まぜまぜ(^^♪ひふみ神示 その2

ブースカ明日香さんを真似て書いてみました(^^) スマホでしたら、横画面にすると見やすいかと思います。 5/11改題しました。

(更新2・編集中) (番外編)三のくくり まぜまぜ

(番外編)三のくくり まぜまぜ

 

2回目(4/28 18:40 390帖まで)

  初回(4/27 18:35 174帖まで)

 

ひふみ神示の通し番号を

一桁になるまで足して、

三になる帖を抜き出します。

 

 

 

上つ巻、第三帖 (三)

 

善言(よごと)は神、

なにも上下、

下ひっくり返ってゐるから、

分らんから、

神の心になれば何事も分るから、

鏡を掃除して呉れよ。

 

今にこのおつげが

一二三(ヒフミ)ばかりになるから、

それまでに身魂をみがいて置かんと、

身魂の曇った人には何ともよめんから、

早く神こころに返りて居りて呉れ、

何も一度に出て来る。

海が陸になり陸が海になる。

 

六月十一日の朝のお告げ、みよみよみよひつくの神。

 

 

 

12

上つ巻、第十二帖 (一二)

 

大将を誰も行かれん所へ

連れて行かれんやうに、

上の人、気をつけて呉れよ。

 

この道はちっとも心ゆるせん

まことの神の道ぞ。

 

油断すると神は代りの身魂使うぞ。

 

六月の二十一日の朝、ひつくのか三。

 

 

 

21

上つ巻、第二十一帖 (二一)

 

世の元の大神(かみ)の仕組といふものは、

神々にも分らん仕組であるぞ、

この仕組 分りてはならず分らねばならず、

なかなかに六ヶ敷い仕組であるぞ、

知らしてやりたいなれど、

知らしてならん仕組ぞ。

 

外国がいくら攻めて来るとも、

世界の神々がいくら寄せて来るとも、

ぎりぎりになりたら

神の元の神の神力出して

岩戸開いて

一つの王で治める神のまことの世に

致すのであるから、

神は心配ないなれど、

ついて来れる臣民少ないから、

早う掃除して呉れと申すのぞ、

掃除すれば何事も、

ハッキリと映りて楽なことになるから、

早う神の申すやうして呉れよ。

 

今度はとことはに変らぬ世に致すのざから、

世の元の大神でないと分らん仕組ざ。

洗濯できた臣民から手柄立てさして

うれしうれしの世に致すから、

神が臣民にお礼申すから、

一切ごもく捨てて、

早う神の申すこと聞いて呉れよ。

 

因縁の身魂は

何うしても改心せねばならんのざから、

早う改心せよ、

おそい改心なかなか六ヶ敷ぞ。

 

神は帳面につける様に何事も見通しざから、

神の帳面間違ひないから、

神の申す通りに、

分らんことも神の申す通りに従ひて呉れよ。

 

初めつらいなれど

だんだん分りて来るから、

よく言うこと聞いて呉れよ、

外国から攻めて来て日本の国丸つぶれといふところで、

元の神の神力出して世を建てるから、

臣民の心も同じぞ、

江戸も昔のやうになるぞ、

神の身体から息出来ぬ様にしてゐるが、

今に元のままにせなならんことになるぞ。

 

富士から三十里四里離れた所へ祀りて呉れよ、

富士にも祀りて呉れよ、

富士はいよいよ動くから、

それが済むまでは三十里離れた所へ、

仮に祀りて置いて呉れよ。

 

富士は神の山ざ、

いつ火を噴くか分らんぞ、

神は噴(ふ)かん積りでも、

いよいよとなれば噴かなならんことがあるから、

それまでは離れた所へ祀りて呉れよ、

神はかまはねど、

臣民の肉体大切なから、

肉体もなくてはならんから、

さうして祀りて呉れ。

まつりまつり結構。

 

六月の二十八日、ひつ九のか三。

 

 

 

30

上つ巻、第三十帖 (三〇)

 

富士を開いたら

まだ開くところあるのざ、

 

鳴戸へ行くことあるのざから

このこと役員だけ心得て

置いて呉れよ。

 

七月一の日、ひつくのか三。

 

 

 

39

上つ巻、第三十九帖 (三九)

 

地震かみなり火の雨降らして大洗濯するぞ。

よほどシッカリせねば生きて行けんぞ。

ミカカリが沢山出来て来て、

わけの分らんことになるから、

早く此の理(みち)をひらいて呉れよ。

神界ではもう戦の見通しついてゐるなれど、

今はまだ臣民には申されんのぞ。

改心すれば分りて来るぞ、

改心第一ぞ、

早く改心第一ざ。

ひつくのか三。

 

 

 

48

下つ巻、第六帖 (四八)

 

今までの神示 縁ある臣民に早う示して呉れよ、

神々さま臣民まつろひて言答(いわと)開くもと出来るから、

早う知らせて呉れよ、

誰でも見て読める様に写して神前に置いて、

誰でも読めるやうにして置いて呉れよ、

役員よく考へて、

見せるとき間遠へぬ様にして呉れよ、

 

七月の十五日、ひつくのか三神示。

 

 

 

57

下つ巻、第十五帖 (五七)

 

この方祀りて神示(ふで)書かすのは一所なれど、

いくらでも分け霊(みたま)するから、

ひとりひとり祀りてサニワ作りてもよいぞ。

 

祀る時は先づ鎮守様によくお願いしてから祀れよ、

鎮守様は御苦労な神様ぞ、

忘れてはならんぞ、

この神には鳥居と注連(しめ)は要らんぞ。

追ひ追ひ分かりて来るぞ、

一二七七七七七わすれてはならんぞ、

次の世の仕組であるぞ。

身魂みがけば何事も分りて来ると申してあろがな、

黙ってゐても分るやうに早うなって下されよ、

神の国近づいたぞ。

 

七月の二十一日、ひつ九のか三。

 

 

 

66

下つ巻、第二十四帖 (六六)

 

一が十にと申してありたが、

一が百に、一が千に、一が万になるとき

いよいよ近づいたぞ。

 

秋立ちたらスクリと厳しきことになるから、

神の申すこと一分一厘ちがはんぞ。

 

改心と申すのは、

何もかも神にお返しすることぞ、

臣民のものといふもの何一つもあるまいがな、

草の葉一枚でも神のものぞ。

 

七月の三十日、ひつくのか三。

 

 

 

75

下つ巻、第三十三帖 (七五)

 

親となり子となり夫婦となり、

兄弟(はらから)となりて、

生きかわり死にかわりして御用に使ってゐるのぞ、

臣民同士、世界の民、

みな同胞(はらから)と申すのは喩へでないぞ、

血がつながりてゐるまことの同胞ぞ、

はらから喧嘩も時によりけりぞ、

あまり分らぬと神も堪忍袋の緒切れるぞ、

何んな事あるか知れんぞ、

この道の信者は神が引き寄せると申せば

役員ふところ手で居るが、

そんなことでこの道開けると思ふか。

 

一人が七人の人に知らせ、

その七人が済んだら、

次の御用にかからすぞ、

一聞いたら十知る人でないと、

この御用つとまらんぞ、

うらおもて、よく気つけよ。

 

因縁の身魂はどんなに苦しくとも

勇んで出来る世の元からのお道ぞ。

 

七人に知らしたら役員ぞ、

神が命ずるのでない、

自分から役員になるのぞと申してあろがな、

役員は神のぢきぢきの使ひぞ、

神柱ぞ。

肉体男なら魂(たま)は女(おみな)ぞ、

この道 十(と)りに来る悪魔あるから気つけ置くぞ。

 

八月の三日、ひつ九のか三。

 

 

 

84

富士の巻、第四帖 (八四)

 

一二三(ひふみ)の仕組が済みたら

三四五(みよいづ)の仕組ぞと申してありたが、

世の本の仕組は

三四五の仕組から五六七(みろく)の仕組となるのぞ、

五六七の仕組とは弥勒(みろく)の仕組のことぞ、

獣と臣民とハッキリ判りたら、

それぞれの本性出すのぞ、

今度は万劫末代のことぞ、

気の毒出来るから洗濯大切と申してあるのぞ。

今度お役きまりたら そのままいつまでも続くのざから、

臣民よくこの神示(ふで)よみておいて呉れよ。

 

八月十三日、 Θのひつくのか三。

 

 

 

93

富士の巻、第十三帖 (九三)

 

何もかもてんし様のものではないか、

それなのにこれは自分の家ぞ、

これは自分の土地ぞと申して

自分勝手にしているのが神の気に入らんぞ、

一度は天地に引き上げと知らしてありたこと忘れてはならんぞ、

一本の草でも神のものぞ、

野(ぬ)から生れたもの、

山から取れたもの、

海の幸もみな神に供へてから

臣民いただけと申してあるわけも、

それで分るであろうがな。

 

この神示よく読みてさへ居れば

病気もなくなるぞ、

さう云へば今の臣民、

そんな馬鹿あるかと申すが

よく察して見よ、必ず病も直るぞ、

それは病人の心が綺麗になるからぞ、

洗濯せよ掃除せよと申せば、

臣民 何も分らんから、

あわててゐるが、

この神示よむことが洗濯や掃除の初めで終りであるぞ、

神は無理は言はんぞ、神の道は無理してないぞ、

よくこの神示読んで呉れよ。

 

よめばよむほど身魂みがかれるぞ、

と申しても仕事をよそにしてはならんぞ。

 

臣民と申すものは馬鹿正直ざから、

神示よめと申せば、

神示ばかり読んだならよい様に思うてゐるが、

裏も表もあるのぞ。

 

役員よく知らしてやれよ。

 

八月二十二日、 Θのひつ九のか三のお告。

 

 

 

102

富士の巻、第二十二帖 (一〇二)

 

まつりまつりと、くどく申して知らしてあるが、

まつり合はしさへすれば、

何もかも、うれしうれしと栄える仕組で、

悪も善もないのぞ、

まつれば悪も善ぞ、まつらねば善もないのぞ、

この道理分りたか、

祭典と申して神ばかり拝んでゐるやうでは何も分らんぞ。

 

そんな我れよしでは神の臣民とは申せんぞ、

早うまつりて呉れと申すこと、

よくきき分けて呉れよ。

 

われがわれがと思ふてゐるのは調和(まつり)てゐぬ証拠ぞ、

鼻高となればポキンと折れると申してある道理よく分らうがな、

この御道は鼻高と取りちがひが一番邪魔になるのぞと申すのは、

慢心と取りちがひは調和(まつり)の邪魔になるからぞ。

 

ここまでわけて申さばよく分かるであろう、

何事も真通理(まつり)が第一ぞ。

 

八月の二十九日、Θの一二Θ。

 

 

 

111

天つ巻、第四帖 (一一一)

 

この方は元の肉体のままに生き通しであるから、

天明にも見せなんだのざぞ、

あちこちに臣民の肉体かりて予言する神が沢山出てゐるなれど、

九分九厘は分りて居れども、

とどめの最后は分らんから、

この方に従ひて御用せよと申してゐるのぞ。

砂糖にたかる蟻となるなよ。

 

百人千人の改心なれば、

どんなにでも出来るなれど、

今度は世界中、

神々様も畜生も悪魔も餓鬼も外道も三千世界の大洗濯ざから、

そんなチョロコイ事ではないのざぞ。

 

ぶち壊し出来ても建直し分かるまいがな。

 

火と水で岩戸開くぞ、

知恵や学でやると、グレンと引繰り返ると申しておいたが、

さう云へば知恵や学は要らんと臣民早合点するが、

知恵や学も要るのざぞ。

 

悪も御役であるぞ、

この道理よく腹に入れて下されよ。

 

天の神様 地に御降りなされて、

今度の大層な岩戸開きの指図なされるのざぞ、

国々の神々様、うぶすな様、

力ある神々様にも御苦労になっているのざぞ。

 

天照皇太神宮様初め神々様、

あつくまつりて呉れと申してきかしてあろがな、

神も仏もキリストも元は一つぞよ。

 

八月三十一日、ひつ九のΘ。

 

 

 

120

天つ巻、第十三帖(一二〇)

 

空に変りたこと現はれたなれば

地に変りたことがあると心得よ、

いよいよとなりて来てゐるのざぞ。

 

神は元の大神様に延ばせるだけ延ばして頂き、

一人でも臣民助けたいのでお願ひしてゐるのざが、

もうおことはり申す術(すべ)なくなりたぞ。

 

玉串 神に供へるのは衣(ころも)供へることぞ、

衣とは神の衣のことぞ、

神の衣とは人の肉体のことぞ。

 

臣民をささげることぞ、

自分をささげることぞ、

この道理分りたか。

人に仕へるときも同じことぞ、

人を神として仕へねばならんぞ、

神として仕へると神となるのざから、

もてなしの物出すときは、

祓ひ清めて神に仕へると同様にして呉れよ、

喰べ物 今の半分で足りると申してあるが、

神に献げたものか祓ひ清めて神に献げると

同様にすれば半分で足りるのぞ、

てんのゐへん気つけて居れよ。

神くどう気つけて置くぞ。

 

神世近づいたぞ。

 

九月六日、一二のか三。

 

 

129

天つ巻、第二十二帖(一二九)

 

十柱の世の元からの活神様 御活動になりてゐること分りたであろうがな、

けものの入れものには分るまいなれど、

神の臣民にはよく分りてゐる筈ぞ。

 

まだだんだんに烈しくなりて外国の臣民にも分る様になりて来るのざぞ。

 

その時になりて分りたのではおそいおそい、

早う洗濯いたして呉れよ。

 

八月の九日、ひつ九のか三。

 

 

 

138

第一帖 (一三八)

 

地つ巻 書き知らすぞ、

世界は一つの実言(みこと)となるのぞ、

それぞれの言の葉はあれど、実言(みこと)は一つとなるのであるぞ。

 

てん詞様の実言(みこと)に従ふのざぞ、

命(みこと)の世近づいて来たぞ。

 

九月十五日、一二Θ。

 

 

 

147

地つ巻、第十帖 (一四七)

 

何事も方便と申して自分勝手なことばかり申してゐるが、

方便と申すもの神の国には無いのざぞ。

 

まことがことぞ、まの事ぞ、ことだまぞ。

 

これまでは方便と申して逃げられたが、

も早 逃げること出来ないぞ、

方便の人々早う心洗ひて呉れよ、

方便の世は済みたのざぞ、

いまでも仏の世と思うてゐるとびっくりがでるぞ、

神の国、元の神がスッカリ現はれて富士の高嶺から天地(あめつち)へのりとするぞ、

岩戸しめる御役になるなよ。

 

九月の二十日、ひつ九のか三。

 

 

 

156

地つ巻、第十九帖 (一五六)

 

世成り、神国の太陽足り満ちて、皆みち足り、

神国の月神、世をひらき足り、弥栄にひらき、月光、

総てはみち、結び出づ、道は極みに極む、

一二三(ひふみ)、三四五(みよいづ)、五六七(みろく)、弥栄々々ぞ、

神、仏、耶ことごと和し、和して足り、

太道ひらく永遠(とわ)、富士は晴れたり、

太神は光り出づ、神国のはじめ。

 

九月二十四日、一二Θふみ。

 

 

 

165

地つ巻、第二十八帖 (一六五)

 

神の国には神の国のやり方、

外国には外国のやり方あると申してあらうがな、

戦もその通りぞ、

神の国神の国のやり方せねばならんのざぞ、

外国のやり方真似ては外国強いのざぞ、

戦するにも身魂みがき第一ぞ。

 

一度に始末することは易いなれど、

それでは神の国を一度は丸つぶしにせねばならんから、

待てるだけ待ってゐるのざぞ、

仲裁する国はなく、

出かけた船はどちらも後へ引けん苦しいことになりて来るぞ、

神気つけるぞ。

 

十月六日、ひつくのか三。

 

 

 

174

日月の巻、第一帖 (一七四)

 

富士は晴れたり日本晴れ。

 

Θの巻 書き知らすぞ。

 

此の世に自分の物と云ふ物は何一つないのであるぞ。

 

早う自分からお返しした者から楽になるのざぞ。

 

今度の大洗濯は三つの大洗濯が一度になって居るのざから、

見当取れんのざぞ。

 

神の国の洗濯と外国の洗濯と世界ひっくるめた洗濯と一度になってゐるのざから、

そのつもりで少しでも神の御用務めて呉れよ。

 

此れからがいよいよの正念場と申してあろがな。

 

今はまだまだ一の幕で、せんぐり出て来るのざぞ。

 

我(が)出したら判らなくなるぞ、てんし様おがめよ、てんし様まつりて呉れよ、

臣民 無理と思ふ事も無理でない事 沢山にあるのざぞ、

神はいよいよの仕組にかかったと申してあろがな。

 

毀(こわ)すのでないぞ、練り直すのざぞ。

 

世界を摺鉢(すりばち)に入れて捏(こ)ね廻し、練り直すのざぞ。

 

日本の中に騒動起るぞ。

 

神の臣民 気つけて呉れよ。

 

日本も神と獣に分れているのざから、

 

いやでも応でも騒動となるのざぞ。

 

小さくしたいなれど。

 

旧九月一日、ひつくのか三。

 

 

 

183

日月の巻、第十帖 (一八三)

 

ツギ、アメノトコタチノミコト、

ツギ、クニノトコタチノミコト、

ツギ、トヨクモヌノミコトトナリナリテ、

アレイデタマイ、ミコトスミキリタマヒキ。

 

辛酉(かのととり)の日と年はこわい日で、よき日と申してあろがな。

 

九月八日は結構な日ざが、こわい日ざと申して知らしてありた事少しは判りたか。

 

何事も神示通りになりて、せんぐりに出て来るぞ。

 

遅し早しはあるのざぞ。

 

この度は幕の一ぞ。

 

日本の臣民これで戦済む様に申してゐるが、戦はこれからぞ。

 

九、十月八日、十八日は幾らでもあるのざぞ。

 

三月三日、五月五日はよき日ぞ。

 

恐ろしい日ざぞ。

今は型であるぞ。

 

改心すれは型小(ち)さくて済むなれど、掃除大きくなるぞ。

 

猫に気付けよ、犬来るぞ。

 

臣民の掃除遅れると段々大きくなるのざぞ。

 

神が表に出ておん働きなされてゐること今度はよく判りたであろがな。

 

Θと神との戦でもあると申してあろがな。

 

戦のまねであるぞ。

 

神がいよいよとなりて、びっくり箱開いたら、臣民ポカンぞ。

 

手も足も動かすこと出来んぞ。

 

たとへではないのざぞ。

 

くどう気付けておくぞ。

 

これからがいよいよの戦となるのざぞ、鉄砲の戦はかりでないぞ。

 

その日その日の戦烈しくなるぞ、褌締めて呉れよ。

 

十月二十五日、ひつ九のか三。

 

 

 

 

192

日月の巻、第十九帖 (一九二)

 

今のやり方、考へ方が間違ってゐるからぞ。

洗濯せよ掃除せよと申すのはこれまでのやり方考へ方をスクリと改める事ぞ。

一度マカリタと思へ。

掃除して何もかも綺麗にすれば神の光スクリと光り輝くぞ。

ゴモク捨てよと申してあろがな。

人の心ほど怖いものないのざぞ。

奥山に紅葉(もみじ)あるうちにと申すこと忘れるなよ。

北に気付けよ。

神の詞(よ)の仕組よく腹に入れておいて下されよ。

今度のさらつの世の元となるのざぞ。

 

十一月七日、ひつ九のか三。

 

 

 

201

日月の巻、第二十八帖 (二〇一)

 

岩戸あけたり日本晴れ、富士ひかるぞ。

この巻 役員読むものぞ。

世の元と申すものは火であるぞ、水であるぞ。

くもでて くにとなったぞ。

出雲(いずも)とはこの地(くに)の事ぞ。

スサナルの神はこの世の大神様ぞ。

はじめは「🌀」であるなり、

「🌀」(うご)いて月となり地となりたのざぞ。

アは「🌀」(ヒツキクニ)の神様なり、

(ヨ)は月の神様ぞ「ヨ=〇の中に(ワヤ)の字が書いてある記号」【>読みは(ヨ)】、

クニの神様はスサナルの神様ぞ。

この事はじめに心に入れれば掃除タワイないぞ、

グレンとは上下かへる事と申してあろうがな、

云ふてはならぬ事ぞ。

いはねばならぬ事ぞ。

 

アメのΘつ九のΘ。

 

 

 

210

日月の巻、第三十七帖 (二一〇)

 

天にも あまてらすすめ大神様、あまてらす大神様ある様に、

地にも あまてらすすめ大神様、あまてらす大神様あるのざぞ。

 

地にも月読の大神様 隠れて御座るのざぞ。

 

素盞鳴の大神様 罪穢れ祓ひて隠れて御座るのざぞ。

 

結構な尊い神様の御働きで、何不自由なく暮して居りながら、

その神様あることさへ知らぬ臣民ばかり。

 

これで此の世が治まると思ふか。

 

神々まつりて神々にまつはりて神国のまつりごといたして呉れよ。

 

詰らぬ事申してゐると愈々詰らぬ事になりて来るぞ。

 

十一月三十日、ひつ九の神しらすぞ。

 

 

 

219

日の出の巻、第六帖 (二一九)

 

