組神力に、寄せ来る敵は魂まで、

一人残らずのうにする。

夜明けの御用つとめかし。

 

晴れたる富士のすがすがし。

 

七月十四日、あめのひつくのかみ。

 

 

 

327

夜明けの巻、第七帖 (三二七)

 

神の臣民に楽な事になるぞ。

理屈無い世にするぞ。

 

理屈は悪と申してあろが、理屈ない世に致すぞ。

 

理屈くらべのきほひ無くして仕舞ふぞ。

 

人に知れん様によいことつとめと申してあろが。

人に知れん様にする好い事 神こころぞ。

神のした事になるのざぞ。

 

行けども行けども白骨と申したが、

白骨さへなくなる所あるぞ。

 

早よ誠の臣民ばかりで固めて呉れよ。

 

神世の型 出して呉れよ。

 

時、取違へん様に、時、来たぞ。

 

八月一日、あめのひつく神。

 

 

 

336

アメの巻、第二帖 (三三六)

 

天の大神様は慈悲深くて何んな偉い臣民にも底知れぬし、

地の大神様は力ありすぎて、人民には手におへん見当取れん、

そこで神々様を此の世から追い出して悪神の云ふこと聞く人民許り

となりてゐたのであるぞ。

 

七五三(しめ)は神々様をしめ込んで出さぬ為のものと申してある事

これで判るであろがな、

鳥居は釘付けの形であるぞ、

基督(キリスト)の十字架も同様ぞ、

基督信者よ改心致されよ、

基督を十字架に釘付けしたのは、

そなた達であるぞ、懺悔せよ、

〇とは外国の事ぞ、Θが神国の旗印ぞ、

神国と外国との分けへだて誤ってゐるぞ。

 

大き心持てよ、かがみ掃除せよ、

上中下三段に分けてある違ふ血統(ちすじ)を段々に現すぞよ、

びっくり箱あくぞ、

八九の次は「+」であるぞよ。

 

何事もウラハラと申してあろが、

ひとがひとがと思ってゐた事 我の事でありたであろがな、

よく神示読んでおらんと、キリキリ舞ひせんならんぞ、

日本が日本がと思って居た事 外国でありた事もあるであろがな、

上下ひっくり返るのざぞ、判りたか。

 

餓鬼までも救はなならんのであるが、

餓鬼は食物やれば救はれるが、

悪と善と取違へてゐる人民、守護神、神々様 救ふのはなかなかであるぞ、

悪を善と取違へ、天を地と信じてゐる臣民人民なかなかに改心六ヶ敷いぞ。

 

我と改心出来ねば今度は止むを得ん事出来るぞ、

我程偉い者ないと天狗になりてゐるから気を付ける程

悪ふとりてゐるから、

こんな身魂は今度は灰ざぞ、

もう待たれん事になったぞ。

 

十月の十四日、ひつ九のかみしるす。

 

 

 

345

アメの巻、第十一帖 (三四五)

 

日の出の神様お出ましぞ、日の出はイであるぞ、

イの出であるぞ、キの出であるぞ、判りたか。

 

めんめめんめに心改めよと申してあろがな、

人民と云ふ者は人に云はれては腹の立つ事あるものぢゃ、

腹立つと邪気起るから めんめめんめに改めよと、くどう申すのぢゃぞ、

智や学ではどうにもならんと云ふ事よく判りておりながら、

未だ智や学でやる積り、神の国の事する積りでゐるのか。

 

判らんと申して余りでないか、

何事も判った臣民 口に出さずに肚に鎮めておけよ、

言ふてよい時は肚の中から人民びっくりする声で申すのざ、

神が申さすから心配ないぞ、それまでは気(ケ)も出すなよ。

 

二十二日の夜に実地が見せてあろうがな、

一所だけ清いけがれん所残しておかな足場なく、

こうなってはならんぞ、

カタ出さねばならんぞ、神国、神の子は元の神の生神が守ってゐるから、

愈々となりたら一寸の火水で うでくり返してやる仕組ざぞ、

末代の止(とど)めの建替であるから、

よう腰抜かさん様 見て御座れ、

長くかかりては一もとらず二もとらさず、

国は潰れ、道は滅びてしもうから早う早うと気もない時から気つけてゐるのぢゃが、

神の申すこと聞く臣民人民まだまだぞ。

 

此の道 難しい道でないから その儘に説いて聞かしてやれよ、

難し説くと判らん様になるのぞ。

 

平とう説いてやれよ、難しいのは理屈入るのざぞ、

難しい事も臣民にはあるなれど理屈となるなよ、

理屈悪ざぞ。霊術も言霊(ことだま)もよいなれど程々に、

三分位でよいぞ、中行かな行かれんのざぞ、

銭儲けて口さへすごして行けばよい様に今の臣民まだ思ってゐるが、

それは四つ足の四つの悪の守護である位

判りておろがな。

 