神界の事は人間には見当取れんのであるぞ、

学で幾ら極め様とて会得(わか)りはせんのざぞ、

学も無くてはならぬが囚はれると悪となるのざぞ、

しもの神々様には現界の事は会得りはせんのざぞ、

会得らぬ神々に使はれてゐる肉体気の毒なから身魂磨け磨けと

執念(くどう)申してゐるのざぞ。

 

三、四月に気つけて呉れよ、どえらい事出来るから何うしても磨いておいて下されよ、

それまでに型しておいて呉れよ。

 

十二月五日、ひつ九のかみ。

 

 

 

228

日の出の巻、第十五帖 (二二八)

 

十柱の神様 奥山に祀りて呉れよ、九柱でよいぞ、

何れの神々様も世の元からの肉体持たれた生き通しの神様であるぞ、

この方合はして十柱となるのざぞ。

 

御神体の石 集めさしてあろがな、篤く祀りて、辛酉(かのととり)の日にお祭りして呉れよ。

 

病あるかないか、災難来るか来ないかは、手届くか届かないかで分ると申してあろがな。

 

届くとは注(そそ)ぐ事ぞ、

手首と息と腹の息と首の息と頭の息と足の息と胸の息と臍の息と脊首(せくび)の息と手の息と

八所十所の息合ってゐれば病無いのざぞ、

災難見ないのざから、毎朝 神拝みてから克く合はしてみよ、

合ってゐたら其日には災難無いのざぞ、

殊に臍の息一番大切ざぞ、

若しも息合ってゐない時には一二三(ひふみ)唱へよ、

唱へ唱へて息合ふ迄 祷(ゐの)れよ、何んな難儀も災難も無くしてやるぞ、

此の方 意富加牟豆美神(オホカムツミノカミ)であるぞ。

 

神の息と合はされると災難、病無くなるのざぞ、大難小難にしてやるぞ、生命助けてやるぞ、

此の事は此の方信ずる人でないと誤るから知らすではないぞ、

手二本 足二本いれて十柱ぞ、手足一本として八柱ぞ、

此の事 早う皆に知らしてどしどしと安心して働く様にしてやれよ。

 

飛行機の災難も地震罪穢の禍も、大きい災難ある時には息乱れるのざぞ、

一二三祝詞と祓え祝詞と神の息吹と息と一つになりておれば災難逃れるのぞ、

信ずる者ばかりに知らしてやりて呉れよ。

 

十二月十八日、ひつ九か三。

 

 

 

237

磐戸の巻、第一帖 (二三七)

 

イワトの巻かき知らすぞよ、イワトひらくには神人共にゑらぎにぎはふのざぞ、

ミカカリして唱ひ舞ふのざぞ、ウズメノミコトいるのざぞ。

 

ウズメとは女(おみな)のみでないぞ、男(おのこ)もウズメざぞ、

女のタマは男、男のタマは女と申してあろがな。

 

ヤミの中で踊るのざぞ、唄ふのざぞ、皆のものウズメとなりて下されよ、

暁(あけ)つげる十理(とり)となりて下されよ、

ミカカリて舞ひ唄ひ下されよ、

ミカカリでないと、これからは何も出来ぬと申してあろがな。

 

十二月三十日、Θの一二Θ。

 

 

 

246

磐戸の巻、第十帖(二四六)

 

悪の仕組は、日本魂をネコソギ抜いて了ふて、

日本を外国同様にしておいて、一呑みにする計画であるぞ。

 

日本の臣民、悪の計画通りになりて、

尻の毛まで抜かれてゐても、まだキづかんか、

上からやり方かへて貰はねば、

下ばかりでは何うにもならんぞ。

 

上に立ちてゐる人、日に日に悪くなりてきてゐるぞ。

 

メグリある金でも物でも持ちてゐたらよい様に思ふてゐるが、

えらい取違ひであるぞ。

 

早う神の申すことききて下されよ。

 

世界の何処さがしても、

今では九九(ここ)より外に、

神のマコトの道知らす所ないのざぞ。

 

此の道の役員、

上から見られん所によきことないと今度の御用、

なかなかにつとまらんぞ、

洗濯急げよ、掃除急げよ、

家の中が治まらんのは女にメグリあるからぞ、

このことよく気付けておくぞ、

村も国々も同様ぞ。

 

女のメグリはコワイのざぞ。

節分からは八回拍手うちて下されよ。

神はげしくなるぞ。

 

一月十二日、Θのひつ九のΘ。

 

 

 

255

磐戸の巻、第十九帖 (二五五)

 

向ふの国いくら物ありても、人ありても、

生神が表に出て働くのざから、

神なき国は、いづれは往生ざぞ。

 

この神の申すことよく肚に入れて、

もうかなはんと申す所こらへて、

またかなはんと申す所こらへて愈よどうにもならんといふ所こらへて、

頑張りて下されよ、

神には何も彼もよくわかりて帳面に書きとめてあるから、

何処までも、死んでも頑張りて下されよ、

其処迄 見届けねば、この方の役目果たせんのざ、

可哀さうなれど神の臣民殿、

こらえこらえてマコト何処迄も貫きて下されよ、

マコトの生神がその時こそ表に出て、

日本に手柄さして、神の臣民に手柄たてさして、

神からあつく御礼申してよき世に致すのであるぞ、

腹帯しっかり締めてくれよ。

 

重ねて神が臣民殿にたのむぞよ、

守護神殿にたのむぞよ。

 

一月十四日、Θのひつ九のか三。

 

 

 

264

キの巻、第七帖 (二六四)

 

物、自分のものと思ふは天の賊ぞ、

皆てんし様の物ざと、

クドウ申してあるのにまだ判らんか。

 

行(おこない)出来て口静かにして貰ふと、

何事もスラリとゆくぞ、

行(ぎょう)が出来ておらんと何かの事が遅れるのざぞ、

遅れるだけ苦しむのざぞ。

 

神の国の半分の所にはイヤな事あるぞ、

洗濯出来た臣民に元の神がうつりて、

サア今ぢゃと云ふとこになりたら、

臣民の知らん働きさして悪では出来ん手柄さして、

なした結構な事かとビックリ箱あくのざぞ。

 

天と地との親の大神様のミコトでする事ぞ、

いくら悪神じたばたしたとて手も出せんぞ、

この世 三角にしようと四角にしようと元のこの方等の心のままぞ。

 

後から来た守護神 先になるから、

今の役員さうならん様に神示で知らしてあるのざから、

よく裏の裏まで読んで肚に入れて、

何一つ分らん事ない様にして呉れよ、今に恥づかしい事になるぞ。

 

元の大和魂の誠の身魂揃ふたら、

人は沢山なくても この仕組成就するのざと申してあろが、

末代動かぬ世の元の礎きづくのざから、

キマリつけるのざから、気つけおくぞ。

 

キが元と申してあろがな、

上は上の行、中は中、下は下の行ひ、作法あるのざぞ、

マゼコゼにしてはならんぞ、

この中からキチリキチリと礼儀正しくせよ。

 

三月十一日、ひつ九の神。

 

 

 

273

キの巻、第十六帖 (二七三)

 

元津神代の道は満つ、一時は闇の道、ひらき極み、

富士の代々、鳴り成るには弥栄に変わり和すの道、道は弥栄。

 

ひふみ道出で睦び、月の神 足り足りて成り、新しき大道みつ。

 

神々みち、ゑらぎ百千万のよきこと極む。

 

いよいよとなり、何も彼も百千とひらき、道栄え道極み進み、道極み真理の真理極む。

 

元の光の神々ゑらぎ、更に進む世、和合まずなりて百(もも)の世極みなる。

 

世に光る神々の大道、神々ことごとにゑらぎて大道いよいよ展き進みて、

大真理世界の三つは一と和し、

鳴り成りて始めて、まことの愛の代 極み来る、

弥栄の代の神、人、神人わけへだてなく光り輝き、

道は更に極みの極みに進み動き、

ありとあることごとくの成り結び、

更に新しく更に極むるの大道、神代歓喜の代々。

 

三月二十日、ひつ九の神。

 

 

 

282

水の巻、第八帖 (二八二)

 

鎮座は六月の十日であるぞ。神示書かしてまる一年ぞ。

神示で知らしてあろが、それからがいよいよの正念場ざぞ。

 

びっくり箱あくぞ。

 

五月四日、みづのひつ九のか三。

 

 

 

291

水の巻、第十七帖 (二九一)

 

カイの御用はキの御用であるぞ。

臣民はミの御用つとめて呉れよ。

キとミの御用であるぞ。

 

ミの御用とは体(からだ)の御用であるぞ。

身 養ふ正しき道開いて伝へて呉れよ。

今迄の神示読めばわかる様にしてあるぞ。

キの御用に使ふものもあるぞ。

 

キミの御用さす者もあるぞ、お守りの石どしどしさげてよいぞ。

水の巻これで終りぞ。

 

六月二十三日、三(みず)の一二Θ。

(水の巻了)

 

 

 

300

松の巻、第九帖 (三〇〇)

 

悪のやり方は始めはどんどん行くなれど、九分九厘でグレンぞ、

善のやり方 始め辛いなれど先行く程よくなるぞ。

 

この世に何一つ出来んと云ふことない此の方のすることぞ。

 

云ふ事聞かねば、きく様にしてきかすぞ。

 

因縁だけのことはどうしてもせねば、今度の峠は越せんのざぞ。

 

ここの役員は皆因縁ミタマばかり、苦労しただけお蔭あるぞ。

 

六月二十四日、あめのひつ九のかみしるす。

 

 

 

309

松の巻、第十八帖 (三〇九)

 

人民同士の戦ではかなはんと云ふ事よく判りたであろがな。

 

神と臣民融け合った大和魂でないと勝てんことぞ。

悪神よ。

日本の国を此処までよくも穢したな、

これで不足はあるまいから、

いよいよ此の方の仕組通りの、とどめにかかるから、

精一杯の御力でかかりて御座れ。

 

学問と神力の、とどめの戦ざぞ。

 

七月三日、あめのひつ九のかみ。

 

 

 

318

松の巻、第二十七帖 (三一八)

 

天も地も一つにまぜし大嵐、

攻め来る敵は駿河灘(するがなだ)、

富士を境に真二つ。

 

先づ切り取りて残るもの、七つに裂かん仕組なり。

 

されど日本は神の国

 

最後の仕組神力に、寄せ来る敵は魂まで、

一人残らずのうにする。

夜明けの御用つとめかし。

 

晴れたる富士のすがすがし。

 

七月十四日、あめのひつくのかみ。

 

 

 

327

夜明けの巻、第七帖 (三二七)

 

神の臣民に楽な事になるぞ。

理屈無い世にするぞ。

 

理屈は悪と申してあろが、理屈ない世に致すぞ。

 

理屈くらべのきほひ無くして仕舞ふぞ。

 

人に知れん様によいことつとめと申してあろが。

人に知れん様にする好い事 神こころぞ。

神のした事になるのざぞ。

 

行けども行けども白骨と申したが、

白骨さへなくなる所あるぞ。

 

早よ誠の臣民ばかりで固めて呉れよ。

 

神世の型 出して呉れよ。

 

時、取違へん様に、時、来たぞ。

 

八月一日、あめのひつく神。

 

 

 

336

アメの巻、第二帖 (三三六)

 

天の大神様は慈悲深くて何んな偉い臣民にも底知れぬし、

地の大神様は力ありすぎて、人民には手におへん見当取れん、

そこで神々様を此の世から追い出して悪神の云ふこと聞く人民許り

となりてゐたのであるぞ。

 

七五三(しめ)は神々様をしめ込んで出さぬ為のものと申してある事

これで判るであろがな、

鳥居は釘付けの形であるぞ、

基督(キリスト)の十字架も同様ぞ、

基督信者よ改心致されよ、

基督を十字架に釘付けしたのは、

そなた達であるぞ、懺悔せよ、

〇とは外国の事ぞ、Θが神国の旗印ぞ、

神国と外国との分けへだて誤ってゐるぞ。

 

大き心持てよ、かがみ掃除せよ、

上中下三段に分けてある違ふ血統(ちすじ)を段々に現すぞよ、

びっくり箱あくぞ、

八九の次は「+」であるぞよ。

 

何事もウラハラと申してあろが、

ひとがひとがと思ってゐた事 我の事でありたであろがな、

よく神示読んでおらんと、キリキリ舞ひせんならんぞ、

日本が日本がと思って居た事 外国でありた事もあるであろがな、

上下ひっくり返るのざぞ、判りたか。

 

餓鬼までも救はなならんのであるが、

餓鬼は食物やれば救はれるが、

悪と善と取違へてゐる人民、守護神、神々様 救ふのはなかなかであるぞ、

悪を善と取違へ、天を地と信じてゐる臣民人民なかなかに改心六ヶ敷いぞ。

 

我と改心出来ねば今度は止むを得ん事出来るぞ、

我程偉い者ないと天狗になりてゐるから気を付ける程

悪ふとりてゐるから、

こんな身魂は今度は灰ざぞ、

もう待たれん事になったぞ。

 

十月の十四日、ひつ九のかみしるす。

 

 

 

345

アメの巻、第十一帖 (三四五)

 

日の出の神様お出ましぞ、日の出はイであるぞ、

イの出であるぞ、キの出であるぞ、判りたか。

 

めんめめんめに心改めよと申してあろがな、

人民と云ふ者は人に云はれては腹の立つ事あるものぢゃ、

腹立つと邪気起るから めんめめんめに改めよと、くどう申すのぢゃぞ、

智や学ではどうにもならんと云ふ事よく判りておりながら、

未だ智や学でやる積り、神の国の事する積りでゐるのか。

 

判らんと申して余りでないか、

何事も判った臣民 口に出さずに肚に鎮めておけよ、

言ふてよい時は肚の中から人民びっくりする声で申すのざ、

神が申さすから心配ないぞ、それまでは気(ケ)も出すなよ。

 

二十二日の夜に実地が見せてあろうがな、

一所だけ清いけがれん所残しておかな足場なく、

こうなってはならんぞ、

カタ出さねばならんぞ、神国、神の子は元の神の生神が守ってゐるから、

愈々となりたら一寸の火水で うでくり返してやる仕組ざぞ、

末代の止(とど)めの建替であるから、

よう腰抜かさん様 見て御座れ、

長くかかりては一もとらず二もとらさず、

国は潰れ、道は滅びてしもうから早う早うと気もない時から気つけてゐるのぢゃが、

神の申すこと聞く臣民人民まだまだぞ。

 

此の道 難しい道でないから その儘に説いて聞かしてやれよ、

難し説くと判らん様になるのぞ。

 

平とう説いてやれよ、難しいのは理屈入るのざぞ、

難しい事も臣民にはあるなれど理屈となるなよ、

理屈悪ざぞ。霊術も言霊(ことだま)もよいなれど程々に、

三分位でよいぞ、中行かな行かれんのざぞ、

銭儲けて口さへすごして行けばよい様に今の臣民まだ思ってゐるが、

それは四つ足の四つの悪の守護である位

判りておろがな。

 

悪とは他を退ける事であるぞ、

まつりまつりとくどう申してあること未だ判らんのか、

今 外国よいと申してゐる臣民は外国へ行っても嫌はれるぞ、

外国にも住むところ無くなるぞ、外国も日本もないのざぞ、

外国とは我よしの国の事ぞ、

神国は大丈夫ざが、

外国や日本の国 大丈夫とは申されんぞ、

と事分けて申してあろがな、

日月の集団作り、境界作ってもならんが「ゝ」入れた集団作らなならんぞ、

「〇」 も作らず「ゝ」も入らずに力出ない位 判りておろがな、

馬鹿正直ならんと申してあること忘れたのか、

集団のつくり方知らしてあろが、

盲(めくら)には困る困る。

 

人の苦労あてにして我が進んで苦労せん様な人民では神の気感(きかん)に適はんから、

今度は苦労のかたまりの花咲くのざ、

苦の花咲くのざぞ、

二二に 九(コ)の花咲耶姫の神 祀りて呉れと申してあろがな、

永遠にしぼまん誠の花咲く世来たぞ。

 

十二月七日、ひつくのか三。

 

 

 

354

カゼの巻、第三帖 (三五四)

 

愈々の大建替は国常立の大神様、豊雲野の大神様、

金の神様、竜宮の乙姫様、先づ御活動ぞ。

 

キリギリとなりて岩の神、雨の神、風の神、荒の神様なり、次に地震の神様となるのざぞ。

 

今度の仕組は元のキの生き神でないとわからんぞ、

中津代からの神々様では出来ない、わからん深い仕組ざぞ、

猿田彦殿、天鈿女命(あめのうずめのみこと)殿、

もとのやり方では世は持ちて行けんぞ。

 

今一度 悪栄えることあるぞ、

心して取違ひない様にいたされよ。

口と心と行ひとで神示とけよ、堂々説けよ。

 

一月四日、一二のかみ。

 

 

 

363

カゼの巻、第十二帖 (三六三)

 

日本の人民 餌食(えじき)にしてやり通すと、

悪の神申してゐる声 人民には聞こへんのか。

 

よほどしっかりと腹帯締めおいて下されよ。

 

神には何もかも仕組てあるから、心配ないぞ。

 

改心出来ねば気の毒にするより方法ないなれど、

待てるだけ待ってゐるぞ、

月の大神様が水の御守護、

日の大神様が火の御守護、

お土つくり固めたのは、大国常立の大神様。

 

この御三体の大神様、三日この世構ひなさらねば、

此の世、くにゃくにゃぞ。

 

実地を世界一度に見せて、世界の人民一度に改心さすぞ。

 

五十になっても六十になっても、

いろは、一二三(ひふみ)から手習ひさすぞ。

 

出来ねばお出直しぞ。

 

慢心、早合点 大怪我のもと、

今の人民、血が走り過ぎてゐるぞ、

気付けおくぞ。

 

二月十六日、ひつ九のか三。

 

 

 

372

一八(イハ)の巻、第七帖 (三七二)

 

この神の許へ来て信心さへして居たら

よい事ある様に思ふてゐるが、

大間違ひざぞ。

 

この方の許へ参りて

先づ借銭なしに借銭払ひして下されよ。

 

苦しいこと出来て来るのが御神徳ぞ。

 

この方の許へ来て悪くなったと云ふ人民

遠慮いらん、帰りて呉れよ。

 

そんな軽い信心は信心ではないぞ。

 

結構な苦しみがわからん臣民一人も要らんのぞ。

 

しかと褌締めてついて御座れよ。

 

此の方 悪神とも見えると申してあらうがな。

 

わかりてもわからん、出来ん事致さすぞ、

神が使ふのざから楽でもあるのざぞ。

 

静かに神示よく肚に入れて御用して下されよ。

 

神の道 光るぞ。

旧一月十五日、一二Θ。

 

 

 

381

二日ん(ジシン)の巻、第四帖 (三八一)

 

同気同類の霊人は、

同一の情態で、同じ所に和し、弥栄え、

然らざるものは、その内蔵するものの度合に正比例して遠ざかる。

 

同類は相寄り、相集まり、睦び栄ゆ。

 

生前の世界は、地上人の世界の原因であり、

主体であるが、また死後の世界に通ずる。

 

同気同一線上にいる霊人たちは、

且って一度も会せず語らざるも、

百年の友であり、兄弟姉妹である如くに、

お互いに、その総てを知ることができる。

 

生前の世界に於ける、

かかる霊人が肉体人として生れ出でた場合の多くは、

同一の思想系をもつ。

 

但し、地上人としては、

時間と空間に制限されるが故に相会し、

相語られざる場合も生じてくる。

 

また、生前の生活と同様のことを繰り返すこともある。

 

霊人の同一線上にある場合は、

その根本的容貌は非常に似ているが、

部分的には相違し、同一のものは一つとしてない。

 

そこに、存在の意義があり、真実の道が弥栄え、

愛を生じ、真が湧き出てくるのである。

 

生前の霊人の場合は、

自分自身のもつ内の情動はそのままに、

その霊体の中心をなす顔面に集約され、

単的に現われていて、

いささかも反する顔面をもつことは許されない。

 

一時的に満たすことはできても、長くは続かない。

 

この情態の原理は、地上人にも、反影している。

 

生前の世界は、以上の如くであるから、

同一状態にある霊人が多ければ、

その団体の大きく、少なければ、その集団は小さい。

 

数百万霊人の集団もあれば、

数百、数十名で一つの社会をつくる団体もある。

 

各々の団体の中には、

また特に相似た情動の霊人の数人によって、

一つの家族的小集団が自らにしてでき上がっている。

 

そしてまた、各々の集団の中心には、

その集団の中にて最も神に近い霊人が座を占め、

その周囲に幾重にも、

内分の神に近い霊人の順に座をとりかこみ運営されている。

 

若しそこに、

一人の場所、位置、順序の間違いがあっても、

その集団は呼吸しない。

 

而して、

それは一定の戒律によって定められたものではなく、

惟神の流れ、則ち歓喜によって自ら定まっているのである。

 

またこれら集団と集団との交流は、地上人の如く自由ではない。

 

総てはf:id:satonory4949:20200319171350g:plainのゝを中心として f:id:satonory4949:20200319171350g:plainの姿を形成しているのである。

 

 ゝと〇とを、生前の世界に於て分離することは極めて至難ではあるが、

或る段階に進むときは一時的に分離が生ずる。

 

しかし、この場合もゝはゝであり〇は〇である。

 

これが地上世界の行為に移りたる場合は、

不自由不透明な物質の約束があるため、

その分離、乱用の度が更に加わって、

真偽混乱に及ぶものである。

 