悪とは他を退ける事であるぞ、

まつりまつりとくどう申してあること未だ判らんのか、

今 外国よいと申してゐる臣民は外国へ行っても嫌はれるぞ、

外国にも住むところ無くなるぞ、外国も日本もないのざぞ、

外国とは我よしの国の事ぞ、

神国は大丈夫ざが、

外国や日本の国 大丈夫とは申されんぞ、

と事分けて申してあろがな、

日月の集団作り、境界作ってもならんが「ゝ」入れた集団作らなならんぞ、

「〇」 も作らず「ゝ」も入らずに力出ない位 判りておろがな、

馬鹿正直ならんと申してあること忘れたのか、

集団のつくり方知らしてあろが、

盲(めくら)には困る困る。

 

人の苦労あてにして我が進んで苦労せん様な人民では神の気感(きかん)に適はんから、

今度は苦労のかたまりの花咲くのざ、

苦の花咲くのざぞ、

二二に 九(コ)の花咲耶姫の神 祀りて呉れと申してあろがな、

永遠にしぼまん誠の花咲く世来たぞ。

 

十二月七日、ひつくのか三。

 

 

 

354

カゼの巻、第三帖 (三五四)

 

愈々の大建替は国常立の大神様、豊雲野の大神様、

金の神様、竜宮の乙姫様、先づ御活動ぞ。

 

キリギリとなりて岩の神、雨の神、風の神、荒の神様なり、次に地震の神様となるのざぞ。

 

今度の仕組は元のキの生き神でないとわからんぞ、

中津代からの神々様では出来ない、わからん深い仕組ざぞ、

猿田彦殿、天鈿女命(あめのうずめのみこと)殿、

もとのやり方では世は持ちて行けんぞ。

 

今一度 悪栄えることあるぞ、

心して取違ひない様にいたされよ。

口と心と行ひとで神示とけよ、堂々説けよ。

 

一月四日、一二のかみ。

 

 

 

363

カゼの巻、第十二帖 (三六三)

 

日本の人民 餌食(えじき)にしてやり通すと、

悪の神申してゐる声 人民には聞こへんのか。

 

よほどしっかりと腹帯締めおいて下されよ。

 

神には何もかも仕組てあるから、心配ないぞ。

 

改心出来ねば気の毒にするより方法ないなれど、

待てるだけ待ってゐるぞ、

月の大神様が水の御守護、

日の大神様が火の御守護、

お土つくり固めたのは、大国常立の大神様。

 

この御三体の大神様、三日この世構ひなさらねば、

此の世、くにゃくにゃぞ。

 

実地を世界一度に見せて、世界の人民一度に改心さすぞ。

 

五十になっても六十になっても、

いろは、一二三(ひふみ)から手習ひさすぞ。

 

出来ねばお出直しぞ。

 

慢心、早合点 大怪我のもと、

今の人民、血が走り過ぎてゐるぞ、

気付けおくぞ。

 

二月十六日、ひつ九のか三。

 

 

 

372

一八(イハ)の巻、第七帖 (三七二)

 

この神の許へ来て信心さへして居たら

よい事ある様に思ふてゐるが、

大間違ひざぞ。

 

この方の許へ参りて

先づ借銭なしに借銭払ひして下されよ。

 

苦しいこと出来て来るのが御神徳ぞ。

 

この方の許へ来て悪くなったと云ふ人民

遠慮いらん、帰りて呉れよ。

 

そんな軽い信心は信心ではないぞ。

 

結構な苦しみがわからん臣民一人も要らんのぞ。

 

しかと褌締めてついて御座れよ。

 

此の方 悪神とも見えると申してあらうがな。

 

わかりてもわからん、出来ん事致さすぞ、

神が使ふのざから楽でもあるのざぞ。

 

静かに神示よく肚に入れて御用して下されよ。

 

神の道 光るぞ。

旧一月十五日、一二Θ。

 

 

 

381

二日ん(ジシン)の巻、第四帖 (三八一)

 

同気同類の霊人は、

同一の情態で、同じ所に和し、弥栄え、

然らざるものは、その内蔵するものの度合に正比例して遠ざかる。

 

同類は相寄り、相集まり、睦び栄ゆ。

 

生前の世界は、地上人の世界の原因であり、

主体であるが、また死後の世界に通ずる。

 

同気同一線上にいる霊人たちは、

且って一度も会せず語らざるも、

百年の友であり、兄弟姉妹である如くに、

お互いに、その総てを知ることができる。

 

生前の世界に於ける、

かかる霊人が肉体人として生れ出でた場合の多くは、

同一の思想系をもつ。

 

但し、地上人としては、

時間と空間に制限されるが故に相会し、

相語られざる場合も生じてくる。

 

また、生前の生活と同様のことを繰り返すこともある。

 

霊人の同一線上にある場合は、

その根本的容貌は非常に似ているが、

部分的には相違し、同一のものは一つとしてない。

 

そこに、存在の意義があり、真実の道が弥栄え、

愛を生じ、真が湧き出てくるのである。

 

生前の霊人の場合は、

自分自身のもつ内の情動はそのままに、

その霊体の中心をなす顔面に集約され、

単的に現われていて、

いささかも反する顔面をもつことは許されない。

 

一時的に満たすことはできても、長くは続かない。

 

この情態の原理は、地上人にも、反影している。

 

生前の世界は、以上の如くであるから、

同一状態にある霊人が多ければ、

その団体の大きく、少なければ、その集団は小さい。

 

数百万霊人の集団もあれば、

数百、数十名で一つの社会をつくる団体もある。

 

各々の団体の中には、

また特に相似た情動の霊人の数人によって、

一つの家族的小集団が自らにしてでき上がっている。

 

そしてまた、各々の集団の中心には、

その集団の中にて最も神に近い霊人が座を占め、

その周囲に幾重にも、

内分の神に近い霊人の順に座をとりかこみ運営されている。

 

若しそこに、

一人の場所、位置、順序の間違いがあっても、

その集団は呼吸しない。

 

而して、

それは一定の戒律によって定められたものではなく、

惟神の流れ、則ち歓喜によって自ら定まっているのである。

 

またこれら集団と集団との交流は、地上人の如く自由ではない。

 

総てはf:id:satonory4949:20200319171350g:plainのゝを中心として f:id:satonory4949:20200319171350g:plainの姿を形成しているのである。

 

 ゝと〇とを、生前の世界に於て分離することは極めて至難ではあるが、

或る段階に進むときは一時的に分離が生ずる。

 

しかし、この場合もゝはゝであり〇は〇である。

 

これが地上世界の行為に移りたる場合は、

不自由不透明な物質の約束があるため、

その分離、乱用の度が更に加わって、

真偽混乱に及ぶものである。

 

悪人が善を語り、善をなし、

真を説くことが可能となるが如く写し出されるのである。

 

生前界では、悪を意志して悪を行なうことは、

御用の悪として自ら許されている。

 

許されているから存在し行為し現われているのである。

 

この場合の悪は、

悪にあらずして f:id:satonory4949:20200319171350g:plain  の〇であることを知らねばならない。

 

即ち、道を乱すが故である。

 

地上人の悪人にも善人にも、

それは強く移写される。

 

愛は真により、真は愛により向上し、弥栄する。

 

その根底力をなすは歓喜である。

 

故に、歓喜なき所に真実の愛はない。

 

歓喜の愛は、これを愛の善と云う、

歓喜なき愛を、愛の悪と云うのである。

 

その歓喜の中に、

また歓喜があり、真があり、真の真と顕われ、f:id:satonory4949:20200319171350g:plainとなり、

ゝと集約され、その集約のゝの中にf:id:satonory4949:20200319171350g:plain を生じ、

更に尚ゝと弥栄ゆる。

 

生前の世界、死後の世界を通じて、

一貫せる大神の大歓喜の流れ行く姿がそれである。

 

大神は常に流れ行きて、一定不変ではない。

 

千変万化、常に弥栄する姿であり、大歓喜である。

 

完成より大完成へ向い進む大歓喜の呼吸である。

 

されど、地上人に於ては、地上的物質に制限され、

物質の約束に従わねばならぬ。

 

其処に時間を生じ、距離を生じ、

これを破ることはできない。

 

故に同時に、善と悪との両面に通じ、

両面に生活することとなるのである。

 

其処に、

地上人としての尊きかなしさが生じてくる。

 

霊人に於ては、

善悪の両面に住することは、原則として許されない。

 

一時的には仮面をかむり得るが、

それは長くつづかず、自分自身 耐え得ぬこととなる。

 

地上人と雖(いえど)も、

本質的には善悪両面に呼吸することは許されていない。

 

しかし、悪を抱き参らせて、

悪を御用の悪として育て給わんがために課せられたる地上人の

光栄ある大使命なることを自覚しなければならない。

 

悪と偽に、同時にはいることは、

一応の必要悪、必要偽として許される。

 

何故ならば、それがあるために弥栄し、進展するからである。

 

悪を殺すことは、善をも殺し、神を殺し、歓喜を殺し、

総てを殺す結果となるからである。

 

霊物のみにて神は歓喜せず、

物質あり、物質と霊物との調和ありて、始めて力し、

歓喜し、弥栄するからである。

 

霊は絶えず物を求め、物は絶えず霊を求めて止まぬ。

 

生長、呼吸、弥栄は、そこに歓喜となり、

神と現われ給うのである。霊人も子を生むが、

その子は歓喜である。歓喜を生むのである。

 

 

 

390

二日ん(ジシン)の巻、第十三帖 (三九〇)

 

地上人が、限りなき程の想念的段階をもち、

各々の世界をつくり出している如く、

霊界にも無限の段階があり、

その各々に、同一想念をもつ霊人が住んでおり、

常に弥栄しつつある。

 

下級段階で正なりとし、善を思い、美を感じ、真なりと信じ、愛なりと思う、

その想念も上級霊界に於ては必ずしもそうではない。

 

美も醜となり、愛も憎となり、善も真も そのままにして善となり、

真と現われ得ない場合がある。

 

其処に偉大にして、はかり知られざる弥栄の御神意がある。

と同時に、「+」(真善)f:id:satonory4949:20200125143843g:plain  (真善美愛)  f:id:satonory4949:20200125143817g:plain歓喜)  f:id:satonory4949:20200125143817g:plain(大歓喜)と

現われる神秘なる弥栄があり、

悪の存在、偽の必然性などが判明するのである。

 

故に、下級霊人との交流は、

地上人にとっても、霊人にとっても、

極めて危険極まりないものではあるが、

半面に於ては、極めて尊いものとなるのである。

 

下級霊人自身が  🌀(善)(「の」の2回書き)なりと信じて行為することが、

地上人には  🌀(悪)(「逆の」の2回書き)と現われることが多いのである。

 