悪人が善を語り、善をなし、

真を説くことが可能となるが如く写し出されるのである。

 

生前界では、悪を意志して悪を行なうことは、

御用の悪として自ら許されている。

 

許されているから存在し行為し現われているのである。

 

この場合の悪は、

悪にあらずして f:id:satonory4949:20200319171350g:plain  の〇であることを知らねばならない。

 

即ち、道を乱すが故である。

 

地上人の悪人にも善人にも、

それは強く移写される。

 

愛は真により、真は愛により向上し、弥栄する。

 

その根底力をなすは歓喜である。

 

故に、歓喜なき所に真実の愛はない。

 

歓喜の愛は、これを愛の善と云う、

歓喜なき愛を、愛の悪と云うのである。

 

その歓喜の中に、

また歓喜があり、真があり、真の真と顕われ、f:id:satonory4949:20200319171350g:plainとなり、

ゝと集約され、その集約のゝの中にf:id:satonory4949:20200319171350g:plain を生じ、

更に尚ゝと弥栄ゆる。

 

生前の世界、死後の世界を通じて、

一貫せる大神の大歓喜の流れ行く姿がそれである。

 

大神は常に流れ行きて、一定不変ではない。

 

千変万化、常に弥栄する姿であり、大歓喜である。

 

完成より大完成へ向い進む大歓喜の呼吸である。

 

されど、地上人に於ては、地上的物質に制限され、

物質の約束に従わねばならぬ。

 

其処に時間を生じ、距離を生じ、

これを破ることはできない。

 

故に同時に、善と悪との両面に通じ、

両面に生活することとなるのである。

 

其処に、

地上人としての尊きかなしさが生じてくる。

 

霊人に於ては、

善悪の両面に住することは、原則として許されない。

 

一時的には仮面をかむり得るが、

それは長くつづかず、自分自身 耐え得ぬこととなる。

 

地上人と雖(いえど)も、

本質的には善悪両面に呼吸することは許されていない。

 

しかし、悪を抱き参らせて、

悪を御用の悪として育て給わんがために課せられたる地上人の

光栄ある大使命なることを自覚しなければならない。

 

悪と偽に、同時にはいることは、

一応の必要悪、必要偽として許される。

 

何故ならば、それがあるために弥栄し、進展するからである。

 

悪を殺すことは、善をも殺し、神を殺し、歓喜を殺し、

総てを殺す結果となるからである。

 

霊物のみにて神は歓喜せず、

物質あり、物質と霊物との調和ありて、始めて力し、

歓喜し、弥栄するからである。

 

霊は絶えず物を求め、物は絶えず霊を求めて止まぬ。

 

生長、呼吸、弥栄は、そこに歓喜となり、

神と現われ給うのである。霊人も子を生むが、

その子は歓喜である。歓喜を生むのである。

 

 

 

390

二日ん(ジシン)の巻、第十三帖 (三九〇)

 

地上人が、限りなき程の想念的段階をもち、

各々の世界をつくり出している如く、

霊界にも無限の段階があり、

その各々に、同一想念をもつ霊人が住んでおり、

常に弥栄しつつある。

 

下級段階で正なりとし、善を思い、美を感じ、真なりと信じ、愛なりと思う、

その想念も上級霊界に於ては必ずしもそうではない。

 

美も醜となり、愛も憎となり、善も真も そのままにして善となり、

真と現われ得ない場合がある。

 

其処に偉大にして、はかり知られざる弥栄の御神意がある。

と同時に、「+」(真善)f:id:satonory4949:20200125143843g:plain  (真善美愛)  f:id:satonory4949:20200125143817g:plain歓喜)  f:id:satonory4949:20200125143817g:plain(大歓喜)と

現われる神秘なる弥栄があり、

悪の存在、偽の必然性などが判明するのである。

 

故に、下級霊人との交流は、

地上人にとっても、霊人にとっても、

極めて危険極まりないものではあるが、

半面に於ては、極めて尊いものとなるのである。

 

下級霊人自身が  🌀(善)(「の」の2回書き)なりと信じて行為することが、

地上人には  🌀(悪)(「逆の」の2回書き)と現われることが多いのである。

 

何故ならば、かかる下級霊と相通じ、感応し合う内的波調をもつ地上人は、

それと同一線上にある空想家であり、

極めて狭い世界のカラの中にしか住み得ぬ性をもち、

他の世界を知らないからである。

 

それがため、感応してくる下級霊の感応を、

全面的に信じ、唯一絶対の大神の御旨なるが如くに独断し、

遂には、自身自らが神の代行者なり、

と信ずるようになるからである。

 

所謂(いわゆる)、無き地獄をつくり出すからである。

 

地獄的下級霊の現われには、多くの奇跡的なものをふくむ。

 

奇跡とは大いなる動きに逆行する動きの現われであることを

知らねばならない。

 

かかる奇跡によりては、霊人も地上人も向上し得ない。

 

浄化し、改心し得ないものである。

 

また、霊人と地上人との交流によるのみでは向上し得ない。

 

脅迫や、賞罰のみによっても向上し得ない。

 

総て戒律的の何ものによっても、

霊人も地上人も何等の向上も弥栄も歓喜もあり得ない。

 

半面、向上の如くに見ゆる面があるとも、

半面に於て同様の退歩が必然的に起ってくる。

 

それは強(シ)いるが為である。

 

神の歓喜には、強いることなく、戒律する何ものもあり得ない。

 

戒律あるところ必ず影生じ、

暗(闇?)を生み出し、カスが残るものである。

 

それは、大神の内流によって弥栄する世界ではなく、

影の世界である。

 

中心に座す太神のお言葉は、

順を経て霊人に至り、地上人に伝えられるのであるが、

それはまた霊界の文字となって伝えられる。

 

霊界の文字は、主として直線的文字と曲線的文字の二つから成る。

 

直線的なものは、月の霊人が用い、

曲線的な文字は、太陽の霊人が使用している。

 

但し、高度の霊人となれば文字はない。

 

ただ文字の元をなす「ゝ」と「〇」と「+」があるのみ。

 

また高度の霊界人の文字として、

殆ど数字のみが使用されている場合もある。

 

数字は、他の文字に比して多くの密意を蔵しているからである。

 

しかし これは不変のものではなく、

地上人に近づくに従って漸次変化し、

地上人の文字に似てくるのである。

 

 

 

399

 

 

まぜまぜ 六九一~七二〇

ひふみ神示 まぜまぜの第六九一帖~第七二〇帖

 

 

第二十七巻 春の巻

全六十帖・通し番号(六五八)~(七一七)のうち(六九一)~(七一七)

自  昭和二十七年旧一月 一日

至  昭和二十七年 二月十五日

 

 

第二十八巻 夏の巻

全二十五帖・通し番号(七一八)~(七四一)のうち(七一八)~(七二〇)

自  昭和二十七年 三月 三日

至  昭和二十七年 三月 八日

 

 

691>720

春の巻、第三十四帖(六九一)

 

自分は自分の意志で生れたのではないのぢゃ。

 

その時、その環境を無視出来ん。

 

その法則に従はねばならん。

 

草を拝めば草が神となり、機械拝めば機械が神ぢゃ。

 

食物拝めば食物が神となる。

 

心せよ。

 

神は人民を根本から永遠の意味でよくしようと、

マコトの喜び与へようとしてゐるのぢゃ。

 

局都的、瞬間的に見て判らんこと多いぞ。

 

おかげは、すぐにはないものと思へ。

 

すぐのおかげは下級霊。

 

まゆにつばせよ、考へよ。

 

現在の環境を甘受せよと申してあるが、甘受だけでは足らん。

 

それに感謝せよ。

 

積極的に感謝し、天地の恩に報じねばならん。

 

誠の真理を知らぬ人間に神は判らん。

 

 

夏の巻、第三帖(七二〇)

 

人間は神と共に自分自身で生長して行かなならん。

 

人間から見れば全智全能の神、あるのであるぞ。

 

このことよく判りて下されよ。

 

マコトの理解と迷信との別れる大切ことぞ。

 

 

692>719

春の巻、第三十五帖(六九二)

 

念じつつやれ。

 

神の為と念じつつやれば神のためとなる。

 

小さい行為でも霊的には大きはたらきするのぢゃ。

 

自分と云ふことが強くなるから発展ないのぢゃ。

 

行き止まるのぢゃ。

 

われよしとなるのぢゃ。

 

調和が神の現れであるぞ。

 

霊と調和せよ。

 

肉体と調和せよ。

 

人と調和せよ。

 

食物、住居と調和せよ。

 

世界と調和せよ。

 

うれしうれしぞ。

 

一生かかってもよいぞ。

 

おそくないのぢゃ。

 

自分の中のケダモノのため直しにかからねばならん。

 

悪いくせ直さねばならん。

 

これが第一歩、土台ぢゃぞよ。

 

よきことは 人にゆづりて 人をほめ 人たてるこそ 人の人なる。

 

敬愛の まこと心に まことのり まこと行ふ 人ぞ人なる。

(春立つ日、ひつく神)

 

 

夏の巻、第二帖(七一九)

 

ゝがよろこびであるぞ。またゝのゝはムでもあるぞ。

 

内から外に向って行くのがΘのやり方、

外から内に向って行くのが、がいこくのやりかた。

 

〇からゝに行くのは、マコトが逆であるから、マコトのことは判らん。

 

外から行く宗教や哲学や科学が元を判らなくしてゐるのぢゃ。

 

元わからんで生きのいのちの判る筈ないぞ。

 

今の世は逆様ぢゃ。

 

先祖から正せよ。

 

原因から正して行かなならんぞ。

 

Θから出てゝにかへり、無限より出て有限に形し、

有限から無限にかへり、又有限に動くのがマコトのやり方であるぞ。

 

マコトの理解者には甘露の水ぞ。

 

 

693>718

春の巻、第三十六帖(六九三)

 

何事に向っても先づ感謝せよ。

 

ありがたいと思へ。

 

始はマネごとでもよいぞ。

 

結構と思へ。

 

幸と思へ。

 

そこに神の力 加はるぞ。

 

道は感謝からぞ。

 

不足申せば不足うつるぞ。

 

心のままとくどう申してあろうが。

 

病気でないと思へ。

 

弥栄と思へ。

 

病治るモト生れるぞ。

 

キがもとぞ。

 

何事くるとも何クソと思へ。

 

神の力 加はるぞ。

 

おそれはおそれ生むぞと申してあろうが。

 

一聞いて十さとらねばならんぞ。

 

今の人民には何事も平面的に説かねば判らんし、

平面的では立体のこと、次元の違ふことは判らんし、

ハラでさとりて下されよと申してあろう。

 

 

夏の巻、第一帖(七一八)

 

与へられたもの、

そのもの喜ぶようにすれば楽にゆけるよう、

暮しむきもたのしたのしで暮せるようになってゐるぞ。

 

あり余る程 与へてあるでないか。

 

生かして使へよ。

 

生活に何故アクセクするのぢゃ。

 

与へてあるもの殺すから自分も死の苦しみするのぢゃ。

 

有限でなければモノは顕われないぞ。

 

モノに顕わすと有限となるのぢゃ。

 

総てに感謝せよと申してあろうが。

 

総てのものに、それ相当の意義あるぞ。

 

全体的には喜びせねばならん。

 

愛をもって接しなければならん。

 

信をおかねばならん。

 

ぢゃと申して局部々々に於ては、

それぞれ、その時に応じて処理せねばならん。

 

只その場合は、ゆとりをもって処理せよ。

 

綱長くしておかねばならん。

 

 

694>717

春の巻、第三十七帖(六九四)

 

相手八と出たら二と受けよ。

 

人民と申すものはモノに囚われるから何事も判らんから、

十二と出、二十と出、三十六と出たらポカンとして判らんことになるぞ。

 

十二と出たら一段ケタ上げて八十八と受けよ。

 

又十二と受けるテもあるぞ。

 

二十と出たら八十と和せよ。

 

立体になれば それだけ自由になるのざ。

 

世界広くなるのぞ。

 

早う立体さとりくれよ。

 

 

春の巻、第六十帖(七一七)

 

一九三九 (ヒクミチコト)。

 

一九三九 (ヒクミチコト)。

 

一九三(ヒクミチ)。

 

四九三(ジクミチ)。

 

四九三(ジクミチ)。(二月十五日、日月神

(春の巻了)

 

 

695>716

春の巻、第三十八帖(六九五)

 

f:id:satonory4949:20200422150608g:plainの次にf:id:satonory4949:20200125135415g:plainがあり、その次にf:id:satonory4949:20200125135408g:plainがあり、 十あると申してあろう。

 

立体から複立体、複々立体、立立体と申してあろうが。

 

×と÷と和せばf:id:satonory4949:20200422150727g:plainとなるぞ。

 

複立体であるぞ。

 

f:id:satonory4949:20200125135415g:plain が複々立体、f:id:satonory4949:20200422150608g:plainが立立体ぞ。

 

f:id:satonory4949:20200215124047g:plainがその元であるぞ。

 

判りたか。

 

f:id:satonory4949:20200215124047g:plainとなれば超自由、超自在、超無限ぞ。

 

それだけに又超完成であるぞ。

 

超未完成でもあるぞ。

 

神は全智全能から超全智全能に弥栄してゐるぞ。

 

六ヶ敷いようなれど、このことよく判りて下されよ。

 

新しき段階に入る門ぞ。

 

 

春の巻、第五十九帖(七一六)

 

一足飛びには行かん。

 

一歩々々と申してあろう。

 

一度に神様を知りたいと申してもさうは行かん。

 

一年生からぢゃ。

 

出直し出直し。

 

子供に大学のことは判らん。

 

十貫の荷物はかつげん道理。

 

進むには、それ相当の苦労と努力いるぞ。

 

あぐらかいて、ふところ手してゐては出来ん。

 

時もいるぞ。

 

金もいるぞ。

 

汗もいるぞ。

 

血もいるぞ。

 

涙もいるぞ。

 

よいもの程 値が高い。

 

今を元とし自分をもととして善ぢゃ悪ぢゃと申してはならん。

 

よき人民 苦しみ、悪い人民 楽している。

 

神も仏もないのぢゃと申してゐるが、それは人民の近目ぞ。

 

一方的の見方ぞ。

 

長い目で見よと申してあろうが。

 

永遠のことわり わきまへよと申してあろうが。

 

支払い窓は金くれるところ、預け口は金とるところ。

 

同じ銀行でも部分的には、逆さのことしてゐるでないか。

 

全体と永遠を見ねば ものごとは判らんぞ。

 

よく心得よ。(二月十五日、日月神

 

 

696>715

春の巻、第三十九帖(六九六)

 

道は三つと申してあろう。

 

三とは参であるぞ。

 

3(スリー)でないぞと申してあろう。

 

無限であるぞ。

 

平面的に申せば右と左とだけでないぞ。

 

その右の外に、又 左の外に道でなき道あるぞ。

 

それを善の外道、悪の外道と申す。

 

外道多いのう。

 

中の中には中の道あるぞ。

 

中の中のゝは無であるから動きないぞ。

 

動きないから無限の動きぢゃ。

 

そのゝの外の中は人民にも動きみゆるぞ。

 

この道は中ゆく道ざと申してあろうが、

中のゝの道は太神の道、中行く道が神の道、

中の道が人の道ぢゃ。

 

判りたか。

 

 

春の巻、第五十八帖(七一五)

 

心の洗濯 早ういたして 太f:id:satonory4949:20200215124047g:plainf:id:satonory4949:20200215124049g:plain(オオヒツキ)太神様に、

殊に育ての、

生みの親さま 九二十九十千(クニトコタチ)の大神様の御実体を理解せねば、

自分でいくら頑張ってもやりそこないぢゃ。

 

われがわれがと思ふてゐるなれど、

皆このほうがかげからさしてゐるのに気づかんのか。

 

おわびせよ。

 

と申せば、そんな悪いことした覚えないと申すが、何処迄くもったのぢゃ。

 

神にささげるには、

自分に与へられたものの中から ささげねばならんぞ。

 

むさぶり取ったり横取りしたり、

自分のものでないもの、

もうけたカスを神にささげて威張ってゐるが、

それはささげ物にならん。

 

神は受け給わんぞ。

 

泥棒のお残りちょうだいは真平ぢゃ。

 

自分のもの先づささげるから弥栄えるのぞ。

 

おかげ万倍間違ひなし。

 

 

697>714

春の巻、第四十帖(六九七)

 

思想と申すのは広い意味で、太神から出てゐるのではあるが、

幽界からの力が強く加わってゐるのぢゃ。

 

ネンと申すのは神界からの直々であるぞ。

 

悪の気、断たねばネンとはならんぞ。

 

 

春の巻、第五十七帖(七一四)

 

後にも先にもない、みせしめ出てくるぞ。

 

めぐりひどい所ほど、ひどい見せしめ。

 

神がまこと心見抜いたら どんな手柄でも致さすぞ。

 

自分でびっくり。

 

まことの人程おかげおそい、おそい程 大きおかげあるぞ。

 

同じ筋のミタマ沢山にあるのぢゃ。

 

類魂と人民申してゐるもの。

 

いくら因縁あっても曇りひどいと、

その類魂の中から次々に代りのミタマ使ふ仕組。

 

兎や角申さずに素直について御座れ。

 

 

698>713

春の巻、第四十一帖(六九八)

 

天には天の道、地には地の道、人民には人民の道あると申してあろう。

 

同じ道であるが違ふのぞ。

 

地にうつし、人民にうつす時は、地の約束、人民の約束に従ふのぞ。

 

約束は神でも破れんのであるぞ。

 

次元違ふのであるから違ってくるぞ。

 

違ふのが真実であるぞ。

 

それを同じに説いたのが悪の教。

 

同じと思ふのが悪の考へ方であるぞ。

 

上から来るものは光となって流れてくるのざ。

 

光に本来影はないのであるが、動くから影がうまれる。

 

それを影でない影と申すぞ。

 

悪でない悪あると申してあろうがな。

 

天には天の自由、地には地の自由、

神には神の、人民には人民の、

動物には動物の、それぞれの自由あるぞ。

 

その性の高さ、清さ、大きさなどによって、

それぞれの制限された自由あるぞ。

 

自由あればこそ動くぞ。

 

自由とは弥栄のこと。

 

光は神から人民に与へられてゐる。

 

光に向かふから照らされる。

 

光は、ゝ、真、善、美、愛となり、

又そのうらの〇、疑、悪、醜、憎となり現はれるぞ。

 

御用の善となり、御用の悪となる。

 

悪にくむは外道の善、

外道とは上からの光が一度人民界にうつり、

人民界の自由の範囲に於ける凸凹にうつり、

それが再び霊界にうつる。

 

それが幽界と申してあらう。

 

その幽界から更に人民界にうつったものが外道の善となり、

外道の悪となるのざ。

 

善にも外道あるぞ。

 

心得よ。

 

光は天のみでなく、地からも人民からも、

すべて生命あるものから出てゐるのであるが、

その喜びの度に正比例してのものであるから、

小さい生命からの光は判らんのであるぞ。

 

 

春の巻、第五十六帖(七一三)

 

行く水にも雲にも咲く花にも神のみ心あるぞ。

 

それ見る目ないからわからんのぢゃ。

 

掃除すれば判る。

 

掃除結構。

 

拝むは拝まんよりはましであるぞ。

 

しかし拝んでばかりでは病気は治らん。

 

金はもうからん。

 

拝むばかりで金もうけ出来たり病気治ったりすると思ふたら間違ひぞ。

 

理(ミチ)にいそしめ。

 

理(ミチ)ゆくところ喜びあるぞ。

 

喜びあるから病気も治るのぢゃ。

 

金も出てくるのぢゃ。

 

おかげあるのぢゃ。

 

喜び神ぢゃ。

 

タテには神と神界と和し、

ヨコには人と環境と大和して行くところにこそ、

生きの生命のウレシウレシあるのであるぞ。

 

 

699>712

春の巻、第四十二帖(六九九)

 

いくさは善にもあり、悪にもあり、

右には右の、左には左の、

上には上の、下には下の、

中には中の、外には外のいくさあるぞ。

 

新しき御代が到来しても いくさはなくならん。

 

いくさも歩みぞ。

 

弥栄ぞ。

 

ぢゃと申して今のような外道のいくさでないぞ。

 

人殺し、生命殺すようないくさは外道。

 

やればやる程はげしくなるぞ。

 

正道のいくさは人を生かすいくさ、やればやるほど進むのぢゃ。

 

今の人民いくさと申せば、

人の殺し合ひと早合点するが、それは外道のいくさ。

 

天国へのいくさもあるぞ。

 

幽界へのいくさもあるぞ。

 

人民の云ふ今のいくさ、今の武器は、

人殺す外道の道、それではならんのう。

 

外道なくして下されよ。

 

外道はないのであるから、

外道 抱き参らせて、正道に引き入れて下されよ。

 

新しき霊界は神人(カミヒト)共でつくり出されるのざ。

 

それは大いなる喜びであるからぞ。

 

神のみ旨であるからぞ。

 

新しき世はあけてゐるぞ。

 

夜明ければヤミはなくなるぞ。

 

新しきカタはこの中からぞ。

 

日本からぞ。

 

日本よくならねば世界はよくならん。

 

外道の武器すてよ。

 

外道の武器生かして、活かして、

いのちを生かす弥栄の武器とせよ。

 

かへられるでないか。

 

 