何故ならば、かかる下級霊と相通じ、感応し合う内的波調をもつ地上人は、

それと同一線上にある空想家であり、

極めて狭い世界のカラの中にしか住み得ぬ性をもち、

他の世界を知らないからである。

 

それがため、感応してくる下級霊の感応を、

全面的に信じ、唯一絶対の大神の御旨なるが如くに独断し、

遂には、自身自らが神の代行者なり、

と信ずるようになるからである。

 

所謂(いわゆる)、無き地獄をつくり出すからである。

 

地獄的下級霊の現われには、多くの奇跡的なものをふくむ。

 

奇跡とは大いなる動きに逆行する動きの現われであることを

知らねばならない。

 

かかる奇跡によりては、霊人も地上人も向上し得ない。

 

浄化し、改心し得ないものである。

 

また、霊人と地上人との交流によるのみでは向上し得ない。

 

脅迫や、賞罰のみによっても向上し得ない。

 

総て戒律的の何ものによっても、

霊人も地上人も何等の向上も弥栄も歓喜もあり得ない。

 

半面、向上の如くに見ゆる面があるとも、

半面に於て同様の退歩が必然的に起ってくる。

 

それは強(シ)いるが為である。

 

神の歓喜には、強いることなく、戒律する何ものもあり得ない。

 

戒律あるところ必ず影生じ、

暗(闇?)を生み出し、カスが残るものである。

 

それは、大神の内流によって弥栄する世界ではなく、

影の世界である。

 

中心に座す太神のお言葉は、

順を経て霊人に至り、地上人に伝えられるのであるが、

それはまた霊界の文字となって伝えられる。

 

霊界の文字は、主として直線的文字と曲線的文字の二つから成る。

 

直線的なものは、月の霊人が用い、

曲線的な文字は、太陽の霊人が使用している。

 

但し、高度の霊人となれば文字はない。

 

ただ文字の元をなす「ゝ」と「〇」と「+」があるのみ。

 

また高度の霊界人の文字として、

殆ど数字のみが使用されている場合もある。

 

数字は、他の文字に比して多くの密意を蔵しているからである。

 

しかし これは不変のものではなく、

地上人に近づくに従って漸次変化し、

地上人の文字に似てくるのである。

 

 

 

399

 

 

まぜまぜ 六九一~七二〇

ひふみ神示 まぜまぜの第六九一帖~第七二〇帖

 

 

第二十七巻 春の巻

全六十帖・通し番号(六五八)~(七一七)のうち(六九一)~(七一七)

自  昭和二十七年旧一月 一日

至  昭和二十七年 二月十五日

 

 

第二十八巻 夏の巻

全二十五帖・通し番号(七一八)~(七四一)のうち(七一八)~(七二〇)

自  昭和二十七年 三月 三日

至  昭和二十七年 三月 八日

 

 

691>720

春の巻、第三十四帖(六九一)

 

自分は自分の意志で生れたのではないのぢゃ。

 

その時、その環境を無視出来ん。

 

その法則に従はねばならん。

 

草を拝めば草が神となり、機械拝めば機械が神ぢゃ。

 

食物拝めば食物が神となる。

 

心せよ。

 

神は人民を根本から永遠の意味でよくしようと、

マコトの喜び与へようとしてゐるのぢゃ。

 

局都的、瞬間的に見て判らんこと多いぞ。

 

おかげは、すぐにはないものと思へ。

 

すぐのおかげは下級霊。

 

まゆにつばせよ、考へよ。

 

現在の環境を甘受せよと申してあるが、甘受だけでは足らん。

 

それに感謝せよ。

 

積極的に感謝し、天地の恩に報じねばならん。

 

誠の真理を知らぬ人間に神は判らん。

 

 

夏の巻、第三帖(七二〇)

 

人間は神と共に自分自身で生長して行かなならん。

 

人間から見れば全智全能の神、あるのであるぞ。

 

このことよく判りて下されよ。

 

マコトの理解と迷信との別れる大切ことぞ。

 

 

692>719

春の巻、第三十五帖(六九二)

 

念じつつやれ。

 

神の為と念じつつやれば神のためとなる。

 

小さい行為でも霊的には大きはたらきするのぢゃ。

 

自分と云ふことが強くなるから発展ないのぢゃ。

 

行き止まるのぢゃ。

 

われよしとなるのぢゃ。

 

調和が神の現れであるぞ。

 

霊と調和せよ。

 

肉体と調和せよ。

 

人と調和せよ。

 

食物、住居と調和せよ。

 

世界と調和せよ。

 

うれしうれしぞ。

 

一生かかってもよいぞ。

 

おそくないのぢゃ。

 

自分の中のケダモノのため直しにかからねばならん。

 

悪いくせ直さねばならん。

 

これが第一歩、土台ぢゃぞよ。

 

よきことは 人にゆづりて 人をほめ 人たてるこそ 人の人なる。

 

敬愛の まこと心に まことのり まこと行ふ 人ぞ人なる。

(春立つ日、ひつく神)

 

 

夏の巻、第二帖(七一九)

 

ゝがよろこびであるぞ。またゝのゝはムでもあるぞ。

 