春の巻、第五十五帖(七一二)

 

十二年おくれてゐるのを取り戻すのであるから、

これからは目の廻る程 急しくなってくるぞ。

 

神示よむ暇もなくなると申してある時来たぞ。

 

いづれは人民へるなれど、何も約束ごと真理とはかえられん。

 

まこと求めるならば、

これと見届けたならば、その場で御用与へる仕組。

 

 

700>711

春の巻、第四十三帖(七〇〇)

 

与へよ、与へよ、与へよ、与へる政治と申してあろうが。

 

戦争か平和かと人民申してゐるなれど、

道はその二つでないぞ、三が道と、くどう申してあろう。

 

水の外道の武器と火の外道の武器の他に、新しき武器気づかんのか。

 

神示よく読めば示してあるのであるぞ。

 

ほかに道ないと きめてかかるから判らんのざ。

 

生れ赤児になれば判るぞ。

 

知らしてやりたいなれど、知らして判るのでは自分のものとならん。

 

自分が体得し、自分から湧き出ねば自分のものでないぞ。

 

つけ焼刃は危ない、危ない。

 

気狂ひに刃物ぞ。

 

平面的考え、平面生活から立体に入れと申してあろうがな。

 

神人共にとけ合ふことぞ。

 

外道でない善と悪ととけ合ふのぞ。

 

善のみで善ならず。

 

悪のみで悪ならず。

 

外道は夜明けくれば消えて了ふぞ。

 

夜明けの御用大切と申してあろうが。

 

外道の悪 殺すでないぞ。

 

抱き参らすから消えるのであるぞ。

 

 

春の巻、第五十四帖(七一一)

 

見へる幸福には限りがあり、見へぬ幸福は永遠であるぞ。

 

理(ミチ)にいそしめ。

 

理(ミチ)にとけ入れよ。

 

モノは無くなるぞ。

 

霊は永遠に弥栄えるぞ。

 

毎日々々掃除してもホコリはたまる。

 

絶えず心の掃除よいか。

 

洗濯よいか。

 

目に見へず、

上、下、左、右、前、後から何となくせまってくるものをサニワせよ。

 

サニワして受けいれねばならん。

 

自分の魂をはぐくみ、

生長さしてくれる大切なものは目に見へんところから流れてくるぞ。

 

和せよ。

 

調和せよ。

 

調和とは、上から、より清い所から流れて来るものに従ふことぞ。

 

いよいよが一四一四となるぞ。

 

雨の神、風の神、地震の神、岩の神、荒の神、

地震の神。

 

 

701>710

春の巻、第四十四帖(七〇一)

 

念入れかへるぞ。

 

念入れかへるとは、新しき霊界つくることぞ。

 

新しき霊界つくるとは、太神の真中にとけ入ることぞ。

 

 

春の巻、第五十三帖(七一〇)

 

どうしたらよいのぢゃ、

神の云ふこときくから助けてくれと申すもの沢山でてくるが、

何も六ヶ敷いこと神は申さん。

 

現在を足場として一歩づつ進めばよいのぢゃ。

 

それでは食って行けんと申すものあるが、

神はあり余るほど与へてあるでないか。

 

何故、手出さんのぢゃ。

 

与へたもののみが自分のものぞ。

 

今の人民、余っても足らんと考へて、むさぶりてゐるぞ。

 

幸福与へてあるに何故手出さんのぢゃ。

 

曲げてとるのぢゃ。

 

心の目ひらけよ。

 

ゴモク投げ出せよ。

 

我の強い守護神どの、もう我の世はすんだぞ。

 

我出すほど苦しくなるのぢゃ。

 

 

702>709

春の巻、第四十五帖(七〇二)

 

一時は人民なくなるところまで行くと申してあらうが。

 

人民なくしても人民なくならん。

 

洗濯して掃除して、新しき道 早う進めよ。

 

おそくなる程 六ヶ敷く苦しくなるぞ。

 

近目で見るから判らん。

 

日本の、世界あけたり。あな爽々(スガスガ)し、日本晴れぞ。

 

二二(フジ)は晴れたりとは、真理の世に出づことぞ。

 

天のこと地にうつすときは、

地の力出るように、地の息吹き通ふように、

弥栄するように、

念を地の力と現はれるように、正しくうつして下されよ。

 

邪気入ってはならん。

 

 

春の巻、第五十二帖(七〇九)

 

まことの光の道に行き、進めよ。

 

ここぞと見極めたら、理解に向ってひたすらに進まねばならん。

 

理屈いらん。

 

宇宙はこの方の中にあるのぢゃ。

 

このほうぢゃ。

 

世が段々せまって悪くなるように申してゐるが、

それは局部的のこと。

 

大局から見れば、よきに向って弥栄えてゐるぞ。

 

夏が暑いと申してブツブツ申すでないぞ。

 

秋になるぞ。

 

冬もあるぞ。

 

冬ばかりと考へるでないぞ。

 

やがては春が訪れるのぢゃ。

 

いづれも嬉し嬉しとなる仕組。

 

 

703>708

春の巻、第四十六帖(七〇三)

 

今の武器は幽界の裏打ちあるぞ。

 

神界の裏打ちある武器でなくてはならん。

 

まことの武器ぞ。

 

ヒックリであるぞ。

 

念からつくり出せよ。

 

その念のもとをつくれば、神から力を与へるから、

この世の力と現はれるぞ。

 

念の凸凹から出た幽界を抱き参らさねばならんのざ。

 

中々の御苦労であるなれど、

幽界を神界の一部に、力にまで引きよせねばならん。

 

 

春の巻、第五十一帖(七〇八)

 

人民の因縁性来はみな神示にかかしてあるぞ。

 

そなたのこと何も彼も一目ぢゃ。

 

因縁判ってうれしうれしで御用結構。

 

うれしおそろしくなる仕組。

 

 

704>707

春の巻、第四十七帖(七〇四)

 

念が新しき武器であるぞ。

 

それでは人民まわりくどいと申すであろうなれど。

 

ものごとには順と時あるぞ。

 

もとのキから改めて下されよ。

 

尊き御役。

 

 

春の巻、第五十帖(七〇七)

 

その人によってふさわしい行がある。

 

誰でも同じでない。

 

一合食べる人もあれば一升食べる人もあるぞ。

 

身につかんもの、身につかん行は、いくらしても何もならん。

 

いらん苦労はいらんと申してあろう。

 

風呂には時々入るが、魂の風呂に行く人 少ないぞ。

 

より高い聖所へ参りて魂のアカ落せよ。

 

神示よんで落して下されよ。

 

アカ落さずに神の光見えんと申して、

おかげないと、われよし申して御座るなれど、

風呂に入らずに、アカつくとは怪しからんと申すのと同じでないか。

 

何故に判らんのぢゃ。

 

全体の為 奉仕するはよいが、

自分すてて全体なく、自分ないぞ。

 

全体を生かし、全体と共に部分の自分が弥栄えるのであるぞ。

 

早合点 禁物。

 

 

705>706

春の巻、第四十八帖(七〇五)

 

念なりと、今の人民申す思想はマコトの念でないぞ。

 

思想は思想ぞ。念とは力であるぞ。

 

実在であるぞ。

 

喜びであるぞ。

 

喜びは神ぞ。

 

弥栄。(二月十二日、ひつく神)

 

 

春の巻、第四十九帖(七〇六)

 

これぞと思ふ人があったら、

その理(ミチ)の人について御座れよ。

 

一寸先見へん人民ぢゃ。

 

先達の後からついて御座れ。

 

それが一番よいことぢゃ。

 

人、見出すこと六ヶ敷いのう。

 

十年、二十年行じても、目あて違ってゐたら何にもならんぞ。

 

このほうの道へ御座れ。

 

正しき光の道によれよ。

 

十日で、一月で見ちがへる程になるぞ。

 

死んだ気で神示(フデ)をそなたの身にうつせよ。

 

涙流せよ、汗流せ、血流せよ。

 

天災や地変は大き肉体の応急処置の現れであるぞ。

 

部分的に、人間苦しめる様に思ふてはならん。

 

一日一度は便所へ行かなならんであろうがな。

 

人間、この世の五十年をもととして考へるから判らなくなるのざ。

 

永遠弥栄の生命、早う体得結構。

 

 

 

まぜまぜ 六六一~六九〇

ひふみ神示 まぜまぜの第六六一帖~第六九〇帖

 

 

第二十七巻 春の巻

全六十帖・通し番号(六五八)~(七一七)のうち(六六一)~(六九〇)

自  昭和二十七年旧一月 一日

至  昭和二十七年 二月十五日

 

 

661>690

春の巻、第四帖(六六一)

 

f:id:satonory4949:20200222155313g:plainがよろこびであるぞ。

f:id:satonory4949:20200319172155g:plainもよろこびであるぞ。

よろこびにも三つあるぞ。

 

f:id:satonory4949:20200222155313g:plainは表、f:id:satonory4949:20200319172155g:plainは裏、表裏合せてf:id:satonory4949:20200215124119g:plainぞ。

 

f:id:satonory4949:20200215124119g:plainは神であるぞ。

 

神であるなれど現れの神であり、現れのよろこびであるぞ。

 

f:id:satonory4949:20200215124119g:plainのもとがΘであるぞ。

 

キであるぞ。

元の元の太元の神であるぞ。

 

△(ム)であるぞ。

 

△(ム)から ▽(ウ)生れ、 ▽(ウ)から △(ム)生れるぞ。

 

同じ名の神二つあると申してあろうが。

 

表の喜びが ゝ、愛、真、善、美となり現れ、

裏の喜びからは、〇、憎、偽、悪、醜が現れるのぢゃ。

 

喜びが神ぢゃと申して裏の喜びではならんぞ。

 

今の人民の喜びと申すのは裏の喜びであるぞ。

 

悲しみを喜びととり違へているぞ。

 

この巻、春の巻。こまかに説いて判り易く説いてきかすぞ。

 

分ければそれだけ小さくなるなれど。

 

 

春の巻、第三十三帖(六九〇)

 

新玉の 真珠の波も 草も木も 春立ちそめて よみかへりけり。

 

今の科学は科学のことは判るが、それより上のことは判らん。

 

今の科学はあるものがあると云ふことだけしか判らんのぢゃ。

 

よい求めにはよい感応、よい感応によい働き、

よい理解となり、よい生活 生れる。

 

間違った求めには間違った神、間違った生活 生れるぞ。

 

道理ぢゃナア。

 

窮屈であってはならん。

 

しかつめらしく固くなってゐてはならんぞ。

 

笑ひの道、喜びの道にこそ神のハタラキあるのぢゃ。

 

宿命は宿されたもの。

 

一つのワクに入ってゐるのであるぞ。

 

運命は自分で切りひらくこと出来るぞ。

 

磨け磨け、ミタマ磨き結構。

 

信念だけでは行き詰るぞ。

 

 

662>689

春の巻、第五帖(六六二)

 

人民 栄えて行くことは、神、弥栄のことぞ。

 

神も、人民も、世界も、宇宙も、総ていつまでも未完成ぞ。

 

神様でも大神様は判らんのであるぞ。

 

只、よろこびに向ってひたすらに進んで行けばよいのであるぞ。

 

正しき喜びを先づ見極めよ。

 

見きわめてひたすらに進めばよいのぢゃ。

 

食物を食べるのも喜びであるぞ。

 

正しき食物 正しく食べよ。

 

更に喜びふへて弥栄へるのぢゃ。

 

自分の喜びを進め進めて天国へ入ること出来るのぢゃ。

 

悪い食物 悪く食べるから悪くなるのぢゃ。

 

目に見へる食物ばかりでないぞ。

 

何も彼も同様ぞ。

 

人民は喜びの子と申してあろう。

 

罪の子でないぞ。

 

うれしうれしの道あるに、何故 歩まんのぢゃ。

 

 

春の巻、第三十二帖(六八九)

 

信仰の始めは感情に支配されがちぢゃ。

 

理智を強く働かせねばならんぞ。

 

人間は絶えずけがれてくる。

 

けがれは清めることによって、あらたまる。

 

厄祓ひせよ。

 

福祓ひせよ。

 

想念は永遠にはたらくから、悪想念は早く清算しなければならんぞ。

 

中の霊は天国へ行っても、外の霊はこの世に残るぞ。

 

残ることあるぞ。

 

残ってこの世の事物にうつって同じこと、

所業をくりかへすことあるぞ。

 

早く洗濯せよと申してあろうがな。

 

梅の実から梅が生へるのぢゃ。

 

その梅に実出来て又梅が生へるのぢゃ。

 

人間も生れかわっても死にかわっても、

中々に悪いくせは直らんもんぢゃぞ。

 

それを少しづつ直してかからねばならん。

 

努力次第で漸次直るのぢゃぞ。

 

宗教は霊、芸術は体ぞ。(二月一日、ひつく神)

 

 

663>688

春の巻、第六帖 (六六三)

 

喜びが ゝ、真、善、美、愛と現はれ、

それが又、喜びとなり、

又、ゝ、真、善、美、愛となり。

又現はれ、限りないのぢゃ。

 

喜びの本体はあの世、現はれはこの世、

あの世とこの世合せて真実の世となるのぞ。

 

あの世ばかりでも片輪、この世ばかりでも片輪、まこと成就せんぞ。

 

あの世とこの世と合せ鏡。

 

神はこの世に足をつけ衣とし、

人はあの世をΘとして、

心として生命しているのぢゃ。

 

神人と申してあろうがな。

 

この十理(ドーリ)よくわきまへよ。

 

この世にあるものの生命はあの世のもの、

あの世の生命の衣はこの世のもの。

 

くどいようなれど このこと肚の中に、得心なされよ。

 

これが得心出来ねば どんなによいことをしても、

まこと申しても なにもならん、ウタカタぢゃぞ。

 

時節来たのぢゃから、今迄のように一方だけではならんぞよ。

 

 

春の巻、第三十一帖(六八八)

 

今の自分の環境がどんなであろうと、それは事実であるぞ。

 

境遇に不足申すなよ。

 

現在を足場として境遇を美化し、善化してすすめ。

 

其処にこそ神の光、よろこび現れるのぢゃ。

 

逃げ道つくれば迷ひの道に入るぞ。

 

楽に得たもの、楽に失う。

 

 

664>687

春の巻、第七帖 (六六四)

 

ことわけて書きおくから、迷はんように。

 

人民の理(ミチ)歩んで呉れよ。

 

何も彼も嬉し嬉しとなる仕組、人民に禍ないのぢゃ。

 

不足ないのぢゃ。

 

いつも楽し楽しの歌で暮せる仕組ぢゃぞ。

 

と申しても、

心で判っても、今の人民には判るまいから、

更にこと分けて、こまかに説いてきかすぞ。

 

理(ミチ)しるべをつくりおくぞ。

 

これがよろこびの理(ミチ)ぢゃ。

 

人民のいのちを正しく育てることが一番のよろこび。

 

人民と申すものは神の喜びの全き現れであるぞ。

 

いくらけがれても元の神の根元神のキをうけてゐるぞ。

 

それを育てることぢゃ。

 

導くことぢゃ。

 

死なんとする人助けるのもその一つぢゃ。

 

宿った子殺すことは、人民殺すことぢゃ。

 

今の人民 九分九厘は死んでいるぞ。

 

救へ、救へ、救へ。

 

おかげは取りどくぢゃ。

 

生かせよ。生かせよ。

 

生かす理(ミチ)は神示よむことぢゃ。

 

 

春の巻、第三十帖(六八七)

 

宇宙のすべてがつながりであるぞ。

 

石でも水でも草でも木でも動物でもすべてがつながりぢゃ。

 

手と頭のようなもんぢゃ。

 

拝み合へよ。

 

親しみ合へよ。

 

和せよ。

 

和すと自分となるのぢゃぞ。

 

自分 大きく、明るくなるのぢゃ。

 

豊かにうれしうれしぢゃ。

 

赤いものの中にゐると赤くなって行く。

 

理(リ)に向ってゐると、いつの間にか神の気いただくぞ。

 

神の光がいただけるのぢゃ。

 

二度三度、話きいたり、おろがんだりくらいで理は判らん。

 

神は解らん。

 

体験せねばならん。

 

一方的では何事も成就せん。

 

もちつもたれつであると申してあろう。

 

 

665>686

春の巻、第八帖 (六六五)

 

人民をほめること よいことぢゃ。

 

ほめて、その非をさとらせよ。

 

罪ゆるすことぢゃ。

 

もの生かすことぢゃ。

 

生かして使ふことぢゃ。

 

神示(フデ)ひろめることぢゃ。

 

やって見なされ。

 

必ずうれしうれしとなるぞ。

 

栄えるぞ。

 

嬉しくなかったら神はこの世に居らんぞよ。

 

神示は一本道ぢゃ。

 

始めからの神示よんで、よく読んで見なされ。

 

何も彼もハッキリしてくるぞ。

 

神示うつして下されよ。

 

世界にうつすことよろこびぞ。

 

地に天国うつすことぞ。

 

六ヶ敷いことないぞ。

 

今の裏のやり方、ひっくり返して表のやり方すれば、

それでよいのぢゃ。

 

裏は裏として生きるのぢゃぞ。

 

金は使ふもの。

 

使はれるものでないこと よく判って居らうが。

 

御苦労のことやめなされよ。

 

 

春の巻、第二十九帖(六八六)

 

神から出るものは理(リ)にきまってゐるぞ。

 

この平凡の理(ミチ)の道理が何故に判らんのぢゃ。

 

得心出来んのぢゃ。

 

それに従へばこそ向上、弥栄するのぢゃ。

 

天狗ざから、慢心するから、

理がなくなるから行き詰るのぢゃ。

 

一応は世界一家のカタ出来るのぢゃ。

 

が、それではならん。

 

それを越えて、ねり直してマコトの一家となるのぢゃ。

 

天が上で地が下で、中にゝあるのぢゃ。

 

それがミロクの世ぢゃ。

 

気長にやれと申してあろう。

 

長い苦心なければ よいもの出来ん。

 

この世で出来終らねば、

あの世までもちつづけても やりつづけてもよいのぢゃ。

 

そなた達はあまりにも気が短いぞ。

 

それではならんのう。

 

マコトの生活は永遠性もってゐるぞ。

 

これないものは宗道でないぞ。

 

 

666>685

春の巻、第九帖 (六六六)

 

人民には分別与へてあるから反省できるのであるぞ。

 

反省あるから進展するのであるぞ。

 

ほっておいても、いらんものは無くなり、

いるものは栄へるのであるが、

人民の努力によっては、よりよくなるのぢゃ。

 

省みねば生れた時より悪くなると申してあろうが。

 

慾、浄化して喜びとせよ。

 

喜び何からでも生れるぞ。

 

広い世界に住めば広く、深い世界に住めば深く向上する。

 

物の世界から霊の世界へ、

無限の世界へ入るから無限の生命が与へられるのぢゃ。

 

無限の喜び得ること出来るのぢゃ。

 

無限世界とは物と霊との大調和した、限りなき光の世界ぞ。

 

真理を知ることが、無限を得ること。

 

まことの神をつかむことぞ。

 

よいものつくるには大き手数かかるのぢゃ。

 

ふところ手でいては出来ん。

 

手出せ、足出せよ。

 

 

春の巻、第二十八帖(六八五)

 

親子、夫婦、兄弟姉妹と生れても逆縁あるぞ。

 

カタキ同士 結ばれることあるぞ。

 

それは神の大き恵みぞ。

 

それに打ちかって、新しき生命うみ出してつかへまつれ。

 

体験ないところに宗教はない。

 

 

667>684

春の巻、第十帖(六六七)

 

一切のものは🌀(ウズ)であるぞ。

 

同じことくりかへしているように、

人民には、世界が見えるであろうなれど、

一段づつ進んでいるのであるぞ。

 

木でも草でも同様ぞ。

 

前の春と今年の春とは、同じであって違って居らうがな。

 

行き詰りがありがたいのぢゃ。

 

進んでいるからこそ、行きあたり行きつまるのぢゃ。

 

省みる時あたえられるのぢゃ。

 

さとりの時与えられるのぢゃ。

 

ものは、はなすからこそ掴(旧字体)めるのぢゃ。

 

固く握って戸しめていてはならんのう。

 

扉あけておけと申してあろうが。

 

着物ぬいで裸体となることつらいであろうなれど、

ぬがねば新しい着物きられんぞ。

 

裸になってブツカレよ。

 

神様も裸になってそなたを抱いてくださるぞよ。

 

重い石のせたタクアンはうまいのであるぞ。

 

 

春の巻、第二十七帖(六八四)

 

八合目あたりに参ると総ての様子が、ほぼ見当つくぞ。

 

それ迄は誰でもよくわからんもんぢゃ。

 

これと云う先達があったら、

先達の云うこと、云う通りについて行けよ。

 

おかしい先達は始めからおかしいぞ。

 

苦労し、手をかけ、金かけるほどよいもの出来るぞ。

 

信念越えて自分より上のものにまかせきったのが理解であるぞ。

 

信念だけでは何事も出来ん。

 

確信は理解からぞ。

 

 

668>683

春の巻、第十一帖(六六八)

 

内の自分は神であるが、外の自分は先祖であるぞ。

 

祖先おろそかにするでないぞ。

 

先祖まつることは自分をまつることぞ。

 

外の自分と申しても肉体ばかりでないぞ。

 

肉体霊も外の自分であるぞ。

 