内から外に向って行くのがΘのやり方、

外から内に向って行くのが、がいこくのやりかた。

 

〇からゝに行くのは、マコトが逆であるから、マコトのことは判らん。

 

外から行く宗教や哲学や科学が元を判らなくしてゐるのぢゃ。

 

元わからんで生きのいのちの判る筈ないぞ。

 

今の世は逆様ぢゃ。

 

先祖から正せよ。

 

原因から正して行かなならんぞ。

 

Θから出てゝにかへり、無限より出て有限に形し、

有限から無限にかへり、又有限に動くのがマコトのやり方であるぞ。

 

マコトの理解者には甘露の水ぞ。

 

 

693>718

春の巻、第三十六帖(六九三)

 

何事に向っても先づ感謝せよ。

 

ありがたいと思へ。

 

始はマネごとでもよいぞ。

 

結構と思へ。

 

幸と思へ。

 

そこに神の力 加はるぞ。

 

道は感謝からぞ。

 

不足申せば不足うつるぞ。

 

心のままとくどう申してあろうが。

 

病気でないと思へ。

 

弥栄と思へ。

 

病治るモト生れるぞ。

 

キがもとぞ。

 

何事くるとも何クソと思へ。

 

神の力 加はるぞ。

 

おそれはおそれ生むぞと申してあろうが。

 

一聞いて十さとらねばならんぞ。

 

今の人民には何事も平面的に説かねば判らんし、

平面的では立体のこと、次元の違ふことは判らんし、

ハラでさとりて下されよと申してあろう。

 

 

夏の巻、第一帖(七一八)

 

与へられたもの、

そのもの喜ぶようにすれば楽にゆけるよう、

暮しむきもたのしたのしで暮せるようになってゐるぞ。

 

あり余る程 与へてあるでないか。

 

生かして使へよ。

 

生活に何故アクセクするのぢゃ。

 

与へてあるもの殺すから自分も死の苦しみするのぢゃ。

 

有限でなければモノは顕われないぞ。

 

モノに顕わすと有限となるのぢゃ。

 

総てに感謝せよと申してあろうが。

 

総てのものに、それ相当の意義あるぞ。

 

全体的には喜びせねばならん。

 

愛をもって接しなければならん。

 

信をおかねばならん。

 

ぢゃと申して局部々々に於ては、

それぞれ、その時に応じて処理せねばならん。

 

只その場合は、ゆとりをもって処理せよ。

 

綱長くしておかねばならん。

 

 

694>717

春の巻、第三十七帖(六九四)

 

相手八と出たら二と受けよ。

 

人民と申すものはモノに囚われるから何事も判らんから、

十二と出、二十と出、三十六と出たらポカンとして判らんことになるぞ。

 

十二と出たら一段ケタ上げて八十八と受けよ。

 

又十二と受けるテもあるぞ。

 

二十と出たら八十と和せよ。

 

立体になれば それだけ自由になるのざ。

 

世界広くなるのぞ。

 

早う立体さとりくれよ。

 

 

春の巻、第六十帖(七一七)

 

一九三九 (ヒクミチコト)。

 

一九三九 (ヒクミチコト)。

 

一九三(ヒクミチ)。

 

四九三(ジクミチ)。

 

四九三(ジクミチ)。(二月十五日、日月神

(春の巻了)

 

 

695>716

春の巻、第三十八帖(六九五)

 

f:id:satonory4949:20200422150608g:plainの次にf:id:satonory4949:20200125135415g:plainがあり、その次にf:id:satonory4949:20200125135408g:plainがあり、 十あると申してあろう。

 

立体から複立体、複々立体、立立体と申してあろうが。

 

×と÷と和せばf:id:satonory4949:20200422150727g:plainとなるぞ。

 

複立体であるぞ。

 

f:id:satonory4949:20200125135415g:plain が複々立体、f:id:satonory4949:20200422150608g:plainが立立体ぞ。

 

f:id:satonory4949:20200215124047g:plainがその元であるぞ。

 

判りたか。

 

f:id:satonory4949:20200215124047g:plainとなれば超自由、超自在、超無限ぞ。

 

それだけに又超完成であるぞ。

 

超未完成でもあるぞ。

 

神は全智全能から超全智全能に弥栄してゐるぞ。

 

六ヶ敷いようなれど、このことよく判りて下されよ。

 

新しき段階に入る門ぞ。

 

 

春の巻、第五十九帖(七一六)

 

一足飛びには行かん。

 

一歩々々と申してあろう。

 

一度に神様を知りたいと申してもさうは行かん。

 

一年生からぢゃ。

 

出直し出直し。

 

子供に大学のことは判らん。

 

十貫の荷物はかつげん道理。

 

進むには、それ相当の苦労と努力いるぞ。

 

あぐらかいて、ふところ手してゐては出来ん。

 

時もいるぞ。

 

金もいるぞ。

 

汗もいるぞ。

 

血もいるぞ。

 

涙もいるぞ。

 

よいもの程 値が高い。

 

今を元とし自分をもととして善ぢゃ悪ぢゃと申してはならん。

 

よき人民 苦しみ、悪い人民 楽している。

 

神も仏もないのぢゃと申してゐるが、それは人民の近目ぞ。

 

一方的の見方ぞ。

 

長い目で見よと申してあろうが。

 

永遠のことわり わきまへよと申してあろうが。

 

支払い窓は金くれるところ、預け口は金とるところ。

 

同じ銀行でも部分的には、逆さのことしてゐるでないか。

 

全体と永遠を見ねば ものごとは判らんぞ。

 

よく心得よ。(二月十五日、日月神

 

 

696>715

春の巻、第三十九帖(六九六)

 

道は三つと申してあろう。

 

三とは参であるぞ。

 

3(スリー)でないぞと申してあろう。

 

無限であるぞ。

 

平面的に申せば右と左とだけでないぞ。

 

その右の外に、又 左の外に道でなき道あるぞ。

 

それを善の外道、悪の外道と申す。

 

外道多いのう。

 

中の中には中の道あるぞ。

 

中の中のゝは無であるから動きないぞ。

 

動きないから無限の動きぢゃ。

 

そのゝの外の中は人民にも動きみゆるぞ。

 

この道は中ゆく道ざと申してあろうが、

中のゝの道は太神の道、中行く道が神の道、

中の道が人の道ぢゃ。

 

判りたか。

 

 

春の巻、第五十八帖(七一五)

 

心の洗濯 早ういたして 太f:id:satonory4949:20200215124047g:plainf:id:satonory4949:20200215124049g:plain(オオヒツキ)太神様に、

殊に育ての、

生みの親さま 九二十九十千(クニトコタチ)の大神様の御実体を理解せねば、

自分でいくら頑張ってもやりそこないぢゃ。

 

われがわれがと思ふてゐるなれど、

皆このほうがかげからさしてゐるのに気づかんのか。

 

おわびせよ。

 

と申せば、そんな悪いことした覚えないと申すが、何処迄くもったのぢゃ。

 

神にささげるには、

自分に与へられたものの中から ささげねばならんぞ。

 

むさぶり取ったり横取りしたり、

自分のものでないもの、

もうけたカスを神にささげて威張ってゐるが、

それはささげ物にならん。

 

神は受け給わんぞ。

 

泥棒のお残りちょうだいは真平ぢゃ。

 

自分のもの先づささげるから弥栄えるのぞ。

 

おかげ万倍間違ひなし。

 

 

697>714

春の巻、第四十帖(六九七)

 

思想と申すのは広い意味で、太神から出てゐるのではあるが、

幽界からの力が強く加わってゐるのぢゃ。

 

ネンと申すのは神界からの直々であるぞ。

 

悪の気、断たねばネンとはならんぞ。

 

 

春の巻、第五十七帖(七一四)

 

後にも先にもない、みせしめ出てくるぞ。

 

めぐりひどい所ほど、ひどい見せしめ。

 

神がまこと心見抜いたら どんな手柄でも致さすぞ。

 

自分でびっくり。

 

まことの人程おかげおそい、おそい程 大きおかげあるぞ。

 

同じ筋のミタマ沢山にあるのぢゃ。

 

類魂と人民申してゐるもの。

 

いくら因縁あっても曇りひどいと、

その類魂の中から次々に代りのミタマ使ふ仕組。

 

兎や角申さずに素直について御座れ。

 

 

698>713

春の巻、第四十一帖(六九八)

 

天には天の道、地には地の道、人民には人民の道あると申してあろう。

 

同じ道であるが違ふのぞ。

 

地にうつし、人民にうつす時は、地の約束、人民の約束に従ふのぞ。

 

約束は神でも破れんのであるぞ。

 

次元違ふのであるから違ってくるぞ。

 

違ふのが真実であるぞ。

 

それを同じに説いたのが悪の教。

 

同じと思ふのが悪の考へ方であるぞ。

 

上から来るものは光となって流れてくるのざ。

 

光に本来影はないのであるが、動くから影がうまれる。

 

それを影でない影と申すぞ。

 

悪でない悪あると申してあろうがな。

 

天には天の自由、地には地の自由、

神には神の、人民には人民の、

動物には動物の、それぞれの自由あるぞ。

 

その性の高さ、清さ、大きさなどによって、

それぞれの制限された自由あるぞ。

 

自由あればこそ動くぞ。

 

自由とは弥栄のこと。

 

光は神から人民に与へられてゐる。

 

光に向かふから照らされる。

 

光は、ゝ、真、善、美、愛となり、

又そのうらの〇、疑、悪、醜、憎となり現はれるぞ。

 

御用の善となり、御用の悪となる。

 

悪にくむは外道の善、

外道とは上からの光が一度人民界にうつり、

人民界の自由の範囲に於ける凸凹にうつり、

それが再び霊界にうつる。

 

それが幽界と申してあらう。

 

その幽界から更に人民界にうつったものが外道の善となり、

外道の悪となるのざ。

 

善にも外道あるぞ。

 

心得よ。

 

光は天のみでなく、地からも人民からも、

すべて生命あるものから出てゐるのであるが、

その喜びの度に正比例してのものであるから、

小さい生命からの光は判らんのであるぞ。

 

 

春の巻、第五十六帖(七一三)

 

行く水にも雲にも咲く花にも神のみ心あるぞ。

 

それ見る目ないからわからんのぢゃ。

 

掃除すれば判る。

 

掃除結構。

 

拝むは拝まんよりはましであるぞ。

 