信じ切るからこそ飛躍するのぢゃぞ。

 

不信に進歩弥栄ないぞ。

 

肉体霊も外の自分であるぞ。

 

まかせ切るからこそ神となるのぢゃ。

 

神に通づるのぢゃ。

 

他力で自力であるぞ。

 

真剣なければ百年たっても同じ所ウヨウヨぢゃ。

 

一歩も進まん。

 

進まんことはおくれていることぞ。

 

真剣なれば失敗してもよいと申してあろうが。

 

省みることによって更に数倍することが得られるのであるぞ。

 

いい加減が一旦成功しても土台ないからウタカタぢゃ。

 

下座の行、大切。

 

 

春の巻、第二十六帖(六八三)

 

神にまかせきると申しても、

それは自分で最善をつくして後のことぢゃ。

 

努力なしにまかせるのは悪まかせぢゃ。

 

悪おまかせ多いのう。

 

魂の財産は金を得るより数倍六ヶ敷いぞ。

 

ぬれ手で粟のやり方、カスつかむぞ。

 

むやみに腹が立ったり、悲しくなったり、

くやしくなったりするのは、まだめぐりあるからぢゃ。

 

めぐりの霊界との因縁が切れて居らぬからぢゃ。

 

愛は養はねばならん。

 

夫婦はいのちがけで、お互にきづき合はねばならんぞ。

 

夫婦愛はあるのではない。

 

築き上げねばならんぞ。

 

生み出すのぢゃ。

 

つくり出すのぢゃ。

 

そこに尊さあるぞ。

 

喜びあるぞ。

 

左には宗教、右には芸術。

 

 

669>682

春の巻、第十二帖(六六九)

 

無くて七癖、七七四十九癖、悪い癖 直して下されよ。

 

天国へ行く鍵ぞ。

 

直せば直しただけ外へひびくものが、かわって来るぞ。

 

よくなってくるぞ。

 

かわって来れば、外からくるもの、自分に来るもの、かわってくるぞ。

 

よくなってくるぞ。幸となるぞ。

 

よろこび満ち満つぞ。

 

神みちみちて天国ぢゃ。

 

一升桝もってきて一斗入れよと人民申しているが、

神は一斗も二斗も入れてやりたいなれど、

一升桝には一升しか入らん。

 

大き桝もって来い。

 

頂くには頂くだけの資格いるぞ。

 

一歩づつ進め。

 

一歩づつ絶えず進めよ。

 

それより他に道はないのぢゃ。

 

 

春の巻、第二十五帖(六八二)

 

局部的に見るから判らんのぢゃ。

 

文字書くのは心であるが、心は見えん、手が見へるのぢゃ。

 

手見るはまだよい方ぢゃ。

 

筆の先だけしか見えん。

 

筆が文字書いていると申すのが、今の人民の考へ方ぢゃ。

 

筆が一番偉いと思ふて御座るのぢゃ。

 

信仰に入った始はよいが、途中から判らなくなるのぢゃ。

 

そこが大切ぞ。判らなくなったら神示(フデ)よめよ。

 

キ頂いてよみかへるぞ。

 

出足の港は二二の理(ミチ)からぢゃと申してあろう。

 

【真理】と申してあろう。

 

これが乱れると世が乱れるぞ。

 

神界の乱れイロからぢゃと申してあろう。

 

男女の道 正されん限り、世界はちっともよくはならんぞ。

 

今の世のさま見て、早う改心、結構いたしくれよ。

 

和は力ぞ。

 

 

670>681

春の巻、第十三帖(六七〇)

 

自分はよいが、世の中が悪いのぢゃと申しているが、その自分省みよ。

 

自分が神の理(ミチ)にあり、真実であるならば、世の中は悪くないぞ。

 

輝いているぞ。

 

自分にふりかかって来る一切のものは最善のものと思へ。

 

如何なる悪いことも それは最善のものであるぞ。

 

この道理よくわきまへて下されよ。

 

真の神を理解すれば、一切の幸福 得られるのぢゃ。

 

世を呪ふことは自分を呪ふこと、

世間や他人を恨むことは自分を恨むこと。

 

このこと悟れば一切はそこからひらけくるぞ。

 

十のもの受けるには十の努力。

 

 

春の巻、第二十四帖(六八一)

 

自分すてて他力なし。

 

人民なくて此の世の仕事出来ん。

 

人民は道具ぢゃ。

 

神は心ぢゃ、元ぢゃ、元だけではならん。

 

道具だけでならん。

 

大神は一切を幸し、一切を救ひ給ふのであるぞ。

 

一切が神であり一切が喜びであるぞ。

 

その人民にメグリなくしてもメグリ負ふことあるぞ。

 

人類のメグリは人類の誰かが負はねばならん。

 

一家のメグリは一家の誰かが負はねばならん。

 

果たさねばならん。

 

善人が苦しむ一つの原因であるぞ。

 

神の大きな恵みであり試練であるぞ。

 

判りたか。

 

愛するものほど、その度が濃い程、魂が入っているのぢゃ。

 

先祖が大切していたものは大切せねばならんぞ。

 

現界のみの理屈は通らんぞ。

 

飛んだ目に会ふぞ。

 

気つけおくぞ。

 

念じてから行へ。

 

 

671>680

春の巻、第十四帖(六七一)

 

どんな草でも木でも その草木でなければならん御用あるぞ。

 

だから生きているのぢゃ。

 

そのはたらき御用忘れるから苦しむ。

 

行き詰る。

 

御用忘れるから亡びるのぢゃ。

 

個人は個人の、一家は一家の、国は国の御用がある。

 

御用大切、御用結構。

 

日本が変って世界となったのぢゃ。

 

自分の為ばかりの祈りには、自分だけの神しか出て来ない。

 

悪の祈りには悪の神。

 

善の祈りには善の神。

 

始めの間は中々判らんものぢゃ。

 

神様のなされるマネから始めて下されよ。

 

 

春の巻、第二十三帖(六八〇)

 

順と区別さへ心得て居れば、何様を拝んでもよいと申してあろうが。

 

日の神様ばかりに囚われると判らんことになるぞ。

 

気付けおくぞ。

 

それでは理(ミチ)にならん。

 

父だけ拝んで母拝まんのは親不孝ぞ。

 

おかげないぞ。

 

おかげあったらヨコシマのおかげと心得よ。

 

手だけ尊んではいかん。

 

足だけ尊んでもいかん。

 

一切に向って感謝せよと申してあろうが。

 

門もくぐらず玄関も通らずに奥座敷には行かれん道理。

 

順序を馬鹿にしてはならんぞ。

 

いつ迄門に立っていても何もならん、お出直しぢゃ。

 

川がなければ水流れん道理。

 

始はカタふんで行かなならんぞ。(ひつくの神二月三日)

 

 

672>679

春の巻、第十五帖(六七二)

 

思ふようにならんのは、天地の弥栄。

 

生成化育にあづかって働いていないからぞ。

 

今の世界の行き詰りは、世界が世界の御用をしてないからぢゃ。

 

神示よめよ。

 

秘文(ヒフミ)世界にうつせよ。

 

早ううつせよ。

 

早ううつせよ。

 

人間の智のみでは世界はよくならん。

 

裏側だけ清めても総体は清まらん。

 

神にめざめねばならん。

 

愛にも内のものと外のものとがある。

 

愛と申せば何でもよいと思ふていてはならん。

 

愛の悪もあるぞ。

 

総てこの通りぢゃ。

 

上の、より高いところから来るから奇跡と見へ、偶然と見へるのぢゃ。

 

神からの現われであるから、

その手順が判らんから偶然と見へるのぢゃぞ。

 

偶然の真理さとれと申してあろう。

 

これが判れば大安心。

 

立命

 

 

春の巻、第二十二帖(六七九)

 

宇宙の総てはこの神の現れであり、一面であるから、

その何処つかんで拝んでもよいのである。

 

その何処つかんで、すがってもよいのであるぞ。

 

水の流れも宗教ぞと申してあらう。

 

総てに神の息、通ふているぞ。

 

一本の箸 拝んでもよいのぢゃが、

ちゃんとめあて、よいめあて、きめねばならん。

 

内の自分に火つけよ。

 

心くらくては何も判らん。

 

世の中は暗う見えるであろう。

 

真暗に見えたら自分の心に光ないのぢゃ。

 

心せよ。

 

自分光れば世の中明るいぞ。

 

より上のものから流れてくるものにまつりて行くこと大切ぢゃ。

 

それがまつりの元。

 

それが宗教ぢゃ。

 

宗教は生活ぢゃ。

 

生活は宗教ぢゃ。

 

裏と表ぢゃ。

 

 

673>678

春の巻、第十六帖(六七三)

 

あなたまかせ、よい妻と申してあろうが。

 

神まかせがよい人民であるぞ。

 

この神とみとめたら理解して、マカセ切れよ。

 

太元の神さまにホレ参らせよ。

 

真の信仰の第一歩ぞ。

 

雨降らば雨を、風ふけば風を、一先づ甘受せよ。

 

甘受した後、処理して行かなならん。

 

受けいれずにハネ返すのは大怪我のもと。

 

何回でも何回でも同じことくりかえさねばならんことになるぞ。

 

何か迫り来るのは、何か迫り来るものが自分の中にあるからぞ。

 

内にあるから外から迫るのぢゃ。

 

自分で呼びよせているのぢゃ。

 

苦しみの神、因果の神 呼んでおいて、不足申している者 多いのう。

 

自分で呼びよせながら嫌がってハネ返すテあるまいにのう。

 

同じものでも表からと裏からとでは違ふのぢゃ。

 

同じ目で見ても、ちがってうつるのぢゃ。心得よ。

 

 

春の巻、第二十一帖(六七八)

 

太一二f:id:satonory4949:20200215124119g:plain(オーヒツキ)大神としてのこの神は一柱であるが、

働きはいくらでもあるぞ。

 

その働きの名がもろもろの神様の名ぢゃ。

 

無限であるぞ。

 

このほう一柱であるが無限柱ぞ。

 

総てが神であるぞ。

 

一神ぢゃ。

 

多神ぢゃ。

 

汎神(ハンシン)ぢゃ。

 

総てが神ぢゃ。

 

喜びぢゃ。

 

始めから全体を掴もうとしても、それは無理と申すもの。

 

手でも足でもよい、

何処でもよいから掴める所からつかんで御座れよ。

 

だんだん判ってくるぞ。

 

全体をつかむには全体と同じにならねばならん。

 

その人民々々のつかめるところから掴んで参れよ。

 

このほう抱き参らせてやるぞ。

 

マツリから出直せよ。

 

天地見よ。

 

大きマツリ致して居らうがな。

 

霊と肉のまつり第一。

 

頭とハラのまつり結構。

 

二二のマツリ、出船の港ぢゃ。

 

奥から来るものは喜びぢゃ。

 

念ぢゃ。

 

力のもとぢゃ。

 

生きの生命ぢゃ。

 

神様にはハラを向けなさい。

 

 

674>677

春の巻、第十七帖(六七四)

 

希望は愛の現れの一つ。

 

どんな時、どんな人にも与へられているのぢゃ。

 

希望にもえつつ、現在を足場として生きよ。

 

呼吸せよ。

 

同じことしていても、希望もつ人は栄え、希望なき人は亡びる。

 

希望は神ぞ。

 

アイウエオからアオウエイの世にうつって来るぞ。

 

アオウエイの世が天国ぢゃ。

 

用意はよいか。

 

今の世は道具ばかりぢゃ。

 

使ふ人民、早うつくれよ。

 

 

春の巻、第二十帖(六七七)

 

他力の中の自力ぢゃ。

 

ぢゃと申して、まかせきったと申して、ふところ手ならん。

 

自力大切ぢゃ。

 

まつりは常住坐臥(じょうじゅうざが、普段の生活の中の意)にあるぞ。

 

拝むばかりではならん。

 

【拝むまつりはまつりのカタぢゃ】。

 

カタから入るのが入り易いが、この程度の境地では戒律いるぞ。

 

カタに囚われてはならん。

 

戒律の世界にいつ迄もいてはならん。

 

十年たてば十才になるぞ。

 

恩、知らねばならん。

 

恩に報ひなければならんぞ。

 

人民、天地の恩 忘れているから、喜び少ないのぢゃ。

 

ものの順序わきまえねばならん。

 

悪平等ならん。

 

政治や経済は裏、二義的のもの。

 

 

675>676

春の巻、第十八帖(六七五)

 

使命がいのち。

 

上から、神から命ぜられたことがいのちぞ。

 

使命はつくられた時に与えられる。

 

使命なくてものは生れんぞ。

 

自分の使命は内にききつつ外にきけよ。

 

使命果たすがよろこびぞ。

 

使命果たすには生命がけでなくてはならん。

 

生命ぢゃからのう。

 

努力した上にもせなならんぞ。

 

努力には苦もあるぞ。

 

苦のない努力ないぞ。

 

右を動かせば左もうごくぞ。

 

果たせば苦は楽。

 

果たさねば楽も苦。

 

重荷あるからこそ、苦あるからこそ、風にも倒れんのぢゃ。

 

神が主であるぞ。

 

 

春の巻、第十九帖(六七六)

 

小乗の行と馬鹿にするでないぞ。

 

理屈で神を割出したり、そろばんでハヂキ出したり、

今の鼻高さんはしているなれど、何処まで行っても判りはせんぞ。

 

土耕す祈りに神の姿現はれるぞ。

 

とどまってはならん。

 

いつも弥栄々々に動いて行かなならん。

 

大中心に向って進まねばならん。

 

途中には途中の、大には大の、中には中の、

小には小の中心はあるなれど、行く所は一つぢゃ。

 

ぢゃと申して小の中心を忘れてはならん。

 

神は順であるぞ。

 

先づ小の神から進んで行けよ。

 

ほんとのこと知るには、ほんとの鍛練いるのぢゃ。

 

たなからボタモチ食っていては段々やせ細るのみ。

 

鍛えよ鍛えよ。

 

鍛えればこそ光出て来るのぢゃ。

 

 

 

まぜまぜ 六三一~六六〇

ひふみ神示 まぜまぜの第六三一帖~第六六〇帖

 

 

第二十六巻 黒鉄(クロガネ)の巻

全三十九帖・通し番号(六一九)~(六五七)のうち(六三一)~(六五七)

自  昭和二十五年一月二十二日

至  昭和二十五年十月 十八日

 

 

第二十七巻 春の巻

全六十帖・通し番号(六五八)~(七一七)のうち(六五八)~(六六〇)

自  昭和二十七年旧一月 一日

至  昭和二十七年 二月十五日

 

 

631>660

黒鉄の巻、第十三帖(六三一)

 

理屈で進んで行くと、しまひには共喰から、

われとわれを喰ふことになるぞ。

 

神様を真剣に求めれば、神様は人間様を真剣に導いて下さるぞ。

 

結構に導いて下さるぞ。

 

悪を意志して善を理解すること許さんぞ。

 

悪を意志して善を理解せんとするのが悪ぞ。

 

善を意志して悪を理解せんとするのも悪ぞ。

 

悪を意志して悪を理解する処に、

善としての悪の用(はたらき)うまれるのざ。

 

幽界も亦(また)神のしろしめす一面のこと。(一月二十二日)

 

 

春の巻、第三帖(六六〇)

 

掛巻も、畏き極み、九二つ千の、

清(スガ)の中なる大清み、

清みし中の、清らなる、

 

清き真中の、よろこびの、

其の真中なる、御光の、

そが御力ぞ、綾によし、

 

十九立(トコタチ)まし、

大九二の十九立(オオクニのトコタチ)大神、

十四九百ヌ(トヨクモヌ)、十四(トヨ)の大神、

 

瀬織津の、ヒメの大神、

速秋の、秋津ヒメ神、

伊吹戸の、主の大神、

速々の、佐須良ヒメ神、

 

これやこの、太日月f:id:satonory4949:20200319171501g:plain(オオヒツキかみ)、

皇神(スメカミ)の御前畏こみ(みまえかしこみ)、

 

謹(つつし)みて、うなね突貫き(つらぬき)、白(もう)さまく、

ことのマコト(真言)を。伊行く水。

 

流れ流れて、月速み、

いつの程にや、この年の、

冬も呉竹(くれたけ)、一と夜(ヨサ)の、

 

梓(アズサ)の弓の、今とはや、

明けなむ春の、立ちそめし、

 

真玉新玉、よろこびの、

神の稜威(ミイヅ)に、つらつらや、

 

思ひ浮べば、天地(アメツチ)の、

始めの時に、大御祖神(オオミオヤ)、

九二十九立(クニトコタチ)の、大神伊、

 

三千年(みちとせ)、またも三千年(みちとせ)の、もまた三千年(みちとせ)、

浮きに瀬に、忍び堪えまし、波風の、

その荒々し、渡津海(ワタツミ)の、

 

塩の八百路(やほじ)の、八汐路(やしほじ)の、

汐(しお)の八穂合(やほあい)ひ、洗はれし、

 

孤島の中の、籠らひし、籠り玉ひて、畏くも(かしこくも)、

 

この世かまひし、大神の、

時めぐり来て、一筋の、光の御代と、出でませし、

 

めでたき日にぞ、今日の日は、

 

御前畏こみ(みまえかしこみ)、御饌御酒(ミケミキ)を、

ささげまつりて、海山野(ウミヤマヌ)、

種々(クサグサ)珍(ウズ)の、みつぎもの、

 

供へまつりて、かごぢもの、

ひざ折り伏せて、大まつり、まつり仕へむ、まつらまく。

 

生きとし生ける、まめひとの、ゆくりあらずも、犯しけむ、

罪やけがれの、あらむをば、

 

祓戸(はらえど)にます、祓戸の、大神達と相共に、

ことはかりまし、神直日、大直日にぞ、

見伊直し、聞き直しまし、祓ひまし、

 

清め玉ひて、清々(スガスガ)し、

清(スガ)の御民(ミタミ)と、きこし召し、

 

相(アイ)諾(ウズナ)ひて、

玉へかし、玉はれかしと、多米津(タメツ)もの、

 

百取(モモトリ)、さらに、百取の、

机の代(シロ)に、足らはして、

 

横山の如、波の如、

伊盛、栄ゆる、大神の、

 

神の御前に、まつらまく、こひのみまつる、

畏こみて、まつらく白す、弥(いや)つぎつぎに。

 

新玉(アラタマ)の 玉の御年(ミトシ)の 明けそめて

罪もけがれも 今はあらじな。

 

節分の祝詞であるぞ。

 

 

太のりとせよ。

 

いよいよの年立ちそめたぞ。

うれしうれしの御代来るぞ。

(一月の三十日、日月神。)

 

 

632>659

黒鉄の巻、第十四帖(六三二)

 

悪の総大将は奥にかくれて御座るのぞ。

 

一の大将と二の大将とが大喧嘩すると見せかけて、

世界をワヤにする仕組、もう九分通り出来てゐるのぢゃ。

 

【真の理解に入ると宗教に囚はれなくなるぞ。

形式に囚はれなくなるぞ】。

 

真の理解に入らねば、

真の善も、真の信も、真の悪も、真の偽りも判らんのぢゃ。

 

今にイワトひらいてあきらかになったら、宗教いらんぞ。

 

政治いらんぞ。

 

喜びの歌高らかにナルトの仕組、二二(フジ)にうつるぞ。(一月二十二日)

 

 

春の巻、第二帖(六五九)

 

カミヒトと申すのは、

神の弥栄のため、世の弥栄のため祈り、実践する人のことであるぞ。

 

神のため祈れば神となり、世のため祈れば世と一体となるのぢゃ。

 

自分のためばかりで祈れば迷信、われよしの下の下ぞ。

 

誰でも霊かかりであるぞ。

 

石でも木でも土でも霊かかりぞ。

 

これは一般かみかかりであるぞ、

特別神かかりは神の御力を強く深く集める行がいるのぢゃ。

 

九分通りしくじるのぢゃ。

 

太陽の光集めること知っているであらうが。

 

神の理(ミチ)をよりよく、より高く集める理(ミチ)がマコトの信仰であるぞ。

 

理(ミチ)であるぞ。

 

世、迫って、霊かかりがウヨウヨ出ると申してある時来ているのぢゃ。

 

悪かみかかりに迷ふでないぞ。

 

サニワせよ。

 

外はウソが多いぞ。

 

内の声ウソないぞ。

 

旧、元旦、日月神

 

 

633>658

黒鉄の巻、第十五帖(六三三)

 

人間を幸福にするのは心の向け方一つであるぞ。

 

人間はいつも善と悪との中にゐるのであるから、

善のみと云ふこともなく悪のみと云ふこともない。

 

内が神に居りて外が人に和し、

内が霊に居り外が体に和せば、それでよいのぢゃ。

 

其処に喜び生れるのぢゃ。

 

神から出た教なら、他の教とも協力して共に進まねばならん。

 

教派や教義に囚はれるは邪の教。

 

豚に真珠となるなよ。

 

天国の意志は人間の喜びの中に入り、

幽界の意志は悲しみの中に入る。(一月二十二日)

 

 

春の巻、第一帖(六五八)

 

新しき御代の始めのタツの年。

 

スメ大神の生れ出で給ひぬ。

 

皆々御苦労ながら、グルグル廻って始めからぢゃと申してあらうが。

 

始の始と始が違ふぞ。

 

皆始めヒからぢゃ。

 

赤児になりて出直せよ。

 

ハラで見、ハラできき、ハラで話せよ。

 

ハラには間違ひないのぢゃ。

 

祈りばかりでは祈り地獄、

神から光いただけるように理(ミチ)つけねばならん。

 

水は低きに流れるぞ。

 

喜びに叶ふ心、喜びの行あるところ喜び来るのぢゃ。

 

喜びにも正しきと曲れるとあるぞ。

 

無限段階あるのぢゃ。

 

心して迷はんように致しくれよ。

 

此処は光の理(ミチ)伝へ、行ふ所、教でないと申してあろう。

 

教は教に過ぎん。

 

理でなくては、今度はならんのぢゃ。

 

天の理、地の理、もろもろの理、カタ早う急ぐぞ。

 

教は局部的、時、所で違ふのぢゃ。

 

迷信となるぞ。

 

ハラが神であるぞ。

 

 

634>657

黒鉄の巻、第十六帖(六三四)

 

いよいよ表の守護と相成ったぞ。

 

表の守護とは、よいものもなく悪いものもなく、

只喜びのみの守護となることぢゃ。

 

悪いもの悪くなるのは表の守護でないぞ。

 

心得なされよ。

 

一つの魂を得ることは一つの世界を得ることぢゃ。

 

人間は一人でないぞ。

 

神は善人の中にも悪人の中にも呼吸してゐるぞ。

 

悪なくては生きて行けん。

 

悪は悪でないぞ。

 

外道の悪が悪であるぞ。(一月二十二日)

 

 

黒鉄の巻、第三十九帖(六五七)

 

・ひふみ神言

 

ひふみゆらゆら。

ひふみゆらゆら、ひふみゆらゆら。

ひふみゆらゆら、ひふみゆらゆら。ひふみゆらゆら。

 

 

・あめつちの数歌

ひと、ふた、み、よ、いつ、むゆ、なな、や、ここノ、たり。

ひと、ふた、み、よ、いつ、むゆ、なな、や、ここノ、たり。

ひと、ふた、み、よ、いつ、むゆ、なな、や、ここノ、たり、もも、ち、よろづ。

 

 

・ひふみ祝詞(○印拍手)

 

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

ひふみ よいむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

そをたはくめか うおえ にさりへて のますあせゑほれけ。

 

 

・いろは祝詞(○印拍手)

 

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

いろは にほへとち りぬるをわかよ たれそ つねならむ

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

うゐのおくやま けふこ えてあさき ゆめみしゑひもせすん。

 

 

・アイウエオのりと

 

f:id:satonory4949:20200326175953g:plainf:id:satonory4949:20200326180007g:plainアイウエオ カキクケコ サシスセソ タチツテト

ナニヌネノ ハヒフヘホ マミムメモ ヤヰユヱヨ

ラリルレロ ワヰウヱヲf:id:satonory4949:20200326180007g:plainf:id:satonory4949:20200326175953g:plain

(黒鉄の巻了)

 

 

635>656

黒鉄の巻、第十七帖(六三五)

 

霊ばかりよくてもならん。

 

体ばかりよくてもならん。

 

もちつもたれつの世であるぞ。

 

判らんのは、われが偉いと思ってゐるからぞ。

 

め覚めれば その日その時からよくなる仕組、

結構楽し楽しで どんな世でも過ごせるのが神の道。

 

【智の中に悪をとり入れるゆとりの出来んやうではマコト成就せんぞ。

智の中には総てを取入れて理解出来るやうに】なってゐるのであるぞ。

 

愛の中に悪入れてはならんぞ。(一月二十二日)

 

 

黒鉄の巻、第三十八帖(六五六)

 

人間の死後、自分の命(イノチ)の

最も相応(フサワ)しい状態におかれるのであるそ。

 

悪好きなら悪の、善好きなら善の状態におかれるのであるぞ。

 

皆々、極楽行きぢゃ。

 

極楽にもピンからキリまであるぞ。

 

神の旨に添ふ極楽を天国と云ひ、添はぬ極楽を幽界と申すのぢゃ。

 

心の世界を整理せよ。

 

そこには無限のものが、無限にあるのであるぞ。

 

神の理(ミチ)が判れば、判っただけ自分がわかる。

 

めでたさの九月八日の九のしぐみ、とけて流れて世界一つぢゃ。

 

白銀(しろがね)、鉄(くろがね)、これで終り。(旧九月八日)

 

 

636>655

黒鉄の巻、第十八帖(六三六)

 

目さめたら起き上がるのぞ。

 

起き上がらずには居れまいが。

 

神の命ずることは丁度そのやうに人間にうつるのぞ。

 

霊眼で見たり霊耳で聞いたりすることは間違ひ多いぞ。

 

心せよ。

 

ものに対しては人間そのものが霊であるぞ。

 

人間はこの世の神と申してあらうが。

 

ものは人間の自由自在。

 

偶像は排すべし。

 

十像は拝すべし。

 

悪に行く理(ミチ)はないぞ。

 

理は善のみに通じてゐるぞ。

 

理なきところ進むでないぞ。(一月二十二日)

 

 

黒鉄の巻、第三十七帖(六五五)

 

宇宙は人間の心のままと申してあらうが。

 

宇宙は未完成のものと申してあらうが。

 

永遠に未完成であり、弥栄であるぞ。

 

そこに生命あり、喜びあるのぢゃ。

 

大神の中で、宇宙はなりなりてゐるのであるから、

ナリ、永遠になるのであるぞ。

 

不変の中に千変万化、自由自在の存在を与へてあるのぢゃ。(旧九月八日)

 

 

637>654

黒鉄の巻、第十九帖(六三七)

 

愛からはなれた理解はないぞ。

 

善からはなれた真理はないぞ。

 

タネなくて芽は出ん道理。

 

人間の智で判らんことは迷信ぢゃと申してゐるが、

神界のことは神界で呼吸(イキ)せねば判らんのぢゃ。

 

判らん人間ざから何と申しても神を求めるより、

愈々になりたら道ないことぞ。

 

学に囚はれて まだめさめん気の毒がウヨウヨ。

 

気の毒ぢゃなあ。

 

人間は霊人のカタシロになるからこそ養はれてゐるのぢゃ。

 

成長して行くのぢゃ。

 

血は愛によって生き、愛はヨロコビによって生きるのぢゃ。

 

ヨロコビなき所に愛はないのざぞ。

 

ゝないところ生命(イノチ)栄えんぞ。(一月二十二日)

 

 

黒鉄の巻、第三十六帖(六五四)

 

天界に行く門は輝き、幽界に行く門は闇であるぞ。

 

闇の門はとざされ、光の門は開かれてゐるぞ。

 

天界は昇り易く、幽界にはおちにくいぞ。

 

神と金と二つに仕へることは出来ん、

そのどちらかに仕へねばならんと、

今迄は説かしてゐたのであるが、

それは段階の低い信仰であるぞ。

 

影しか判らんから、時節が来て居らんから、

さう説かしてゐたのであるが、

この度、時節到来したので、マコトの道理 説いてきかすのぢゃ。

 

 

神と金と共に仕へまつるとは、肉と霊と共に栄えて嬉し嬉しとなることぞ。

 

嬉し嬉しとはそのことであるぞ。

 

神と金と二つとも得ること嬉しいであろうがな。

 

その次には霊の霊とも共に仕へまつれよ。

 

まつれるのであるぞ。

 

これが、まことの正しき理(ミチ)であるぞ。

 

今迄の信仰は何処かにさびしき、もの足りなさかあったであらうが。

 

片親がなかったからぞ。

 

天に仕へるか、地に仕へるかであったからぞ。

 

この道はアメツチの道ざと知らしてあらうがな。

 

清くして富むのがまことぢゃ。

 

地も富まねばならんのぢゃと申してあらうが。

 

これから先は金もうけばかりも出来ん。

 

今迄のやうな神信心ばかりも出来ん。

 

神の理(ミチ)を進むものは嫌でも金がたまるのぢゃ。

 

金がたまらねば深く省みよ。

 

理に外れて御座るぞ。

 

人は罪の子でない、喜びの子ぞ。(旧九月八日)

 

 

638>653

黒鉄の巻、第二十帖(六三八)

 

まかせ切らねばマコトの安心立命ないぞ。

 

まかせ切るには、まかせ切って安心出来る神をつかまねばならん。

 

おかげ信心や病気治しの神ではまかせ切れまいがな。

 

早う合点結構ぞ。

 

大きな生命に通ずるものには死はないぞ。

 

通じなければ死あるぞ。(一月二十二日)

 

 

黒鉄の巻、第三十五帖(六五三)

 

キが到ればモノが到る。

 

モノを求める前にキを求めよ。

 

めあてなしに歩いたとて、くたびれもうけばかり。

 

人生のめあて、行く先の見当つけずに、

その日暮しの、われよしの世となり下がってゐるぞ。

 

めあてはΘのゝでないか。

 

ゝに向かないでウロウロ。

 

草木より、なり下がってゐるでないか。

 

為すとはイノること。

 

人の為にイノるは、己の為にイノること。

 

今の人民、イノり足らん。(旧九月八日)

 

 

639>652

黒鉄の巻、第二十一帖(六三九)

 

身も心も嬉し嬉しなるのがまことの神ぢゃ。

 

ものの嬉しさだけではゼロぢゃ。

 

たまの嬉しさだけでもゼロぢゃ。

 

よく心得なされよ。

 

死後のみ説く宗教はゼロの宗教ぢゃ。

 

迷ふでないぞ。

 

この世で天国に住めんもの、

天国に行ける道理ないのぢゃと申してあらう。

 

神は人間の命、人間は神の容れものであると申してあらう。

 

人間の極まるところは神であるぞ。

 

霊人は中間の存在ぞ。

 

人間は神への土台ぞ。

 

この道理判るであらうが。

 

Θは三五七ぞ。

 

三のΘから三五のΘ。

 

三五七のΘ。(一月二十二日)

 

 

黒鉄の巻、第三十四帖(六五二)

 

祈りは弥栄であり、限りない生活であるぞ。

 

生命のイキであるぞ。

 

祈りから総てのもの生れるぞ。

 

誠の喜びの祈りからはゝが生命し、かげの祈りからは〇が生命するぞ。

 

人祈れば神祈り、人為せば神なる道理ぢゃ。

 

禁慾は神の御旨でないぞ。

 

慾を浄化して、生めよ。産めよ。

 

今の人民、慾の聖化を忘れて御座るぞ。

 

慾は無限に拡がり、次々に新しきもの生み出すぞ。

 

慾を導けよ。

 

自分だけならば五尺の身体、五十年の生命であるが、

霊を知り、宇宙の意志を知り、神にとけ入ったならば、

無限大の身体、無限の生命となるぞ。

 

マコトの嬉し嬉しのよろこびとなるのであるぞ。(旧九月八日)

 

 

640>651

黒鉄の巻、第二十二帖(六四〇)

 

顔まで変ってゐるのに未だ気づかんのか。

 

病気に皆がなってゐるのに未だ気づかんのか。

 

何事も早い改心結構。

 

自分で自分の心の中は中々につかめんものであらうがな。

 

その中に又心あり、又中に心があるのぢゃ。

 

心は神界ぞ。

 

霊界や神界のものを肉体の自分で掴まうとしても中々ぢゃ。

 

うなぎつかみと申してあらうが。

 

ヌラリクラリと掴んだ筈が掴んでないぞえ。

 

掴むには身と魂と一つに和せねばならん。

 

ゝから愛と智とが生れると申してあらうが。

 

智と愛との和合によってゝが又生れるのぢゃ。

 

ゝは喜びであるぞ。

 

ゝの別のゝであるぞ。

 

そのゝから又別の愛と智が生れ、

又別のゝが喜びとなり、

その喜びの愛と智の喜びと結んで、

又喜びのゝ生れるのぢゃ。

 

神は額から入って顔全体に至り、全身に及ぶものであるぞ。(一月二十二日)

 

 

黒鉄の巻、第三十三帖(六五一)

 

神がうつらぬと申してゐるが、

心をやはらかくしてマカセ切れば刻まれるぞ。

 

平かにすれば正しく写り、凸凹(デコボコ)すれば曲ってうつる。

 

神の前に固くなってはならぬ。

 

人間は肉体をもってゐる間でも、

その霊は、霊の国に住んで居り、

霊の霊は、霊の霊の世界に住んでゐるのであるぞ。

 

この道理よくわきまへよ。

 

愛は脈うってゐるぞ。

 

真は呼吸してゐるぞ。

 

肉体にあっては肺臓は呼吸し、心臓は脈うつ、

この二つが一つであって、肉体を生命する。

 

喜びと三つが一つであるのぞ。

 

霊にあっては霊の心臓、霊の肺臓、よろこびあるぞ。(旧九月八日)

 

 

641>650

黒鉄の巻、第二十三帖(六四一)

 

何事も体験結構。

 

今の人民の迷信と思ふものの中に正信あるぞ。

 

正信と思ふものの中に迷信多いぞ。

 

理解は正信。

 

神の気通うたら、

その気を人間にうつす御役、救ひの御役を結構につとめあげて呉れよ。

 

自分の自由にならんことは大き自分が自由にしてゐるのであるぞ。

 

神となれば、神人となれば何事も心のまま。

 

神とは神、大神とはΘ一十(カミヒト)のこと。(一月二十二日)

 

 

黒鉄の巻、第三十二帖(六五〇)

 

祈りとは意が乗ることぞ。

 

霊の霊と霊と体と合流して一つの生命となることぞ。

 

実力であるぞ。

 

想念は魂。

 

魂は霊であり、霊の世界に属し、霊に生きるのであるぞ。

 

ものは霊につけられたもの、

霊の霊は、霊につけられたものであるぞ。

 

ものにはものの生命しかない。

 

真の生命は霊であるぞ。

 

生命のもとの喜びは霊の霊であるぞ。

 

霊の霊が主ざと申してあらう。

 

奥の奥の奥のゝは大神に通ずるゝであるぞ。

 

喜びであるぞ。

 

ゝある為に人間となり、

人間なるが故に神となり、

神なるが故に喜びであるぞ。

 

他のいきものにもゝはあれど、外のゝであるぞ。(旧九月八日)

 

 

642>649

黒鉄の巻、第二十四帖(六四二)

 

悪とはカゲのことであるぞ。

 

斜めに光を頂くから影出来るのぢゃ。

 

影は主人でないぞ。

 

絶対は何と申しても絶対ぞ。

 

相対から神を求めると、相対の神が顕はれるぞ。

 

相対で神の道に導くこと中々ぢゃ。

 

必ず後戻り、判りはせんぞ。

 

この神示、肚に入ったらグレンと変りて来るぞ。

 

早う肚に入れて下されよ。

 

間に合はん。

 

天の声は内から聞こえて来る。

 

人間の言葉は外から聞こえて来る。

 

霊耳と申すのは内からぞ。

 

耳ふさいでも聞こえて来るのぢゃ。

 

悪霊自身は自身を悪と思うてないぞ。(一月二十二日)

 

 

黒鉄の巻、第三十一帖(六四九)

 

中の自分と外の自分と和せよ。

 

それが改心の第一歩。

 

聞かせてきくならば、実地はカタのカタ位ですむなれど。

 

慾入ると邪気湧く、邪気湧くと邪霊集まるぞ。

 

肉体人に神は直接分らんものぞ。

 

神は能(ハタラ)き、神の働きの影しか判らんものぞ。

 

神の姿、見たと申すのは、

神の姿の影を自分の心に描き出したまでであるぞ。

 

心に判っても肉体に判るものでないぞ。

 

肉を魂とせよ。

魂を魂の魂と向上させよ。

 

ひらけ来るぞ。

 

何事もとがむでないぞ。

 

とがむ心、天狗ぞ。

 

神の前にへり下り、へり下っても尚過ぎると云ふことないのぢゃ。

 

人間は、色とりどりそれぞれの考へ方を自由に与へてあるのざから、

無理に引張ったり、教へたりするでないぞ。

 

今あるもの、今生きてゐるものは、たとへ極悪ざと見えても、

それは許されてゐるのであるから、あるのであるぞ。

 

他を排すでないぞ。(一月二十二日)

 

 

643>648

黒鉄の巻、第二十五帖(六四三)

 

心は草にも木にも石にもあるぞ。

 

天にまたたく星にもあるぞ。

 

ただ薄いか厚いかの相違であるぞ。

 

ゝの中のゝに悪は入れんのであるぞ。

 

外のゝの中に、外の智の中に悪が入るのぢゃ。

 

人間の智の中には悪も善も入るぞ。

 

入るからこそ、これは善ぢゃ、これは悪ぢゃと判るのぢゃ。

 

人間の自由は其処にあるのぢゃ。

 

自由なければ発展ないぞ。

 

弥栄ないぞ。

 

霊を信ずる者は霊と語り、肉を信ずる者は肉と語り得るのぢゃ。

 

人間そのものから湧き出づる喜びは無いぞ。

 

よく心得なされよ。(一月二十二日)

 

 

黒鉄の巻、第三十帖(六四八)

 

表ばかり見てゐるから判らんのぢゃ。

 

水晶の心なれば三千里先のこともありやか。

 

人民と云ふものは奇跡見ても、病気になっても、

中々改心出来んものぢゃ。

 

死後の生活がハッキリ判っても、未だ改心出来んのぢゃ。

 

それは外からのものであるからぢゃ。

 

まことの改心は、中の中のゝのキいただいて、

ほっこんの改心出来ねばならん。

 

死後の生活知らすことはよいなれど、

それのみによって改心せよと迫るのは悪のやり方。

 

奇跡を見せ、病気を直してやるのもよいのぢゃが、

それのみによって改心を迫ってはならん。

 

それのみで道を説いてはならんぞ。

 

そんなこと位でマコトのホッコンの改心が出来るならば、

人間は遠の昔に改心して御座るぞ。

 

今迄のやうな宗教は亡びると申してあらうが。

 

亡びる宗教に致して下さるなよ。(一月二十二日)

 

 

644>647

黒鉄の巻、第二十六帖(六四四)

 

神は理屈ではない。

 

理であるぞ。

 

生きた自由自在の、見当とれん、絶対であるぞ。

 

只求めるより外に道ないぞ。

 

親呼ぶ赤児の声で神を求めよ。

 

神に呼びかけよ。

 

総てを投げ出せよ。

 

まかせ切れよ。

 

神は喜びの光となって、そなたに現はれて来るぞ。

 

理屈の信仰に囚はれると邪道。

 

赤児心の理解は第一ぞ。(一月二十二日)

 

 

黒鉄の巻、第二十九帖(六四七)

 

運命は自由自在のものではあるが、又強ひるものでもあるぞ。

 

大きくも、小さくも、薄くも、厚くも、その人の心次第に変るぞ。

 

もとは霊界にあるからぞ。

 

嬉し嬉しで運命を迎へる気、結構ぞ。

 

この世のことだけで この世のこと動かんぞ。

 

霊界との関係によって、この世が動いてゐる道理判らねばならん。

 

早う神の心に、神意さとれよ。

 

遠慮いらん。

 

何事も天から出て来るのぢゃ。

 

天からとは心からのことぢゃ。(一月二十二日)

 

 

645>646

黒鉄の巻、第二十七帖(六四五)

 

神は人間の想念の中に入ってゐるのぢゃ。

 

想念が一致するから神の想念が人間に伝はるのぞ。

 

人間の言葉となって人間に現はれる。

 

言は神であるが人間でもあるぞ。

 

自分が自分に語るのであるぞ。

 

この道理、よく心得なされよ。

 

時まちて起き出て下されよ。

 

恨みの霊は中々にとけんぞ。

 

思ひは能(ハタラ)き、実在と申してあらうが、

間違ひでも恨まれると、恨みがまとひつくぞ。

 

心して神を求め、心して幽界からのキ断ちて下されよ。

 

判ったと思うたら天狗ぞ。

 

かへりみるとよくなる仕組。(一月二十二日)

 

 

黒鉄の巻、第二十八帖(六四六)

 

喜びにとけ入るから嬉しいのぞ。

 

喜びから遠ざかるから悲しいのぞ。

 

そんなこと分ってゐると申してゐるが、

ほんとに身体に分ってゐまいぞ。

 

喜びに入る門は愛からぢゃ。

 

真からじゃ。

 

二道あるなれど愛から入るのが入り易いが、愛からでは誤り易い。

 

生れてすぐ歩けるものでないぞ。

 

始めから何も彼も出来るものでない。

 

気長に進んで行けよ。

 

内の念と外の念とあるぞ。

 

二つであるぞ。

 

一つであるぞ。

 

三つであるぞ。

 

心大きく、広く天地に放さねば、天地のキを吸ふこと出来んぞ。(一月二十二日)

 

 

 

まぜまぜ 六〇一~六三〇

ひふみ神示 まぜまぜの第六〇一帖~第六三〇帖

 

 

第二十四巻 黄金(コガネ)の巻

全百帖・通し番号(五一二)~(六一一)のうち(六〇一)~(六一一)

自  昭和二十四年十一月十七日

至  昭和二十五年 一月十八日

 

 

第二十五巻 白銀(シロガネ)の巻

全七帖・通し番号(六一二)~(六一八)

自  昭和二十四年十二月十四日

至  昭和二十五年 五月 八日

 

 

第二十六巻 黒鉄(クロガネ)の巻

全三十九帖・通し番号(六一九)~(六五七)のうち(六一九)~(六三〇)

自  昭和二十五年一月二十二日

至  昭和二十五年十月 十八日

 