しかし拝んでばかりでは病気は治らん。

 

金はもうからん。

 

拝むばかりで金もうけ出来たり病気治ったりすると思ふたら間違ひぞ。

 

理(ミチ)にいそしめ。

 

理(ミチ)ゆくところ喜びあるぞ。

 

喜びあるから病気も治るのぢゃ。

 

金も出てくるのぢゃ。

 

おかげあるのぢゃ。

 

喜び神ぢゃ。

 

タテには神と神界と和し、

ヨコには人と環境と大和して行くところにこそ、

生きの生命のウレシウレシあるのであるぞ。

 

 

699>712

春の巻、第四十二帖(六九九)

 

いくさは善にもあり、悪にもあり、

右には右の、左には左の、

上には上の、下には下の、

中には中の、外には外のいくさあるぞ。

 

新しき御代が到来しても いくさはなくならん。

 

いくさも歩みぞ。

 

弥栄ぞ。

 

ぢゃと申して今のような外道のいくさでないぞ。

 

人殺し、生命殺すようないくさは外道。

 

やればやる程はげしくなるぞ。

 

正道のいくさは人を生かすいくさ、やればやるほど進むのぢゃ。

 

今の人民いくさと申せば、

人の殺し合ひと早合点するが、それは外道のいくさ。

 

天国へのいくさもあるぞ。

 

幽界へのいくさもあるぞ。

 

人民の云ふ今のいくさ、今の武器は、

人殺す外道の道、それではならんのう。

 

外道なくして下されよ。

 

外道はないのであるから、

外道 抱き参らせて、正道に引き入れて下されよ。

 

新しき霊界は神人(カミヒト)共でつくり出されるのざ。

 

それは大いなる喜びであるからぞ。

 

神のみ旨であるからぞ。

 

新しき世はあけてゐるぞ。

 

夜明ければヤミはなくなるぞ。

 

新しきカタはこの中からぞ。

 

日本からぞ。

 

日本よくならねば世界はよくならん。

 

外道の武器すてよ。

 

外道の武器生かして、活かして、

いのちを生かす弥栄の武器とせよ。

 

かへられるでないか。

 

 

春の巻、第五十五帖(七一二)

 

十二年おくれてゐるのを取り戻すのであるから、

これからは目の廻る程 急しくなってくるぞ。

 

神示よむ暇もなくなると申してある時来たぞ。

 

いづれは人民へるなれど、何も約束ごと真理とはかえられん。

 

まこと求めるならば、

これと見届けたならば、その場で御用与へる仕組。

 

 

700>711

春の巻、第四十三帖(七〇〇)

 

与へよ、与へよ、与へよ、与へる政治と申してあろうが。

 

戦争か平和かと人民申してゐるなれど、

道はその二つでないぞ、三が道と、くどう申してあろう。

 

水の外道の武器と火の外道の武器の他に、新しき武器気づかんのか。

 

神示よく読めば示してあるのであるぞ。

 

ほかに道ないと きめてかかるから判らんのざ。

 

生れ赤児になれば判るぞ。

 

知らしてやりたいなれど、知らして判るのでは自分のものとならん。

 

自分が体得し、自分から湧き出ねば自分のものでないぞ。

 

つけ焼刃は危ない、危ない。

 

気狂ひに刃物ぞ。

 

平面的考え、平面生活から立体に入れと申してあろうがな。

 

神人共にとけ合ふことぞ。

 

外道でない善と悪ととけ合ふのぞ。

 

善のみで善ならず。

 

悪のみで悪ならず。

 

外道は夜明けくれば消えて了ふぞ。

 

夜明けの御用大切と申してあろうが。

 

外道の悪 殺すでないぞ。

 

抱き参らすから消えるのであるぞ。

 

 

春の巻、第五十四帖(七一一)

 

見へる幸福には限りがあり、見へぬ幸福は永遠であるぞ。

 

理(ミチ)にいそしめ。

 

理(ミチ)にとけ入れよ。

 

モノは無くなるぞ。

 

霊は永遠に弥栄えるぞ。

 

毎日々々掃除してもホコリはたまる。

 

絶えず心の掃除よいか。

 

洗濯よいか。

 

目に見へず、

上、下、左、右、前、後から何となくせまってくるものをサニワせよ。

 

サニワして受けいれねばならん。

 

自分の魂をはぐくみ、

生長さしてくれる大切なものは目に見へんところから流れてくるぞ。

 

和せよ。

 

調和せよ。

 

調和とは、上から、より清い所から流れて来るものに従ふことぞ。

 

いよいよが一四一四となるぞ。

 

雨の神、風の神、地震の神、岩の神、荒の神、

地震の神。

 

 

701>710

春の巻、第四十四帖(七〇一)

 

念入れかへるぞ。

 

念入れかへるとは、新しき霊界つくることぞ。

 

新しき霊界つくるとは、太神の真中にとけ入ることぞ。

 

 

春の巻、第五十三帖(七一〇)

 

どうしたらよいのぢゃ、

神の云ふこときくから助けてくれと申すもの沢山でてくるが、

何も六ヶ敷いこと神は申さん。

 

現在を足場として一歩づつ進めばよいのぢゃ。

 