 

601>630

黄金(コガネ)の巻、第九十帖(六〇一)

 

世界中がいくら集まって、よき世にいたす相談いたしても、

肝腎のゝが判らんから、まとまりつかん。

 

たれ一人、悪いわがままの癖持たん人間ないぞ。

 

その癖を直して行くのが、皮むくことぢゃ。

 

改心ぢゃ。

 

弥栄行くことぢゃ。

 

金持つと金の地獄に理屈もつと理屈の地獄に、

神に捉はれると神の地獄に落ちて苦しむぞ。

 

持たねばならんし、中々ぢゃなあ。

 

先づ求めよ、求めねばならん。

 

先づ捨てて求めよ、求めて行ぜよ。(一月三日)

 

 

黒鉄(クロガネ)の巻、第十二帖(六三〇)

 

二の御用はフデうつすことぢゃ。

 

フデうつすとはフデを人間に、世界にうつすことぞ。

 

フデを中心とした世界のはたらきせよ。

 

ゝ通した人間の仕事つかへまつれよ。

 

フデゝとした世界つくることぞ。

 

フデに囚はれるから判らん。

 

フデすてて、仕事に神示(フデ)生かして生活せよ。

 

生活がフデぢゃ。

 

判りたか。

 

早う次の御用急いで下されよ。

 

宗教に生きて、宗教に囚はれるでないぞ。

 

仕事が宗教ぢゃ。

 

小さいことから始めよ。

 

小乗の行と馬鹿にするでないぞ。

 

小乗の行から大乗の真理を掴むのであるぞ。(一月二十二日)

 

 

602>629

黄金(コガネ)の巻、第九十一帖(六〇二)

 

愛の人間は深く、智の人間は広く進むぞ。

 

経(タテ)と緯(ヨコ)であるぞ。

 

二つが織りなされて、結んで弥栄える仕組。

 

経のみでならん。

 

緯のみでならん。

 

この世に生れてはこの世の御用、この世の行せねばならん道理。

 

この世に生れて、この世の行せねば、生れた時より悪くなるぞ。

 

草木より役に立たんものとなるぞ。

 

草木に変へると申してあらう。

 

神が変へるのでない。

 

自分でなり下がるのであるぞ。判りたか。(一月三日)

 

 

黒鉄(クロガネ)の巻、第十一帖(六二九)

 

学出すから、我出すから行き詰るのぞ。

 

生れ赤児と申すのは学も我も出さん水晶のことぞ。

 

ねり直して澄んだ水晶結構。

 

親の心判ったら手伝ひせねばならん。

 

云はれんさきにするものぢゃと申してあらうが。

 

いつ迄も小便かけてゐてはならんぞ。

 

人間は罪の子でないぞ。

 

喜びの子ぞ。

 

神の子ぞ。

 

神の子なればこそ悔い改めねばならんぞ。

 

真なき愛の道、悲しみの喜びからも生れることあるぞ。

 

それは罪の子と申すのであるぞ。(一月二十二日)

 

 

603>628

黄金(コガネ)の巻、第九十二帖(六〇三)

 

つつましく、正しくして行けば

その国々で一切不足なく暮して行けるやうに何も彼も与へてあるに気付かんのか。

 

天災地変は人間の心のままと申してあらう。

 

豊作、凶作 心のままぞ。

 

今のままで行けば何うなるか、

誰にも判らんであらうが、

神示通りに出て来ること、未だうたがってゐるのか。

 

ひつくとみつくの民あると申してあらう。

 

ひつくの民は神の光を愛の中に受け、

みつくの民は智の中に受ける。

 

愛に受けると直ちに血となり、

智に受けると直ちに神経と和して了ふのであるぞ。

 

二つの民の流れ。(一月三日)

 

 

黒鉄(クロガネ)の巻、第十帖(六二八)

 

むつかしいこと申さずに、ひらたう解けと申してあらうが。

 

ミタマは上中下三段、三段にわけて説いて聞かせねば仕組おくれるぞ。

 

はじめは神様がして下さるが、向上すると自分でせねばならん。

 

いつ迄も神を使ってゐてはならんぞ。

 

理解は真から、意志は善からであるが、

今迄はそれでよいと説いて来たが、

愈々イワトびらきとなったのであるから、

二(ツキ)の鍵わたすから、よく心得よ。

 

今迄の教ではマボロシぞ。

 

力ないぞ。

 

まつり合せて意志と働き、ゝ入れて理解出来るのであるぞ。

 

まつりまつりと申してあらう。

 

上のまつりぞ。

 

マボロシとは人間智慧のこと。

 

理屈のことぢゃ。

 

理屈とは悪の学のことぢゃ。

 

理でなければならぬ。(一月二十二日)

 

 

604>627

黄金(コガネ)の巻、第九十三帖(六〇四)

 

そなたが神つかめば、神はそなたを抱くぞ。

 

神に抱かれたそなたは、平面から立体のそなたになるぞ。

 

そなたが有限から無限になるぞ。

 

神人となるのぢゃ。

 

永遠の自分になるのであるぞ。

 

他のために行ぜよ。

 

神は無理申さん。

 

始めは子の為でもよい。

 

親の為でもよい。

 

自分以外の者の為に、先ず行ぜよ。

 

奉仕せよ。

 

嬉し嬉しの光さしそめるぞ。

 

はじめの世界ひらけるぞ。

 

一本足では立てん。

 

二本足がよいぞ。

 

やがては明くる二三(フミ)の朝、

二二(フジ)は晴れたり、日本晴れ。(一月三日)

 

 

黒鉄(クロガネ)の巻、第九帖(六二七)

 

神心には始めも終りも無いのぢゃ。

 

総てがあるのであるぞ。

 

世界見よ。

 

三千世界よく見よ。

 

総てが秘文(ヒフミ)ぢゃ。

 

他力の中に自力あるのぞ。

 

自分ばかりでは成就せんぞ。

 

足ふみばかり。

 

愛は愛のみでは愛でないぞ。

 

真は真のみでは真でないぞと申してあらうが。

 

まつり合せてゝ入れて愛となり真となるのぞ。

 

愛のみ出ると悪となり、真のみ出ると偽(ギ)となることあるぞ。

 

偽(イツワ)りと悪とまつりて善の働きすることあるぞ。

 

心せよ。(一月二十二日)

 

 

605>626

黄金(コガネ)の巻、第九十四帖(六〇五)

 

落ちてゐた神々様、元へお帰りなさらねば この世は治まらんのであるぞ。

 

一人一人ではいくら力ありなされても物事成就せんぞ。

 

それは地獄の悪のやり方。

 

一人一人は力弱くとも一つに和して下されよ。

 

二人寄れば何倍か、三人寄れば何十倍もの光出るぞ。

 

それが天国のまことのやり方、善のやり方、善人、千人力のやり方ぞ。

 

誰でも死んでから地獄へ行かん。

 

地獄は無いのであるから行けん道理ぢゃなあ。

 

曲って世界を見るから、

大取違ふから曲った世界つくり出して、自分で苦しむのぢゃ。

 

其処に幽界出来るのぢゃ。

 

有りてなき世界、有ってならん。(一月三日)

 

 

黒鉄(クロガネ)の巻、第八帖(六二六)

 

神の申すやうにすれば神が護るから、

何事も思ふ様にスラリスラリと心配なく出て来るぞ。

 

区別と順をわきまへて居れば、何様を拝んでもよい。

 

時、所、位に応じて誤らねば弥栄えるぞ。

 

同じ愛、同じ想念のものは自ら集まって結ばれる。

 

天国のカタチ、ウツシが奥山ぞ。

 

ミソもクソも一緒にして御座るぞ。(一月二十二日)

 

 

606>625

黄金(コガネ)の巻、第九十五帖(六〇六)

 

四季はめぐる。めぐる姿は🌀(ウズ)であるぞ。

 

🌀は働き、上れば下り、下れば上る。

 

この神示読んだ今が出船の港、神の恵みの時 与へられてゐるのぢゃ。

 

明日と申さず実行せよ。

 

明日は永遠に来ないぞ。

 

無いものぞ。

 

今のみあるのぢゃ。(一月三日)

 

 

黒鉄(クロガネ)の巻、第七帖(六二五)

 

芽を出したから間引かなならん。

 

神示読んで、神示読まん人間と

神示肚に入り込んでもう大丈夫と、神が見届けた人間と間引くのであるぞ。

 

肚に入った芽は間引いて他に植ゑかへるのぢゃ。

 

読んで読まんもの、間引いて肥料とするぞ。

 

わざわざ遠い所へお詣りせんでも、自分の家にまつってあるのぢゃから、

それを拝めば同じことぢゃ、

それでよいのぢゃと理屈申してゐるが、

格の上の所へ求めて行くのが仁義、礼儀と申すもの。

 

キあれば必ず出来るのぢゃ。

 

立替致さずにゆけば、この世はゆく程 悪くつまるのであるぞ。

 

早うメザメよ。

 

マツリせねば真理は通らん。

 

子供にまつろはねば子供導けん道理。

 

【自分判れば一切ありやか】。(一月二十二日)

 

 

607>624

黄金(コガネ)の巻、第九十六帖(六〇七)

 

ウシトラコンジン様を先づ理解せよ。

 

どんなことでも叶へてやるぞ。

 

理解するには、理解する心、先づ生まねばならん。

 

われよしでは拝めんコンジンさまぞ。

 

天地総てのもの、生きとし生けるもの悉く、

よりよくなるやうに働いてゐるのであるぞ。

 

それが神の心、稜威(みいつ)ぞ。

 

弥栄と申すものぞ。

 

その時、その人間のキに相応した神より拝めん。

 

悪いキで拝めば何んな立派な神前でも悪神が感応するのぢゃ。

 

悪神拝んでも正しき愛と喜びあれば、善き念が通ずるならば、

悪神引込んで、それぞれの善き神 現はれるのぢゃ。

 

この道理よく心得よ。(一月三日)

 

 

黒鉄(クロガネ)の巻、第六帖(六二四)

 

気づいたことから早う改めて下されよ。

 

トコトン迄行って神がさすのでは人間の面目ないから、

人間同士でよく致し下されよ。

 

只有難いだけではならん。

 

仕事せねばならん。

 

努力せねばならん。

 

ぢっとしてゐては進めん道理ぢゃ。

 

あかりつけなければ闇のよは歩けんぞ。

 

それぞれのあかりとなれよ。

 

油は神示ぢゃ。

 

油つきん、いくらでもあかりつけて下されよ。

 

マツリから出直せよと申してあらう。

 

結構に大きまつり、小さいまつり、まつろひて下されよ。

 

神心になれば、神ありやかに見えるぞ。(一月二十二日)

 

 

608>623

黄金(コガネ)の巻、第九十七帖(六〇八)

 

生命すててかからねば、まことの理解には入れん道理。

 

身慾信心では駄目。

 

いのち捨てねば生命に生きられん道理。

 

二道二股 多いと申してあらう。

 

物の文明、あしざまに申す宗教は亡びる。

 

文明も神の働きから生れたものぢゃ。

 

悪も神の御働きと申すもの。悪にくむこと悪ぢゃ。

 

善にくむより尚悪い。

 

何故に判らんのか。

 

弥栄と云ふことは歩み一歩づつ喜び増して行くことぞ。

 

喜びの裏の苦に捉はれるから判らんことに苦しむのぢゃ。

 

苦と楽 共に見てよと申してあらう。

 

偶然の真理、早う悟れよ。(一月三日)

 

 

黒鉄(クロガネ)の巻、第五帖(六二三)

 

プラスとマイナスと和合せねばならん。

 

只の和合ではムになって力出んぞ。

 

今迄の和合のやり方ではならん。

 

喜びの和合。融け合ふ和合。

 

ゝある和合でないと、少しでも曇りありたら和合でないぞ。

 

こらへこらへてゐるのでは和合でないぞ。

 

今迄の和合の仕方ではカスあるであらうがな。

 

悪の和合であるぞ。

 

神示肚に入れないで御用六ヶ敷いぞ。

 

はじめは目標(メアテ)つくって進まんと、

行ったり来たり同じ道をドウドウめぐりぢゃ。

 

掴める所から掴んで行けよ。

 

拝んで行けよ。

 

統一した幸福こそ、二二(フジ)晴れの幸福ぞ。(一月二十二日)

 

 

609>622

黄金(コガネ)の巻、第九十八帖(六〇九)

 

大切なもの一切は、神が人間に与へてあるでないか。

 

人間はそれを処理するだけでよいのであるぞ。

 

何故に生活にあくせくするのぢゃ。

 

悠々、天地と共に天地に歩め。

 

嬉し嬉しぞ。

 

一日が千日と申してあらう。

 

神を知る前と、神を知ってからとのことを申してあるのぞ。

 

神を知っての一日は、知らぬ千日よりも尊い

 

始めは自分本位の祈りでもよいと申してあるなれども、

何時までも自分本位ではならん。

 

止まると悪となるぞ。

 

神の理(ミチ)は弥栄ぞ。

 

動き働いて行かなならん。

 

善と悪との動き、心得なされよ。

 

悪は悪ならず、悪にくむが悪。(一月三日)

 

 

黒鉄(クロガネ)の巻、第四帖(六二二)

 

道は自分で歩まねばならん。

 

自分の口で食物噛まねばならん。

 

かみしめよ。

 

ウジ虫に青畳、苦のたねぢゃ。

 

畳には畳にすはるだけの行してから坐(すわ)らなならん。

 

【生命はコトぞ。コトはミコトぢゃ】。

 

ミコトは神の心であるぞ。

 

喜びであるぞ。

 

ミコトに生きよと申してあらう。

 

コトあればオトあるぞ。

 

オトあればイロあるぞ。

 

イロあればカズあるぞ。

 

善にも神の心あり。

 

悪にも神の心がある。(一月二十二日)

 

 

610>621

黄金(コガネ)の巻、第九十九帖(六一〇)

 

内にあるもの変へれば外からうつるもの、響いて来るもの変って来るぞ。

 

内が外へ、外が内へ響くのぢゃ。

 

妻にまかせきった夫、夫にまかせきった妻の姿となれよ。

 

信仰の真の道ひらけるぞ。

 

一皮むけるぞ。

 

岩戸ひらけるぞ。

 

不二晴れるぞ。(一月三日)

 

 

黒鉄(クロガネ)の巻、第三帖(六二一)

 

理屈は一方的のものぞ。

 

どんな理屈も成り立つが、

理屈程 頼りないもの、力にならんものないぞ。

 

理(リ)がΘ(カミ)の御能(オンハタラキ)ぞ、

よく見極めねば間違うぞ。

 

囚はれるなよ。

 

他の為に苦労することは喜びであるぞ。

 

全体のために働くことは喜びぞ。

 

【光の生命】ぞ。

 

誰でも重荷負はせてあるのぢゃ。

 

重荷あるからこそ、風にも倒れんのざ。

 

この道理、涙で笑って汗で喜べよ。

 

それとも重荷外してほしいのか。

 

重い重荷もあるぞ。

 

軽い重荷もあるぞ。

 

今まいた種、今日や明日には実らんのざ。

 

早く花が見たく、実がほしいからあせるのぢゃ、

人間の近慾と申すもの。

 

神の大道に生きて実りの秋(トキ)まてよ。

 

まいた種ぢゃ。

 

必ず実る。

 

誰も横取りはせんぞ。

 

万倍になってそなたにかへると申してあらう。

 

未来にもえつつ現在にもえよ。

 

神相手に悠々と天地に歩め。(一月二十二日)

 

 

611>620

黄金(コガネ)の巻、第百帖(六一一)

 

真理を理解して居れば心配いらん。

 

失敗も財産ぞ。

 

真剣で求めると真剣さずかるぞ。

 

求めるとは祈ること。

 

よく祈るものは よく与へられる。

 

日々の祈りは行であるぞ。

 

百年祈りつづけても祈りだけでは何もならん。

 

それは祈り地獄ぢゃ。

 

祈り地獄 多いのう。

 

肉体人は肉体の行せねばならん。

 

日々の祈り結構いたしくれよ。

 

次の祈りは省みることぞ。

 

いくら祈り行じても自分省みねば、千年行じても何もならん道理ぢゃ。

 

同じ山に登ったり降ったり、御苦労のこと、馬鹿の散歩と申すもの。

 

悔いあらためよと申してあらう。

 

省みて行ずるその祈り弥栄えるぞ。

 

平面の上でいくら働いても、もがいても平面行為で有限ぞ。

 

立体に入らねばならん。

 

無限に生命せねばならんぞ。

 

立体から複立体、複々立体、立々体と進まねばならん。

 

一から二に、二から三にと、次々に進めねばならん。

 

進めば進む程、始めに帰るぞ。

 

ゝに到るぞ。

 

立体に入るとは誠の理解生活に入ることぞ。

 

無限に解け入ることぞ。

 

イワトあけなば二二輝くぞ。

 

弥栄々々。(一月十八日)

(黄金の巻了)

 

 

黒鉄(クロガネ)の巻、第二帖(六二〇)

 

一切に向って涙せよ。

 

ざんげせよ。

 

一切を受け入れ、一切を感謝せよ。

 

一切が自分であるぞ。

 

一切が喜びであるぞ。(一月二十二日)

 

 

612>619

白銀の巻、第一帖(六一二)

「天地のことわり書き知らすぞ。」

この巻しろかねの巻。

 

天国ぢゃ、霊国ぢゃ、地獄ぢゃ、浄土ぢゃ、穢土ぢゃと申してゐるが、

そんな分けへだてはないのであるぞ。

 

時、所、位に応じて色々に説き聞かせてあるのぢゃが、

時節到来したので、まことの天地のことわりを書き知らすぞ。

 

三千の世界の中の一つがそなた達の世界であるぞ。

 

この世も亦三千に分れ、更に五千に分れてゐるぞ。

 

このほう五千の山にまつれと申してあろう。

 

今の人民の知り得る世界はその中の八つであるぞ。

 

人民のタネによっては七つしか分らんのであるぞ。

 

日の光を七つと思うてゐるが、八であり、九であり、十であるぞ。

 

人民では六つか七つにしか分けられまいが。

 

「イワトがひらけると更に九、十となるぞ。

【かくしてある一厘の仕組、九十の経綸、成就した暁には何も彼も判る】」

と申してあらうが。

 

八つの世界とは、

f:id:satonory4949:20200319171200g:plain、 △、▽ 、ア、オ、ウ、エ、イであるぞ。

  

八は固、七は液、六は気、五はキ、四は霊の固、

三は霊の液、二は霊の気、一は霊のキ、と考へてよいのぢゃ。

 

キとは気の気であるぞ。

 

その他に逆の力があるぞ。

 

九と十であるぞ。

 

その上に又霊の霊の個から始まってゐるのであるが、

それはムの世界、無限の世界と心得よ。

 

霊界に入って行けば、その一部は知れるなれど、

皆直ちには判らないのであるぞ。

 

判らんことは判らんと、わからねばならんと申してあらうがな。

 

天、息吹けば、地、息吹くと申してあろう。

 

このことよくわきまえよ。

 

地の規則、天の規則となることあると申して知らしてあらう。

 

この大切こと忘れるでないぞ。

 

おもひの世界が天ぞ。

 

にくの世界が地ぞ。

 

おもひは肉体と一つぞ。

二つぞ。

三つぞ。

 

おもひ起って肉体動くぞ。

 

肉体動いておもひ動くこともあるぞ。

 

生れ赤児の心になって聞いて下されよ。

何も彼も、ハッキリうつるぞ。

 

陰と陽、右と左、上と下、前と後、男と女と考へてゐるなれど、

タカミムスヒとカミムスヒと考へてゐるなれど、別のミナカヌシ、現はれるぞ。

 Θ、f:id:satonory4949:20200319171325g:plainf:id:satonory4949:20200319171406g:plainf:id:satonory4949:20200319171350g:plainf:id:satonory4949:20200319171431g:plainf:id:satonory4949:20200319171501g:plainf:id:satonory4949:20200319171521g:plainf:id:satonory4949:20200319171535g:plain、卍、f:id:satonory4949:20200319171558g:plain、 十、十 、よく見て下されよ。

 

一であり、二であり、三であらうがな。

 

 三が道と申してあろう。

陰陽二元でないぞ。

三元ぞ。

三つであるぞ。

 

ゝなくてはならん。

ゝにもかくれたゝと現われたゝとがあるぞ。

 

このこと先づ心得て下されよ。

 

そなた達は父と母と二人から生れ出たのか。

 

さうではあるまいがな。

 

三人から生れ出てゐること判るであらうがな。

 

どの世界にも人が住んでゐるのであるぞ。

 

Θの中にΘがあり、その中に又Θがあり、

限りないのざと知らせてあらうが。

 

そなた達の中に又人がゐて限りないのぢゃ。

 

このほう人民の中にゐると知らしてあらうがな。

 

そなた達も八人、十人の人によって生きてゐるのぞ。

 

又十二人でもあるぞ。

 

守護神と申すのは心のそなた達のことであるが、段々変るのであるぞ。

 

自分と自分と和合せよと申すのは、

八人十人のそなた達が和合することぞ。

 

それを改心と申すのざぞ。

 

和合した姿を善と申すのぢゃ。

 

今迄の宗教は肉体を悪と申し、心を善と申して、肉体をおろそかにしてゐたが、

それが間違ひであること合点か。

 

一切がよいのぢゃと云ふこと合点か。

 