それでは食って行けんと申すものあるが、

神はあり余るほど与へてあるでないか。

 

何故、手出さんのぢゃ。

 

与へたもののみが自分のものぞ。

 

今の人民、余っても足らんと考へて、むさぶりてゐるぞ。

 

幸福与へてあるに何故手出さんのぢゃ。

 

曲げてとるのぢゃ。

 

心の目ひらけよ。

 

ゴモク投げ出せよ。

 

我の強い守護神どの、もう我の世はすんだぞ。

 

我出すほど苦しくなるのぢゃ。

 

 

702>709

春の巻、第四十五帖(七〇二)

 

一時は人民なくなるところまで行くと申してあらうが。

 

人民なくしても人民なくならん。

 

洗濯して掃除して、新しき道 早う進めよ。

 

おそくなる程 六ヶ敷く苦しくなるぞ。

 

近目で見るから判らん。

 

日本の、世界あけたり。あな爽々(スガスガ)し、日本晴れぞ。

 

二二(フジ)は晴れたりとは、真理の世に出づことぞ。

 

天のこと地にうつすときは、

地の力出るように、地の息吹き通ふように、

弥栄するように、

念を地の力と現はれるように、正しくうつして下されよ。

 

邪気入ってはならん。

 

 

春の巻、第五十二帖(七〇九)

 

まことの光の道に行き、進めよ。

 

ここぞと見極めたら、理解に向ってひたすらに進まねばならん。

 

理屈いらん。

 

宇宙はこの方の中にあるのぢゃ。

 

このほうぢゃ。

 

世が段々せまって悪くなるように申してゐるが、

それは局部的のこと。

 

大局から見れば、よきに向って弥栄えてゐるぞ。

 

夏が暑いと申してブツブツ申すでないぞ。

 

秋になるぞ。

 

冬もあるぞ。

 

冬ばかりと考へるでないぞ。

 

やがては春が訪れるのぢゃ。

 

いづれも嬉し嬉しとなる仕組。

 

 

703>708

春の巻、第四十六帖(七〇三)

 

今の武器は幽界の裏打ちあるぞ。

 

神界の裏打ちある武器でなくてはならん。

 

まことの武器ぞ。

 

ヒックリであるぞ。

 

念からつくり出せよ。

 

その念のもとをつくれば、神から力を与へるから、

この世の力と現はれるぞ。

 

念の凸凹から出た幽界を抱き参らさねばならんのざ。

 

中々の御苦労であるなれど、

幽界を神界の一部に、力にまで引きよせねばならん。

 

 

春の巻、第五十一帖(七〇八)

 

人民の因縁性来はみな神示にかかしてあるぞ。

 

そなたのこと何も彼も一目ぢゃ。

 

因縁判ってうれしうれしで御用結構。

 

うれしおそろしくなる仕組。

 

 

704>707

春の巻、第四十七帖(七〇四)

 

念が新しき武器であるぞ。

 

それでは人民まわりくどいと申すであろうなれど。

 

ものごとには順と時あるぞ。

 

もとのキから改めて下されよ。

 

尊き御役。

 

 

春の巻、第五十帖(七〇七)

 

その人によってふさわしい行がある。

 

誰でも同じでない。

 

一合食べる人もあれば一升食べる人もあるぞ。

 

身につかんもの、身につかん行は、いくらしても何もならん。

 

いらん苦労はいらんと申してあろう。

 

風呂には時々入るが、魂の風呂に行く人 少ないぞ。

 

より高い聖所へ参りて魂のアカ落せよ。

 

神示よんで落して下されよ。

 

アカ落さずに神の光見えんと申して、

おかげないと、われよし申して御座るなれど、

風呂に入らずに、アカつくとは怪しからんと申すのと同じでないか。

 

何故に判らんのぢゃ。

 

全体の為 奉仕するはよいが、

自分すてて全体なく、自分ないぞ。

 

全体を生かし、全体と共に部分の自分が弥栄えるのであるぞ。

 

早合点 禁物。

 

 

705>706

春の巻、第四十八帖(七〇五)

 

念なりと、今の人民申す思想はマコトの念でないぞ。

 

思想は思想ぞ。念とは力であるぞ。

 

実在であるぞ。

 

喜びであるぞ。

 

喜びは神ぞ。

 

弥栄。(二月十二日、ひつく神)

 

 

春の巻、第四十九帖(七〇六)

 

これぞと思ふ人があったら、

その理(ミチ)の人について御座れよ。

 

一寸先見へん人民ぢゃ。

 

先達の後からついて御座れ。

 

それが一番よいことぢゃ。

 

人、見出すこと六ヶ敷いのう。

 

十年、二十年行じても、目あて違ってゐたら何にもならんぞ。

 

このほうの道へ御座れ。

 

正しき光の道によれよ。

 

十日で、一月で見ちがへる程になるぞ。

 

死んだ気で神示(フデ)をそなたの身にうつせよ。

 

涙流せよ、汗流せ、血流せよ。

 

天災や地変は大き肉体の応急処置の現れであるぞ。

 

部分的に、人間苦しめる様に思ふてはならん。

 

一日一度は便所へ行かなならんであろうがな。

 

人間、この世の五十年をもととして考へるから判らなくなるのざ。

 

永遠弥栄の生命、早う体得結構。