地獄ないこと合点か。

 

悪抱き参らせよと申してあること、これで合点か。

 

合点ぢゃナア。

 

各々の世界の人がその世界の神であるぞ。

 

この世ではそなた達が神であるぞ。

 

あの世では、そなた達の心を肉体としての人がゐるのであるぞ。

 

それがカミと申してゐるものぞ。

 

あの世の人をこの世から見ると神であるが、

その上から見ると人であるぞ。

 

あの世の上の世では神の心を肉体として神がゐますのであって限りないのであるぞ。

 

裏から申せば、神様の神様は人間様ぢゃ。

 

心の守護神は肉体ぢゃと申してあらうがな。

 

肉体が心を守ってゐるのであるが、

ぢゃと申して肉体が主人顔してはならんぞ。

 

何処迄も下に従ふのぢゃ。

 

順乱すと悪となるぞ。

 

生れ赤児ふみこえ、生れ赤児になって聞いて下されよ。

 

そなた達の本尊は八枚十枚の衣着ているのぢゃ。

 

死と云ふことは、その衣、上からぬぐことぢゃ。

 

ぬぐと中から出て来て又八枚十枚の衣つけるやうになってゐるのぢゃ。

 

判るやうに申してゐるのぢゃぞ。

 

取違ひせんやうにせよ。

 

天から気が地に降って、ものが生命し、

その地の生命の気が又天に反影するのであるが、

まだまだ地には凸凹あるから、気が天にかへらずに横にそれることあるぞ。

 

その横の気の世界を幽界と申すのぢゃ。

 

幽界は地で曲げられた気のつくり出したところぢゃ。

 

地獄でないぞ。(十二月十四日)

 

 

黒鉄の巻、第一帖(六一九)

 

汽車あれば汽車に乗れよ。

 

飛行機あれば飛行機に乗れよ。

 

歩いたり、馬で行くのでは間に合はんことになってゐるぞ。

 

昔のままの宗教のやり方ではならん。

 

根本はよくても中々に目的地にはつかん。

 

飛行機時代には飛行機に乗れよ。

 

乗って進む宗教の道によらねばならん。

 

今は今の姿が真実ぞ。

 

そなたの頭で割り切れんと申してブツブツ申すでないぞ。

 

あるものそのものが真実であるぞ。

 

そのあるものを拝み、祝福して、其処から出発せよ。

 

現在を祝福することは過去を、未来を、総てを祝福することぞ。

 

たとへ如何なる現在も、その現在を祝福せねばならん。

 

喜びせねばならん。

 

喜びもとと申してあらうがな。

 

この巻くろかねの巻。(一月二十三日)

 

 

613>618

白銀の巻、第二帖(六一三)

 

判るやうに申すならば、宇宙はゝ真と愛との現はれであるぞ。

 

愛と真ではない。

 

 ゝ、愛、真、善、智であるが、愛真でもなく、善智でもないぞ。

 

愛と真が善と智と現はれ、喜びとなってはたらき、

ゝが加わって弥栄えた生命であるぞ。

 

愛のみと云ふものないぞ、真のみと云ふものないぞ。

 

愛と現はれ真と現はれるのであるぞ。

 

人間には現はれたものだけより判らんのであるが、

ことわけて申すならば愛には真かくれ、

真には愛かくれ、その奥にゝがあるのぢゃ。

 

人間はおやを父と母とに区別してゐるが、

母と現はれる時は父その中に居り、

父と現はれる時はその中に母ゐるのであるぞ。

 

何れも親であるぞ。

 

父となり母となり現はれるのであるぞ。

 

愛と真、善と智と区別して説かしておいたが、それは今迄のこと、

いつまでもそんなところでまごまごさしてはおけんぞ。

 

ゝが判らねばならん。

 

ゝのゝが判らねばならん。

 

男の魂は女、女の魂は男と申してあらう。

 

人間の目に愛とうつるものは外の愛、真とうつるものは外の真ぞ。

 

中から申せば外は御役の悪であるぞ。

 

今が過去で、今が未来ぞ。時間にふみ迷ふなよ。

 

空間に心ふみ迷ふでないぞ。

 

皮一枚ぬいで心でよく考へなされ。

 

いつも日が出てゐるでないか。

 

月輝いて御座るでないか。

 

力そのものに、力はないのであるぞ。

 

霊と肉の結びのみで力現はれるのでないぞ。

 

プラスとマイナスと合せて組みて力出ると思うてゐるのであらうが、

一歩ふみ出さねばならんぞ。

 

プラスとマイナスと合わせたのではプラスとマイナスぞ。

 

力出ないのざ。

 

ゝの力が加わって其処にヨロコビ出て、

理(ミチ)となり、なり、なりて真実と現はれるのぞ。

 

弥栄が真実ぞ。

 

神ぞ。

 

神の心ぞ。

 

竜神と申してゐるが竜神にも二通りあるぞ。

 

地からの竜神は進化して行くのであるぞ。

 

進化をうそざと思ふは神様迷信ぞ。

 

一方、天からの竜神は退化して行くのであるぞ。

 

この二つの竜神が結ばれて人間となるのであるぞ。

 

人間は土でつくって、神の気入れてつくったのざと申してあらうがな。

 

イワトしめとイワトひらきの二つの御用のミタマあると申してあらうが。

 

ミタマの因縁恐ろしいぞ。

 

愛と智は呼吸して喜びとなるのであるぞ。

 

よろこびは形をとる。

 

形なく順序なきもの〇であるぞ。

 

善と真のはたらきを完全にするには、

善と真との差別をハッキリとさせねばならんぞ。

 

とけ合はせ、結んでヨロコビと現はれるのであるが、

区別することによって結ばれるのであるぞ。

 

 ゝしなければならん。

 

すればする程 力強くとけ合ふのであるぞ。

 

大き喜びとなるのであるぞ。

 

このこと日月の民には判るであらうな。

 

道は三つぞ。

 

合点ぢゃなあ。

 

小の中に大あるぞ。

 

無の中に有(ウ)有るぞ。

 

もの益々小さければ、益々清ければ、

益々内に大きなものあり、益々純なものあるぞ。

 

神はそなたの中にあるが外にもあると申してあらうがな。

 

 f:id:satonory4949:20200222155725g:plain(ウム)よく見て下されよ。

 

愛はそのまま愛でないぞ。

 

真はそのまま真でないぞ。

 

善はナマでは善でないぞ。

 

智はナマでは智でないぞ。

 

ゝ入れて、結んで解けてヨロコビとなるのざ。

 

ヨロコビ生命ぞ。

 

宇宙の総て生命であるぞ。(一月一日)

 

 

白銀の巻、第七帖(六一八)

 

天国がうつって地が出来てゐるのぢゃから、霊の国は更に立派、微妙ぞ。

 

天界のもの光り輝き幽界のもの暗くなる違ひあるだけぢゃ。

 

その時の状態によって変化するが、総ては神が与へたのぢゃ、

現界同様、与へられてゐるのぢゃと知らしてあらうがな。

 

時間、空間もあるのであるが、ないのであるぞ。

 

同じ状態にあれば同じ処に住み、変化すれば別の所に住むのであるぞ。

 

見ようと思へば、念の中に出て来て、見ること、語ること出来るのぢゃ。

 

見まいとすれば見えんのぢゃ。

 

自分で見、自分で語るのぢゃぞ。

 

時、所、位、総てが想念の中、想念のままに現はれて来るのであるぞ。

 

判るやうに申すならば、時間も空間も映像であって、

情態が変るのみのことであるぞ。

 

情態のもと、本質は限りないから、無限であるから、自由であるから、

霊界は無限、絶対、自由自在であるぞ。

 

現界では、時間に順に得たものでも、

心の中では時間に関係なく、距離に関係なく、

一所へならべられるであらうがな。

 

心の世界で、時間、空間のない道理これでよく判るであらうがな。(五月八日)

 

 

614>617

白銀の巻、第三帖(六一四)

 

Θの中のゝの中のΘは一であり、二とひらき、三と生命するぞ。

 

理は一(ヒ)で二(フ)で、三(ミ)であると申してあらう。

 

一(ヒ)も二(フ)も三(ミ)も同じであり、違って栄えるのざ。

 

一二三(ヒフミ)であるぞ。

 

このこと教へられても判るまい。

 

ハラで判る大切こと、ハラ大切ぞ。

 

かたまってはならん。

 

ゝに捉はれるとゝは判らん。

 

地の定規ではかってはならん。

 

如何なる天国も自分でつくるのぞ。

 

そろばん捨てよと申してあらうがな。

 

よろこびは理(ミチ)ぞ。

 

数ぞ。

 

言ぞ。

 

真理ぞ。

 

愛善ぞ。

 

生命のイキと云ふこと判るであらう。

 

天国と申すのは一人の大きな人間であるぞ。

 

天国は霊人のみの住む所でないぞ。

 

そなた達も今住んでゐるでないか。

 

霊人も現界に住んでゐるでないか。

 

現界をはなれて天国のみの天国はないのであるぞ。

 

故にこそ、現界で天国を生み出し、

天国に住めんものが、死んで天国へ住める道理ないのぢゃ。

 

アメツチと申してあらう。

 

この道理よくわきまえよ。

 

善とか悪とか真とか偽とか愛とか憎とか申すのは相対の天国ぞ。

 

まことの天国には喜びのみが生きてゐるのであるぞ。

 

喜びの中にとけ入って、喜びのものとなってゐるのであるぞ。

 

喜び食し、喜び着、喜びを呼吸し、喜び語り合って、嬉し嬉しとなるのぞ。

 

いらんものは形が変って来る。

 

新しき生命 湧き出るのであるぞ。

 

善が悪と、真が偽と変った時は死となるぞ。

 

その死は新しき別の生命と現はれて、

新しき形の、新しき世界の善となり真となるのぞ。

 

善も悪もないのざと申してあらう。

 

善悪はあるが無いのざと申してあること判りたか。

 

自分自身、己の為の善は死し、善の為の善は弥栄えるぞ。

 

死んだものは新しき形をとって生命するのであるぞ。

 

弥栄の道、神の喜び人間の喜びの中にあるぞ。

 

愛ざと申して愛に囚はれて御座るぞ。

 

真ざと申して真に囚はれて御座るぞ。

 

喜びに生きよ。

 

宗教に囚はれてはならん。

 

道に囚はれてはならん。

 

喜びに生きて、喜びに囚はれるなよ。

 

お互に喜びの湧き出づることでなければ真の愛でないぞ。

 

理(ミチ)でないぞ。

 

天国に理あると申すが、

今の人間の申したり、考へたりするやうな道でないぞ。

 

道なき理と申してあらうが。

 

喜びが理であるぞ。

 

嬉し嬉しの理、早う合点せよ。

 

生命栄えるもの皆喜びであるぞ。

 

信仰とは、その喜びの中にとけ入ることぞ。

 

生も死もなくなるのざ。

 

時間や空間を入れるから、知(血)、通はなくなるのぞ。(一月二日)

 

 

白銀の巻、第六帖(六一七)

 

元の元のf:id:satonory4949:20200319171846g:plainからf:id:satonory4949:20200319171900g:plainf:id:satonory4949:20200319171916g:plainの中界を経て、

ウの現界に到る悉くの世界が皆人間に関係あるのであるから、

肉体はウであるが、魂はf:id:satonory4949:20200319171846g:plainに通じてゐるのであるから、

f:id:satonory4949:20200319171846g:plain はヨロコビであるから、

喜びが人間の本体であるから、

神界と云ひ、現界と云ひ、一本の国であるから、

人間からすれば、人間が土台であるから、神の礎であるから、

神しづまれば神人となるのであるから、

神界、中界、現界つらぬきて居らねば、

マコトの和合して居らねば、マコトの喜びでないから、

マコトの喜びが大神であるから、

大神の働きは人間によるものであるから、心せねばならんぞ。

 

ゝせねばならんぞ。

 

天使と云ひ、天人と申すも、

みなそれぞれの国の人間であるから、

喜びの人間であるから、

この道理判りたら、

地の世界と、中の世界と、天の世界と、みな同じであるから、

もちつもたれつであるから、

三千世界であるから、

地の上に禍あると、天の国にも禍ふのであるから、

天の国の生活は地の上に根をつけてゐるのであるから、

遠くにあるのでないぞ。

 

同じ所にあるのであるぞ。

 

幽界と申すのは道を外れた国のことざと知らしてあらうがな。

 

地獄無いと申してあらうがな。

 

このこと間違はんやうに、地獄地獄の言葉、やめて下されよ。

 

言葉からモノ生むのぞ。

 

只モノが違ふのみであるから、

人間の心が神に通ずるときは喜びとなり、

幽人に通ずるときは悲しみとなるのであるぞ。

 

通ずる心あるから心に自由あるのであるぞ。

 

弥栄あるのであるぞ。

 

この道理よくわきまへて下されよ。

 

天人に結婚もあれば仕事もあるぞ。

 

死も亦あるのであるぞ。

 

死とは住む段階の違ふ場合に起る現象ぞ。

 

死とは生きることぞ。

 

人間は皆、かみかかってゐるのであるぞ。

 

かみかかってゐないもの一人も居らんのぢゃ。

 

かみかからんものは呼吸せんのぢゃ。

 

このこと判りて居らうがな。

 

霊人は人間の心の中に住んでゐるのであるぞ。

 

心を肉体として住んでゐるのぢゃ。

 

その中に又住んでゐるのぢゃ。

 

ひらたう説いて聞かしてゐるのぢゃ。

 

霊人と和合してゐるから、かみかかりであるからこそ、

三千世界に働き栄えるのぢゃぞ。

 

神界のことも判る道理ぢゃ。

 

幽界のことも判る道理ぢゃ。

 

人間の云ふかみかかりとは幽界のカミかかりぢゃ。

 

ろくなことないのぢゃ。

 

かみかかりにも、かみかかりと判らんかみかかり結構ぢゃなあ。

 

まことぢゃなあと知らしてあるのに未だ判らんのか。(五月八日)

 

 

615>616

白銀の巻、第四帖(六一五)

 

凸凹(デコボコ)あるから力あらはれるのぞ。

 

凸凹あるため、善のみでも呼吸し、

又真(シン)のみでも呼吸(イキ)するのであるぞ。

 

偽善者も真を語り、真を伝へ得るのであるぞ。

 

愛を云ひ得るのであるぞ。

 

幽界と申すのは凸凹のうつしの国と申してあらうがな。

 

地獄ではないのざ。

 

仙人は幽界に属してゐるのざと聞かしてあらうが。

 

取違ひして御座るぞ。

 

愛は真と和して愛と生き、真は愛と和し、

愛によって真の力現はれるなれど、愛のみでも愛であるぞ。

 

真のみでも真であるぞ。

 

只はたらき無いのざ。

 

能(ハタラキ)ないもの力ないぞ。

 

喜びないぞ。

 

喜びないもの亡びるのざ。

 

ゝ入らねば悪となるぞ。

 

能(ハタラキ)なきもの罪ぞ。

 

穢れぞ。

 

善と悪と二道かけてならんぞ。

 

理(ミチ)は一本と申してあらう。

 

悪は悪として御役あるぞ。

 

悪と偽りの中に悪の喜びあるぞ。

 

善と悪の二道の中には、二道かけては喜びないぞ。

 

喜びないもの亡びるのざ。

 

御役の悪とは悪と偽りの悪であるぞ。

 

悪と善との二道かけての悪でないぞ。

 

心せよ。

 

悪は悪にのみ働きかけ得るのであるぞ。

 

善に向って働いても、善はビクともせんのぢゃ、

ビクつくのは、悪に引込まれるのは、己に悪あるからぞ。

 

合せ鏡と申してあらうが。

 

悪の気断ちて下されと申しておらう。

 

心の鏡の凸凹なくなれば悪うつらないのざ。

 

悪はなきものぞ。

 

無きとは力無きことぞ。

 

悪あればこそ向上するのであるぞ。

 

悔い改め得て弥栄するのであるぞ。

 

人間の能(ハタラキ)あるのざぞ。

 

ゝを忘れてはならん。(一月二日)

 

 

白銀の巻、第五帖(六一六)

 

人間に自由はないのであるぞ。

 

真の自由は、大神にのみあるものぞ。

 

大神の自由の一部が御喜びと共に神に流れ入り、

神に流れ入った自由は、又神の喜びとなって人間に流れ入るから、

人間自身は自由をもってゐると信ずるのであるぞ。

 

本質的には自由はないのであるぞ。

 

人間には自由の影があり、反影あるのざ。

 

それを人間は自由と心得てゐるのであるぞ。

 

自由の反影あるから、悪にも善にも、陽にも陰にも為し得るのであるぞ。

 

又進歩、弥栄するのであるぞ。

 

悪自由を、人間は自由と心得てゐるが、

それは自由ではなく、自分自身首くくるものぞ。

 

善自由こそ真の自由であるぞ。

 

自由は神から流れ出ると申してあらう。

 

他の世界と交流するは、他の世界に住む人間を通じてするのであるぞ。

 

世界とは人間のことでもあるぞ。

 

人間が世界であるぞ。

 

よく心得なされよ。

 

+(陽)と-(陰)と 〇とゝであるぞ。

 

+の陰には-があり、-の陰には+がある。

 

その和の状態が 〇でありゝ(イノチ)するのであるぞ。

 

+は+のみでは力ないぞ。

 

-は-だけでは力ないぞ。

 

+と-とだけでも動きないぞ。

 

生命の喜びないのであるぞ。

 

よく心得よ。

 

〇があって+-があり、+-がありゝがあって和があるのであるぞ。

 

ここの道理よく得心、合点せよ。

 

+は人間にとって直接の喜びでない。

 

f:id:satonory4949:20200215124119g:plainがぢきぢきの喜びぞ。

 

-も直接ではなく、f:id:satonory4949:20200319172155g:plainf:id:satonory4949:20200222155313g:plainが直接の喜びであり、

その二つが和しゝして嬉し嬉しと弥栄えるのであるぞ。

 

天地の中間を中界と申すぞ。

 

天の息吹きと地の息吹きの中間ぞ。

 

天国へ行くのも、行かんのも先づ落ちつく、

死後の始めての世界であるぞ。(一月二日)

 

 

 

はじめに

はじめに

 

 

このブログをスタートして約一年余りですが、

ブースカ明日香さんのおかげで、

ブログに訪れる方も増えてきましたので

 

今更ながらに、

「はじめに」を書きます^^;

 

 

 

私が、ひふみ神示を知ったのは、

約10年前だったと思います。

 

通読を一回は、したでしょうか?^^;

 

 

で、途中はちょっとすっ飛ばして^^

 

 明日香さんの

まぜまぜd(^_^o)ひふみ神示

を読み、

 

おこがましいのを覚悟で、

こそっと私のブログをスタートしたのでした・・・

 

 

本家は、

やっぱり明日香さんのまぜまぜd(^_^o)ひふみ神示

なので、

私のブログは、(仮)とさせていただきました。

 

 

 

 

ブログ内の本文は、

明日香さんと同じく

http://www.globalife.jp/life/hitsukusinjiword.pdf

 

のPDFを利用させていただいております。

著作者さんに

この場を借りて、御礼申し上げます。

 

 

そして、このPDFを活用しつつ、

 

ひふみ神示 岡本天明 (コスモ・ビジョン)』

 

を音読し、

内容の確認、文字の校正、読みやすさ、見やすさ

を考慮し、改行をしています。

 

 

特殊文字などについては、

明日香さんを真似して

 

『まるにちょん』→ Θ(シータ)

等としておりますが、

 

 

それ以上の難解文字については

 

ひふみ神示データー』

http://hifumi.uresi.org/

 

から画像をダウンロードさせていただいております。

こちらの著作者さんにも

この場を借りて、御礼申し上げます。

 

 

 

ひふみ神示をまぜまぜに読む理由は

 

明日香さんの「はじめに」も書いてある通り

https://boosuka-asuka.hatenadiary.jp/entry/2018/08/26/225549

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

海(ウミ)の巻、第二帖(四九四)

 

権小道師から上は神の帖面につくのであるぞ、参道は仮ぞ。

 

合せて四十九かへミタマ六参道仮ざからそのつもり結構ぞ。

 

一帖、三十帖、二帖、二十九帖と云ふ風に読み直して下されよ、

三十帖一切りとして上下まぜまぜにして上下ひっくり返して読み直してくれよ。

 

火の守護から水の守護に変って居るのであるから、

水の蔭には火、火の蔭には水ぞ、この事忘れるなよ、

この中には化物ゐるのざぞ、

化物に化かされん様におかげ落さん様に致して下されよ、

神くどう気付けおくぞ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

です。

以下、略します^^;

 

 

 

まぜまぜの順番は、間違いが無いように

エクセルにてあらかじめ通し番号を整理したものを

使っております。

 

 

 

その順番を整理していた中で

気づいたのが、

 

第十三巻 アメの巻 において

通し番号の(三三五)が記載されていないのです。

 

第一帖は、(三三四)、

第二帖は、(三三六)、

 

と、通し番号が飛んでいるのです。

 

 

とりあえず、私には分からないので、

 

(三三五)なし?

 

という形でブログを書いておりますが、

ご容赦ください。

 

 

 

どの巻まで続けたらよいのか、

分かりませぬが、

 

このまぜまぜブログをご活用していただけましたら

うれしいです。

 

どうぞよろしくお願いいたします。

 

satonory4949